楓(前)
五 楓(前)
十月が終わろうとしていた。朝晩はかなり肌寒くなり、空気も乾き始める。そろそろコートを出さないとな、と思いながらルミナは鮮やかな枯葉の舞う校門を抜けた。
初出撃から、何度か小規模な戦闘に参加し、ルミナもようやくウォールドウォーに慣れてきた頃だった。
(そういえば、今日は確か神谷君達のインタビューがTVで放送される日だったかな)
確か数日前、カズマからそんなメールが来ていた記憶があった。パンサーチームのもう一つの重要な任務である、日夜市民の為にマイズアーミーと影ながら戦う<センチュリオン>の実態を説明する仕事だ。
ライトグリーンの薄いケータイを取り出しメールBOXを確認すると、確かに今日、もうすぐオンエアで流れるようだった。
家で見ようと思っていたが、クラスメートの女子達に捕まりとりとめもない流行のドラマやファッションの話に付き合っていたせいで帰りが遅くなってしまっていた。
(どうしようかな…)
ケータイで観ても良かったがどうせなら大きな画面で落ち着いて観たかった。
家まで帰る時間はとてもないし…と黄色くなったイチョウが並ぶ通学路を見回すと、いつも走って脇を抜けるコンビニと、その先のガレージが目に入った。
「そうだ」
ルミナが<センチュリオン>悠南支部のミーティングルームに入ると、何人かのスタッフが件のカズマ達が出るワイドショーを見ていた。
まだインタビューは始まっていないようで、ほっと安堵の息を漏らす。こんにちは、と挨拶をして音を立てないように端のパイプ椅子に腰をかけようとした時、その後ろのルミナの入ってきたドアが再び開いた。
「あれ、奈々瀬さん?」
ドアを開けたのはユキオだった。手に何か持っているらしく、上手くドアが開けられないようだ。ルミナがノブを引いてユキオが通りやすいようにすると、ありがとう、と言って自分より少し背の低いユキオがよいしょと入ってきた。
手には黄色と紫の花が植えられた大きめのプランターがあった。
「それ、パンジー?」
「ああ、うん少し早いけどね、ちょっと知り合いにもらえたから」
そう言って背の低い資料棚の上にプランターを置く。背の低い黄色と紫の可愛らしい花びらが揺れて、殺風景なミーティングルームの空気が少し柔らかくなったような感じがした。
「ルミナちゃん、始まるよ?」
「あ、はい」
メンテチームの一人がそう話しかけてきたので、ユキオを横目に先程の席へ座る。ユキオは廊下に置いてあるもう一つのプランターを取りに行った様だ。
『と、言うわけで本日はマイズアーミーの脅威から市民を救うべく戦う若き高校生戦士にスタジオに来ていただきましたー』
ワイドショーのスタジオにカズマとマサハルが入ってきた。いつもの制服ではなく、オシャレな私服で賑やかなスタジオに馴染んでいる。ルミナは勝手に収録だと思っていたが生放送のようだった。
(同じ十六歳なのに、度胸あるのね……)
ぶっつけ本番の放送にもかかわらず堂々としているカズマの表情にルミナは感心した。
横のマサハルも慣れた様子でニコニコと笑っている。
『早速ですが、お二人は<センチュリオン>にスカウトされて、アーミングトルーパーと呼ばれるマシーンで戦ってらっしゃるんですよね』
若い、その辺の女子大生のような雰囲気のアナウンサーがくるくると巻いた栗色のロングヘアを揺らして二人にマイクを向ける。
『はい、<センチュリオン>悠南支部のメインの戦闘班、イーグルチームのサポートとして活動しています』
カズマがそう言う後ろのモニターで、パンサーチームの過去の戦闘シーンが流れ始めた。
それはルミナが参加する前の戦いのようで、カズマの『ファランクスAs』を中心に編集されたカットになっている。
『はい、今コチラで神谷君達パンサーチームが実際に戦っている様子が映っていますが…お二人とも怖くはないですか?』
『最初はやはり怖く感じました。でも自分達の生活を守るためですから、<センチュリオン>の皆さんや各都市で戦う自治体、民間の組織の方々に頼るだけでなく自分達も頑張らねば、という気持ちで戦っています』
澱みなく出るマサハルの言葉に、ミーティングルームにおおー、という感嘆が洩れる。
