雨の樹(後)
深く白い朝靄の中、埠頭に連絡船が到着した。
揺れる渡し板に乗って、外国人や家族連れの観光客、島の役場の関係者と思しき中年達、釣りの道具を運ぶ釣り人が上陸する。
その最後に、島に下り立ったのが、Tシャツにジーンズというラフな格好に大きなリュックやキャリーバックを持つヒロムと、いつものメイド服姿のレイミだった。
足元を、人を気にする様でもなく海鳥と猫がのんびりと歩いている。
「なんでその格好なんだよ」
鳥と猫から視線を背後にやって、ヒロムはげんなりした声で三回目の問いを投げかける。レイミは目尻をギリッと吊り上げて噛み付くように答えた。
「だから!仕事が長引いて着替える暇がなかったって言ってるでしょ!何回言わせるのよ!」
「お前のその格好のせいで、客はおろか船員にまで変な目で見られて……そしてこの自然しかないような島だぞ。その格好でどうしようっていうんだよ」
「いいのよ。これはもう、アタシの戦闘服なんだから」
ふんふーん、と鼻歌を歌いながらあくまで気楽に道を進んでゆくレイミの後姿に頭を抱えながら、ヒロムは酷く重い荷物を抱えてよたよたと歩き出した。
海鳥達が鳴きながら空へ羽ばたき始めた。
「ふぅーーーーーーーーっ」
深呼吸して息を整え、ありがとうございましたと頭を下げて控え室に戻ってゆく。カナは廊下で何度も深呼吸するが始めての収録の興奮は抑えられない。
(やった、やった……)
一話だけの名前も無い少女の役だが、これが初めてのプロとしての仕事だ。養成所に入って1年。早過ぎる、運が良すぎるかもしれない。けど、自分の手が間違いなく何か、大人の証のようなモノを掴んだ実感をカナは16にして覚えていた。
心臓がバクバクして動悸が治まらない。
控え室では養成所から一緒に来た先輩や、今はプロとして活動しているOBがカナを迎えてくれた。
「すいません、待っていてくださって」
「お疲れ様。元気でいい芝居だったよ」
中でも一番の先輩の鷲見が労いの言葉をかけてくれた。
「まぁ、まだまだ荒削りだけどね」
控え室のドアが開き、養成所の先生が入ってきた。おはようございますと生徒達の挨拶が合わさる。時計を見るとカナ達を迎えに来てくれる時間だった。リテイクが何回もあったせいでギリギリになったのだろう。
「先生、見てたんですか」
恥ずかしそうに頬を染めながら上目遣いでカナが言うのを、珍しくニヤニヤしながら教官が見下ろした。
「そうよ、もーちょっと声質安定すると期待してたけどね」
「うああああああ、ごめんなさいいいいいいい!」
頬に両手を当ててぴょんぴょん跳ねるカナに先輩達が笑う。
「いいわ、私も、デビューの時はもっと酷かった。次から上手くやれるようもっと鍛えていくからね」
「よ、よろしくお願いします!」
「んじゃ、ファミレスでもいこっか。みんな準備して」
午後からはレギュラー陣の収録が予定されている為控え室も空けなければならない。めいめいにカバンに荷物を詰め込んでいる時、慌てたようなノックの音が鳴り、教官がドアを空ける前に若い男性が入ってきた。さっき収録スタジオにいた音響スタッフの一人だった。
「あ!いらっしゃってたんですか、ご無沙汰しています。よかった、ちょっとご相談が!」
男性は教官の顔を見るなり背筋を正して一礼した。カナも業界でも顔の利く人だと知っていたが、実際にこういう場面を見ると改めて凄い人に教わっているんだと実感した。
「どうかしたの?」
「ちょっと……よろしいでしょうか」
「もう一回!抑えて、語尾を弾けさせない様に!」
教官の厳しい声に怯みあがりそうになる肩を必死に抑えつけて、カナはマイクに向かって口を開く。額から、先程の収録の時とは比較にならない量の汗が流れ落ち続けている。
「『お姉ちゃんがいなかったら……私、今ここにいなかった……辛いの、わかってる。でも……!』」
荒れそうになる呼吸をコントロールする術もこの教官から教わったものだ。今出来る最大の技術を見せて、カナは傍らの教官に顔を向けた。
目を伏せてじっとしている女教官が、ふぅぅぅ、と溜め込んでいた息を吐いて、ブース外の音響監督、そして総監督の方を見るがその視線の先はとても怖くて追えない。すぐに教官がこちらを向いてキッ、と厳しい瞳でカナを見据えた。
「今の調子を忘れないで。くれぐれも、明るすぎないように」
「ハイ!……でも、本当にコレ、私が……弓束さんがやる役なんですよね……?」
「いらないって言うなら、私がやるわよ」
おどおどするカナに、一言、教官は冷たく言い放った。その目はいつもの指導者の目では無い。まるで狩をする冷たい猛禽のそれにも見えて一瞬心が怯える。
が、後ずさりそうになった脚をカナは逆に前に一歩踏み出した。
「やります!」
勢いで、半ば食いつくように口走ってしまった。その肩にぽん、と手を置いて教官が黙ってブースを出てゆく。
一人になってしまった寂しさに固まりかけたが、我に返り慌てて背後の監督達にに一礼し、マイクに向き直った。
(落ち着いて。大丈夫、今オッケーもらったもん……大丈夫……大丈夫……)
動機はもう限界に近い。それなら、それを普段の事にすればいい。これ以上は上がらないのだと言い聞かせる。カナは大きく、ゆっくりと息を吸い込んだ。
急に舞い込んだ新たな仕事。それは次週分から登場する新キャラ、ヒロインの妹の収録だった。本来ならデビュー二年目、人気急上昇中の弓束シイナにキャスティングが決まっていたが、当日になり体調不良の為にスタジオ入りできなくなったと事務所から連絡が入った。本来なら回復を待つところだが、スケジュールが逼迫しており、これ以上はどうしても伸ばせない。そのため、今すぐ仕事ができる人材の中で代役を立てる必要が生まれた。
