ポーチュラカ(後)
ナルハの芝居を見に行った二日後、マイズアーミーの小規模な攻撃がありパンサーチームに出撃要請が出されたが現場に向かったのはユキオとルミナの『ファランクス』だけであった。
幸いにも敵の手勢も少なく、評価試験装備のままの『5Fr』と『St』のみで襲撃は退けられた。
「体調不良……ですか」
マヤからナルハが来れなかった理由を聞いたユキオは、戦闘後、悠南支部でルミナと別れた足でナルハのアパートへ向かった。途中のスーパーで栄養ドリンクやカロリースティック、それから万が一の為にビニール傘などを買い込む。
朝から曇り気味だった空は、さらに崩れ始め重苦しい色で埋め尽くされている。季節に合わない生ぬるい風に嫌な物を感じながらユキオはアパートのボロい鉄の階段を昇った。
「草霧さん、いますか?玖州ですけど」
ドアの向こうに声を掛けると、ややあって板の間を歩く足音とが聞こえ弱々しくドアが開いた。その向こうからマスクをしてどてらを羽織ったナルハが顔を出す。
「ユキオ君……?」
「差し入れです。体、大丈夫ですか?」
「ああ、ただの風邪だから……」
咳はしていないものの顔は明らかに赤く熱がある事が見て取れた。すぐ帰ります、と言いながらユキオはよろけるナルハにベッドまで肩を貸した。
力無く布団に沈むナルハに毛布をかけながらユキオが訊ねる。
「ご飯、食べてますか?」
「本番が終わってから調子悪くて……あんまり……」
「何か冷蔵庫にありますか?」
「野菜とか……あと缶詰と凍らせたご飯くらい……」
普段とは全く違い弱々しいその姿にそのまま帰るのも忍びなく、ユキオは台所に向かった。古臭い白物のレンジでご飯を解凍し鍋を火にかけつつ、冷蔵庫の中の痩せたニンジンとキャベツを手早く切り刻む。
簡単に鰹節でダシを取って湯掻いたご飯に野菜を混ぜ、醤油で軽く味をつける。その上に秋刀魚の缶詰をのせた丼をナルハの枕元へ運んだ。
「すごいねぇ、ユキオ君」
「たいしたもんじゃないですよ……食べれそうですか?」
「ありがとう、いただきます」
恭しく両手を合わせて一礼してから、ナルハはゆっくりとスプーンでユキオの作ったおじやのような物を食べた。
「ン、おいしい」
「良かったです」
正直自信の無かったユキオはホッとした。風邪でナルハの舌が馬鹿になっているのかもしれないが。
少し食べ物を腹に入れたことで、ナルハも元気を取り戻したようだった。
「稽古とバイトをキッツキツに入れたからねぇ……反動で疲れが出ちゃったんだねー」
「そうなんですか」
「芝居、来てくれてありがとうね。退屈じゃなかった?」
その言葉を聞いて、ユキオはまだナルハに感想を伝えていない事を思い出した。二人が見に行った公演は千秋楽で、芝居が終わった後の役者達の周りには友人や関係者と思しき人々が固まりとてもその場では話しかけられずユキオとルミナは挨拶できずに席を外したのだ。
「いや、なんか、凄かったです!まるで本物の人、あ、本物は本物なんですけど……作られたお話とは思えなくて!」
「良かったー。頑張った甲斐があったわ」
弱々しいいが、その感想にナルハがニッコリと笑う。半分ほど残っている丼を横に置いて、コップにペットボトルの水を注いで飲み干すとナルハはまた横になった。
「ごめんね、せっかく来て貰ったのに」
「い、いやいいんです。それより早く元気になってください……アレ?」
付けっぱなしになっているテレビから、なぜか予期せず聞きなれた声が聞こえた。驚いて画面を見ると、それはカズマとマサハルのデビューシングルのCMだった。
思わぬその映像に言葉を失って見ていると、ナルハが口を開いた。
「おおー、サマになってるじゃん」
派手なライトとスモークの中で歌っている二人は、いっぱしのミュージシャンに見えなくも無かった。二人が歌っているところなど見たことも無いが相当練習したのだろう。激しい振り付けもこなしながら15秒ほどのその映像は終わった。
「……アタシね」
TVの方を向いたまま、ナルハはぼそりと話を始めた。
「前、アタシが何で芝居の道に進んだかの話、したじゃない?」
「?……は、はい」
ナルハは、まだ振り向かない。
「偉そうにこないだは話しちゃったけど、アレって建て前なんだよねぇ……」
「どういう……事ですか?」
ため息と共にどてらの小さな肩が揺れる。
「まぁ……人にはさ、『充実してる』とか『観てくれた人を幸せな気分にしたい』とか、そういう事言うわけよ。でも結局のところ、見返したいだけなんだよね」
「見返す……」
ナルハはベッドの横で立ち膝をしていたユキオに向かって、ぽんぽんとベッドの上を叩いて見せた。ユキオはナルハの言葉の意味がつかめないまま、なんとなくその仕草に従ってナルハの横に腰掛ける。
「アタシをさ、大して何も出来ない、普通以下みたいに見てた人間を見返してやりたいの。まるで価値の無い人間みたいに……」
「……」
ナルハの小さい手がTVのリモコンを掴み、電源を落とした。照明の点けていなかった部屋はそれで一気に暗くなり、まるで温度すら下がったかのようにユキオは感じた。