ルミナの隣に座ったメンテチームのアルバイト、佐伯メグミが小声で、アレ、昨日すごい練習したんだって、と面白そうに耳打ちするのでルミナも口を押さえて小さく笑った。
『素晴らしいですね、普通はこのアーミングトルーパーの操縦者、トレーサーのプロフィールは非公開にされていますが、お二人はその活動内容を紹介する為にこうしてご協力頂いてます』
『はい、自分達も実際にウォールド・ウォーで戦うまでは、報道されているようなドクターマイズの戦争行為が実感できませんでしたし、自分の両親やクラスメートもそうでした。でも現実的に毎日のようにこういった侵略行為と戦っている人たちがいるということを知って頂きたく、僕達が広報のお手伝いをさせて貰っています』
『確かに、こうして戦っている様子を見ても、なんかCGの映画を観ているようで中々私達も戦争に脅かされているという実感を持ちにくいものです』
ルミナも、なるほど、と納得した。身内にドクターマイズと戦うマヤがいる自分の家庭では、早くからウォールドウォーに対して知識や現実感があったが、周囲の人々の中には関心の薄い人も多かった。
<センチュリオン>が無事マイズアーミーを退け続けさえすれば、普通に暮らしている一般の人々はウォールドウォーの存在自体を知らなくても一向に問題ないからだろう。
そういった人々からすれば、税金を投与されている<センチュリオン>の存在や活動自体が不明瞭で、下手をすれば必要性を疑われてしまう対象になりかねない。それでカズマ達が広告塔となってこういった活動をしているわけだ。
(私は断ったけど、いつかこういう事もしないといけないのかな)
ルミナが少し迷いながらテレビを見続けているうちに、インタビューは終わりを迎えてしまっていた。隣にいた佐伯も「じゃあね」と軽く挨拶して席を立つ。見回すとミーティングルームにいたスタッフ達が短い休憩を終えてそれぞれの席へ帰ってゆき、残ったのは学生服姿のルミナと、パンジーに水をやるユキオが残った。
普段は無表情気味で考えていることが分かりにくいユキオの表情がいつもより心なしかほころんでいる。
クラスでも、<センチュリオン>に所属しているユキオはそれなりに有名人なようで(さすがにクラスメートにはバレているようだ)時々話題を聞くが、あまり女子からの評判は芳しくない。
しかしルミナにはマメで配慮も出来て、おまけにこうして花に笑顔で水をやるこの同級生が嫌悪される理由は無いだろうと不思議に思った。
「玖州君、お花、好きなの?」
静かになったミーティングルームで急に話しかけられてユキオはふえぁ?と変な声を上げた。
「い、いや、花と言うか植物を育てるのは好きだけど…ここ殺風景だからさ、アリシアさんに相談して花でも置こうかなって…」
「そうなんだ、私も花は好きなんだ。確かになんか雰囲気良くなったと思う。暇な時はお水とかあげていい?」
「あ、うん、助かるよ」
そう言うと少し目線を逸らすようにしてユキオがまた水を慎重にやり始めた。株ごとに適切な量を見極めていて、確かに植物に愛情があるようだ。
「玖州君、結構本部にいる事多いよね。メンテナンスで来ているの?」
「まぁそれもあるけど…最近ウチにうるさいのがいてね…」
うるさいの?とルミナの頭に疑問符が浮かんだ時、ミーティングルルームのドアをバンと音を立てて開ける人物がいた。
ユキオとルミナがびっくりして飛び上がりながらそちらを見やるとポスターやら書類を抱えたルミナの姉、マヤがへぇ、と言いたげな顔で入ってきた。
「ああ、今日は例のワイドショーの日だっけ。ルミナもわざわざ観に来たんだ」
「うん、家に帰るのに間に合わなくて…」
そっかそっか、と言いながらマヤが胸に抱えていた書類をどすんと机に置いて、首筋をほぐすようにぐるぐると回した。
「あ、そうそう、パンサーチームの皆さんに日頃の働きに感謝を込めておもてなしがあるんだけど」
皆さんと言ってもここには二人しかいませんが、という顔でユキオとルミナがマヤを見る。この二人、何かと似たとこがあるわね…と内心マヤは思った。
「おもてなしって?」