たまたま午前中の収録でスタジオ入りしていたカナ達にその話が振られ、キャラ設定と台本を読み込んだ上で教官を含む全員が相談した結果、まだ名前のあるキャラクターに就いていないカナがその大役を請け負う事になった。
「しかし、本当にいいんですか監督。弓束さんを使うのは、プロダクションや局の会議で決まった話なんでしょう?」
教官が総監督の横に座りながら問いかける。
「止むを得ない。弓束ちゃんには新しくキャラを立てるさ。それに、あの子は使ってみたい声を持ってる……」
「こんな事なら、もっとビシバシ鍛えておくんでした」
「まだ荒削りな所がうまく作用するかもしれない……逆に少しワクワクしてきたよ」
なら、良いですけどねと会話を打ち切る。見守る教官の両手のネイルが、汗ばむ手の平に突き刺さった。
ルミナは東海林から大き目のD-USBメモリと目録代わりのピクチャーシートを受け取った。
「この中に?」
「そう、弾薬、ミサイル、ジャケットアーマー、それに悠南支部から預かった武器が入っています。データ量が多すぎて無線で送るわけにはいかなかったので」
マサハルが言っていた意味を理解してルミナは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、わざわざ」
「いやいや、こちらこそ。彼らの面倒を見てもらってるばかりか補給までこんなギリギリになってしまって申し訳ない。あと二日だけど、よろしくお願いします」
腰が低すぎる東海林はぺこぺことルミナ以上に頭を下げて、それからワタル達の方へ向かっていった。
(真面目な人なんでしょうけど……)
男性には、その年齢に応じた威厳とか持っていて欲しいものだなとルミナは考えてしまった。
「届いた?」
入れ違いでシャワーから帰ってきたユキオが来た。ルミナはピクチャーシートを手渡しながら頷く。半ばまだ湿っている頭にタオルを乗せながらユキオがシートに目を通す。
「……ガトリング砲の弾が少ないな」
「え、そうなの?」
『5Fr』の右肩に搭載されている重ガトリング砲の弾丸は、今回から使用しているマサハルの『2B』が持つマルチガンランチャーのそれと同じものを使用している。届いた弾薬の数は二機にそれぞれ装填すると一戦闘分あるかないかの量だった。
「どうするか……」
目録を睨みながら唸るユキオの横から覗きこんだルミナが、一つの項目に気付いて指を差した。
「玖州君、コレ」
「見ないようにしていたのに……」
ルミナの差している先にはPMC砲の名前があった。以前、試作マルチガンランチャーと同時期に『5Fr』でテストした武器である。マヤが気を利かせたのか、一緒に詰め込んだようだ。
子供がいやいやするように首を振るユキオにルミナが意外そうに訊く。
「ダメなの?」
「ダメというか……使い慣れて無いから……。残弾管理が難しいし」
「でも、火力はガトリングよりあるんでしょ。こないだの出撃で物足りないみたいな事言ってたじゃない」
「う、うん……でも」
何気なく呟いた事を良く覚えているなと思っていると、ずい、とルミナが聞き分けの悪い子供を諭すような顔を寄せてきた。その距離の近さにユキオが意表を突かれて慌てる。
「ワガママ言えるほど、余裕無いと思うけど?」
「まぁ……そうだね」
まるで嫌いな野菜を残さないように叱る母親のような物言いである。実際のユキオの母はこんな優しい言葉は使わなかったが。
「じゃ、白藤さんと一緒に換装しておくね」
ニッコリと満足そうに笑ってルミナはメモリ片手にトランスポーターへ向かっていった。
(まいったな、どうも……)
いつの間にか、最近どうも手玉に取られているような気がする。悪い気分ではないが、ユキオはその後姿に将来への不安を覚えながらクセのある髪を乾かそうと首を振った。
<センチュリオン>悠南支部、待機室。
飛羽やユキオ達の不在の間、予備戦力として逗留している民間防衛会社<メネラオス>の部隊長、アレックスが苛立ちながら部下を問いただしていた。
「もう五日目だぞ。まだ見つからないのか」
「それが……だいぶ深い所まで潜ってはみたのですが、サーバーに元のプログラムが見当たらず……」
分厚いメガネをかけ直す部下が、オドオドと答える。気弱な男だが腕前は確かで、アレックスも信頼を置いていた。
部下の椅子に手を置いて画面に近寄る。調査データは全て手がかりが無かった事を示すコードばかりだ。
「どういう事なんだ」
「考えられるのは、トレーサーが持っているメモリーキーにマスタープログラムが格納されている可能性が……」
「ここの連中はそんな事しているのか?」
信じられん、と鼻息も荒く言いながら離れるアレックスに、メガネが同調するように頷く。
「常識ではありえない事です。いつメモリーキーが破損するか……ですが我々が追っている代物の事を考えると、そもそも常識から疑うべきなのかもしれません」
「フゥ……ム」
厄介事を嫌うアレックスが不機嫌そうに唸り腕を組む。そこに、出撃要請のサイレンが発報した。
「全く、なんだこの基地は!次から次へと仕事を出しやがって!」
「とにかく、もう少し探りは入れてみます」
「わかった、俺は延長の手続きを取る。どうせあと一日じゃ見つかるまい」
「すみません」
アレックスはメガネの部下に手を振りながら、頑丈な厚底のブーツを鳴らし待機室を出た。