「でもね、芝居の間はお客さんの目をぐっと惹き付けるんだけど、結局ハコ……劇場を出たらみんなほとんど忘れちゃうんだよね。娯楽なんだからそれが当たり前なんだけど。でもそれに気付くと……やっぱりアタシのやってることって、無価値なのかもしれないとか思っちゃってさ」
「草霧さん……」
「だからね、アタシ、せめて<トゲ>になりたくって」
「<トゲ>……?」
意味が解らずに聞き返すと、ナルハはユキオの腕に身を預けるように寄りかかり、肩に頭を乗せてきた。ユキオは内心あせったが、それを跳ね除ける事もナルハの肩に手を回す事も出来ずに案山子のように硬直してしまった。
ナルハの体温が、ユキオの肩と腕に急速に染み渡り始めた。
「忘れられたくないの。私を見た全ての人の心の中に、ほんのちょっとでもいい。深く突き刺さって絶対抜けない小さな<トゲ>になって残りたい。そうでなければ、アタシのやっていることなんて……」
ナルハは、熱っぽい顔でユキオを見上げた。高潮した頬とうなじ、その先にやや開いたパジャマの胸元から胸の谷間が見えてユキオはますます地蔵のように固まるしかできなかった。
「……ねぇ、ユキオ君?」
「は、はい」
少しブラウンの入った瞳に、吸い込まれそうな感覚。
「アタシを……カノジョにしない?」
「ふ、ふぇあっ!?」
「ユキオ君みたいな、優しい人、アタシいいなぁって……」
その言い方は、とても冗談には聞こえなかった。そもそも、ユキオは女性に告白された事など無いのだ。比較できるはずも無い。
少しずつナルハの顔が、大人のラインを描く唇が近付いてくる。唐突の告白にユキオは目を回しそうになり、たまらずまぶたを閉じた。
暗いまぶたの中で、あの同級生の涙を流す顔が思い出された。
(……!)
目を開く、蕩ける大きな瞳。
目を閉じれば、同級生の困ったような顔。
目を開く、どうしようもなく魅惑的な胸。
目を閉じる、ユキオのくだらない話を聞いた時の「しょうがないなぁ」と言いたげなお姉さんぶった、あの優しい笑顔。
(う……うぁぁぁぁぁっ!)
喉元まででかかった叫びを何とか飲み込み、ナルハの両肩を掴む。
「!」
ナルハは少し驚いた顔をしたが、やがて静かに眼を閉じた。
ユキオの両手が、酷く震える。
「ご……」
「……」
「ごめん……なさい……」
力無くユキオの両腕がナルハを押し離した。うなだれるユキオの前で、ナルハの明るい声がした。
「あーあ、やっぱ若い子には勝てないか」
「そんな、草霧さん……」
「ううん、いいのいいの。こっちこそゴメンね、からかうような事言って」
「……」
さすがに、経験の浅いユキオでも少なからずナルハの本心は知れた。だから、何も言えなくなってしまう。
ユキオは黙って立ち上がりもう一度頭を下げて、それから玄関に向かった。
靴を履いて、ドアノブに手をかけた所でゆっくりとナルハを振り返る。
「草霧さん……俺、忘れません……」
「……」
扉がゆっくりと開く。外気の冷たい風が少しずつ部屋の中に入り込み、火照っていたユキオの頬を冷ましていく。
「草霧さんの芝居、多分、一生忘れませんから」
ユキオは一気にそう言い残して、傘をひっつかんで外に出ていった。
扉が閉まり、暗がりと静寂が満ちる部屋に残されたナルハが、再び力無くベッドに横たわる。
「あーあ、フラれちゃった」
ナルハの胸の中には、ユキオが最後に言い残して言った言葉が何度もぐるぐると再生され続けた。
「……何よ、チェリー君のクセにいっちょ前に女を泣かしたりしてさ」
薄い窓ガラス越しに、雨が降る音が聞こえた。
「はぁぁ……ぁぁぁあああああ……」
いつからか呼吸さえも忘れていた気がする。
アパートの階段を下りたところで、傘を開きながらユキオは深呼吸をしていた。
本音を言えば、もったいない事をしたと思う。今後自分に告白してくれる女性なんか皆無かもしれない。ルミナだって、自分に親しいように見えるけどいざ告白したら断られるかも……という不安がヘタレなユキオの中にはあった。
(でも、これで良かったんだよな……)
理由はわからないが、そう思う。
ナルハの事はキズつけてしまったとわかっていても。
雨の中、ゆっくりと道路に面している門の方へ向かっていった。
「!」
門の外にはルミナがいた。小さな濃い桃色の傘を持って、無表情で立っている。
(こ、こええ)
何故ナルハの家を知っているのかはわからないがそんなに不思議な事だとは思わなかった。マヤにでも聞けばすぐわかることだろう。ルミナも気になってお見舞いに来たのだろうか。
ルミナが冷めた表情のままユキオに問いかける。
「草霧さん、大丈夫そう?」
「あ、ああ、うん……だいぶ弱ってるけど、よく休めば大丈夫だと思う」
何か追求される前に、帰ろうかと促してユキオはルミナを連れて歩き出した。
「……何も無いよ、別に」
沈黙に耐え切れずに出た言葉は、まるで浮気をごまかすようなセリフだった。が、ルミナは不思議とそれで表情を少しだけ緩めたようだった。
「……うん」
二人は無言のまま家路に着いた。不思議と、心の中は穏やかであった。