「ルミナは知ってると思うけど、私の親戚で、実家が温泉宿の大山ってのがいるんだけどね」
「ああ、一度お邪魔したことある…ええとなんか大きくて人の良さそうな人の」
「そうそう、ソイツが遂に親御さんから経営を継いで宿をリニューアルしたって言うから、ここは一つ日頃のみんなの疲れを癒すついでにお祝いに行こうかなと思ってさ」
寒くなってきたしねぇ、お婆さんのように溜息をつくマヤに二人が苦笑する。
「お代はこっちで持つからさ、ちょっと息抜きにね?」
「いいんですか?お金なら結構貰ってるから払いますよ」
と、遠慮がちに言うユキオにいいのいいのとマヤが手を振る。
「ユキオ君には特に助けられてるからさ、ちょっと経費をチョロまか…いや4人くらいぽーんと払いますよ」
じゃあ、来週空けといてねー、と来た時のように去ってゆく能天気な女性を見送って、ユキオとルミナが取り残された。
「…奈々瀬さんのお姉さんって、ずっと思ってたけど…」
「ごめんなさい」
ユキオの言いたい事を察し、ルミナが申し訳無さそうに謝る。その口調が言い慣れているように聞こえるのは気のせいではないなとユキオは確信した。
「い、いや、でも楽しみだよ。温泉なんてあんまり行かないから」
「うん、そんな遠くじゃないんだけど景色もいいし、ご飯も美味しいしいい旅館だった。楽しみだね」
そういって微笑むルミナの笑顔が、女性に免疫の無いユキオのハートを揺さぶった。
(この人、俺の事嫌いじゃないのかな…)
基本女性から敬遠されていると思い込んで生きているユキオは、そんなとんちんかんな疑問と、先程からのやり取りで、ほんの僅かに生まれ始めたルミナへの好意をなんとか消そうとして心の中で激しく地団駄を踏んだ。
少し脂汗さえ浮かび始めたユキオの顔を、ルミナが怪訝そうに覗き込む。
「どうかしたの、顔色なんか悪いみたいだけど……」
みなまで言わせず、ユキオはバッと身を翻し、ドアの方へ大股で飛びよった。
「いや、急に、宿題がたた溜まっていたことを、思い出して!じゃあまた!」
瞬速、ぽっちゃりした外見からは思いもよらぬスピードでユキオが駆け去る。より怪訝そうな顔でルミナはその背中を見送ったが、追いかけて訊くほどでもなし、と小さく溜息をついてプランターの黄色いパンジーを振り向いた。
「温泉か…」
三日後、十一月頭の連休。マヤに呼ばれパンサーチームの四人はそれぞれ私服で校門前に集まった。
ユキオは「温泉いいなー!ズルイズルイズルイズルイズルイズルイ!」と大声を出しながら服のすそを引っ張るカナをなんとか振りほどいて、集合時間ギリギリに到着した。
(なんであいつは朝からあんなにエンジン全開なんだ…)
とあくびをしながらグチるユキオの横で、マサハルがニコニコしながらカズマに話しかける。
「温泉とか久しぶりだわー、楽しみだな!」
「オレはこないだ箱根行ったけど、いいよな、温泉」
さらりと金持ちを匂わせる発言をするカズマにやれやれと心中で溜息をついてユキオは時計を見る。十一時四分。集合時間から既に三十分が経過していた。昼近くではあるが乾いた冷たい風が四人を時折身震いさせる。
「ご、ごめんねみんな。姉さんもすぐに来るって言ってたんだけど…」
そんなユキオを見てルミナは申し訳無さそうに謝る。三人もマヤが多少時間にルーズなのはここ数ヶ月の付き合いで分かっているので苦笑いを見せただけだった 。
「まぁあの人の事だから、少し体が冷えた方が温泉がありがたいとかなんとか言いそうだが…」
と、カズマが茶化すようにそう言っている途中で、狭い路地を乱暴な運転で駆け抜けて、一台の大型ワゴンのようなトラックが到着した。
「な…」
一同が絶句する。でかいのは当然、トラックはウォールドウォーにアクセスする為のコクピットポッドを一台搭載した、<センチュリオン>のトランスポーター(移動基地車両)だったからだ。
ユキオは話には聞いていたが、当然見るのは初めてでこんな物がいきなり現れるなど想像もしていなかった。
四人が呆然としていると、運転席のウィンドウが開きマヤの見慣れた笑顔が出てきた。
「いやー、ゴメンゴメン!使える車がこれしかなくって!」
(レンタカーとか借りてくればいいんじゃないか…?)
と4人は全く同じ事を考えたが、連休にワゴンタイプやファミリークラスのレンタカーが残っている可能性は低いなとカズマは考えて、まぁいいけどさ、とユキオ達をキャビンへ押し込んだ。
トランスポーターのキャビンはナビゲーターやオペレータがトレーサーをバックアップするレーダーやインフォメーションパネル、大容量バッテリーが所狭しと備え付けられており、助手席へ最後に逃げ込んだカズマ以外の三人はめいめい小さなシートに座るしかなかった。
ルミナが「ホント、ゴメンね…」と狭い肩幅をより縮めて小声で謝る。そんな妹の気持ちも知らず、マヤは掛け声つきでアクセルを踏み込んだ。
能天気な大人が運転が乱暴である、と言うのはマンガでよく見る話だよな…と思いながらユキオは二時間半のジェットコースター、もといドライブを終えてキャビンから転がり出た。
後ろを見ると気持ち悪そうに口を抑えて青い顔をしているルミナをマサハルが支えている。彼もまた若干足元がおぼつかないようだ。
「三人とも生きてるかー…?」
と声を掛けてきたのは、これまた青白い顔をしたカズマだ。最初は助手席に一人逃げ込んだカズマに恨みの声がキャビンで上がったが、山道を爆走する頃にはもうそんな些細な事は関係無いなとユキオもマサハルも思っていた。
「いやー、やっと着いたわね!」
一人爽やかな顔でマヤが運転席から降りてくる。赤いチェックのベストにチノパンを履いたラフな姿が新鮮でチャーミングだったが、若者達はそのファッションに注目する元気は無かった。
そこに少し離れた駐車場の入り口から、どたどたと駆け寄る巨漢が現れる。
「いやー、どうもどうも、大山です。お待ちしてましたよ!」
ルミナが以前言っていたように、ユキオの二周りは大きな体に人の良さそうな細目の青年がニコニコと笑顔を浮かべて五人から荷物を受け取る。
「久しぶり、どう?若旦那の役職は」
「いやぁ、いろいろ前途多難でさ、やっと先日温泉の制御管理用コンピューターを動かしたところさ。ジイサマは嫌がったがジイサマが死んだら誰も出来ない仕事だから仕方ないよな」
笑いながら、さぁどうぞどうぞと案内する大山の巨大な背中に従って、ユキオ達は疲弊した体で続いた。とにかく一刻も早く休みたい。ユキオが嘔吐をこらえながら視線を上げると、それ程大きくも無いが年季の入った瓦と門構えを持つ風情のある旅館の姿が目に入った。とにかく安心できる宿のようだ。
夕飯にはマヤの顔なじみの店で美味い焼肉も食べられるらしい。道中は散々だったがとりあえず楽しみな週末になりそうだとユキオは考える事にした。
部屋に入り、この辺の名産品らしい梅抹茶という微妙な組み合わせのお茶を淹れたがやっぱり味も微妙であった。
ユキオはその感想は黙って、カズマとマサハルにも茶を振舞ったが、二人とも同じように黙って渋い顔をするのみであった。
普段ならユキオに八つ当たり交じりの文句が飛び出ている所だが、三人とも奈々瀬交通の暴走特急で完全に参っていた。
むしろ胃酸をヘビィに押さえてくれる梅抹茶はありがたいとも言える。
(奈々瀬さんは大丈夫だろうか…)
ふとルミナの具合を無意識に心配している事に気付き、ユキオはまたぶるぶると頭を振った。
最近自然と新しく仲間となった彼女の事を考える時間が増えている気がする。彼女に余計な感情を抱かない方がいい、と自分に改めてクギを刺す。
どうせ好きになったって付き合ったり出来る訳が無い。むしろあんな美少女と親しく話せるだけで幸運なのだ。
このまま同じパンサーチームで一緒にうまくやっていく為にも、今の距離感は重要だ。そう決心して目を開く。
「どうしたユキオ、調子悪そうだな」
そう訊くマサハルにカズマがツッコミを入れる。
「あんな運転で平気な顔していられるヤツがいるかよ。むしろ三人ともよくゲロ吐かずにたどり着けたもんだぜ。マヤねーさんもホント残念なトコ多すぎだろ…ユキオ飯まで寝てていいぞ、あとで起こすからよ」
体調を心配してくれたのか、珍しくそう気を回してくれたカズマに少し驚きつつも、ユキオは小さく礼を言った。
窓の外を見れば深い緑から鮮やかな赤へ、無数の木の葉がまさに今装いを改めているのが目に入る。植物に興味を持つようになってこういうことにも少し感動できるようになったユキオだが、その風景も体調不良には敵わず、んじゃ、よろしくと二人に言い残し座布団を枕に畳に横になってしまった。
「ユキオ、大丈夫か?」
ユキオがマサハルの声で目を覚ました時には、部屋はもうかなり暗くなっており大分時間が過ぎているのがすぐに分かった。マサハルはさっきと違う服に着替えており、さっぱりした顔をしている。
「メシ、行くってよ。悪いけどカズマと先に風呂入らせてもらったわ、旅館の前の道を降りてすぐの交差点の先にある銀牛って店らしい。カズマとルミナちゃんは先に行ってるからユキオも準備してから来いよ」
そう言うと、ハラ減ったー!とボヤきながらマサハルも部屋を出て行き、ユキオは一人暗い部屋に取り残された。
寝起きのせいか、まだ頭がクラクラする。声を出そうとしたが、喉がカラカラでぐぅええ、とカエルが潰されたような音が出るのみだった。
ひとまず喉を潤そうと目に入った梅抹茶に手を伸ばす。味はイマイチだったが、寝起きにはいいかもしれない、とポットのお湯を急須に入れ、あまり時間を置かず薄めに湯飲みに注ぐ。
再びなんとも言えない酸味と苦味が口内を襲ったが、胃腸の調子は良くなったようだ。
「…よし」
食欲も出てきたような気がする。ユキオは立ち上がって着替えを始めた。温泉は後でゆっくり浸かる事にしよう、と考えていると、廊下を慌しく駆け行く足音と騒々しい声が聞こえてきた。
(何だ…?)
静かな旅館に似つかわしくない喧騒に眉を顰め、ドアを開けようとノブに手を伸ばしたところで先にそのドアが開かれ、顔を赤くしたマヤが駆け込んできた。走って来たのか息も荒く、後ろに軽くまとめている髪もほつれてしまっている。
「ど、どうしたんですか…?」
「よ、よかった…残っててくれて…」
ユキオが気を効かせて冷蔵庫からペットボトルの水を渡す。それを慌てて一気に半分ほど飲み干してマヤがはぁ~っと深く息をつくと、ペットボトルを放り投げ、ガッシとユキオの両肩を掴んだ。
「おねがい、手を貸して!」
ペットボトルがころころと床を転がり水溜りを作るのをちらりと見つつも、マヤのただならぬ剣幕にユキオはこくこくと首を振ることしか出来なかった。
「ホントに良かったわ…しかも残っていてくれたのがユキオ君ってのが最高ね」
少し落ち着いていつもの調子を取り戻したのか、汗が滲む顔に笑みがこぼれる。そんなマヤを見て、ユキオは両肩からマヤの手をひっぺがしながら訊いた。
「何があったんです?」
「そうそう、本題!実はここの温泉の管理システムがマイズアーミーに襲われててね」
「はぁ!?」
あの虫どもは温泉宿にまで仕掛けてくるのか、と呆れるユキオにマヤが続ける。
「お湯の調整なんかを昨日から全部コンピューター任せにしてるんだけど、地元の防衛業者にまだ届出を出してないみたいでね、当然<センチュリオン>にもシステムデータやなんかを提出して無いから呼び出しようが無くって」
「ど、どうするんですか!?」
ニヤッとマヤの唇の端が上がる。獲物を見つけた時の猫のような嬉しそうな表情だが、ユキオはそれを見ていい思いをした覚えが無い。
「ポーターちゃんで来たのは最善だったと言う他無いわ、ここのシステムにアレを直結して、ダイレクトにウォールドウォーに介入するの」
「ええええええええ!?」
さすがのユキオも驚いて大声を上げた。あの車両にはポッドは一台しか搭載されていない。当然『ファランクス5E』のキーは持って来ているが、本部とアクセスが取れないのでは、防衛用のAIトルーパーを呼び出す事も出来ない。文字通り単機で戦闘を始めなくてはいけないと言うことだ。しかも攻撃は既に始まっているらしい。
「大丈夫、被害はまだ微少よ。おそらく『フライ』級が二、三機ってトコみたい。ちゃちゃっとやっつけて肉を食べて温泉入りましょ!」
完全に問題は解決した、と言わんばかりのマヤの肩越しに廊下を覗くと、旅館のスタッフが走り回ったり、他の宿泊客に何度も頭を下げているのが見えた。
おそらく温泉が使えなくなって謝罪したりなんとか復旧させようとしているのだろう。そういうのを見てしまうと根が親切なユキオは嫌だとは言えなくなる。
(…やるしか、ねぇよなぁ)
目を閉じて息を吐いた。すっかり焼肉を食う為に胃酸を準備していた腹をなだめすかせて、マヤの方を見る。
「行きましょう、すぐ立ち上げて下さい」
「ありがとう!さすがウチのエース!」
くるりと翻るように踵を返し、マヤが廊下を走って玄関の方へ駆け出した。自分も続かねばならない、と慌ててクツを履きながら、ユキオは自らのツキの無さを嘆いた。