ブラック・ペパーミント
(どうしてこんな事になってるんだ……?)
少年、仙崎ヒロムは今日何度目かの疑問を自分に投げかけたが、明確な答えは反っては来なかった。
「じゃあヒロム君はミュージシャン専攻なんだ」
「あ、ああ」
「どんな曲歌うの?誰か好きなミュージシャンとかいるの?」
会話は尽きる事が無い……というか一方的に話題が投げ込まれてくる。
身分を偽装するためだけに入った芸能養成所(というか何故芸能養成所なのか、ヒロムはそれを上の人間に追及しなかったことを悔いた)で声を掛けてきた人間の一人、那珂乃カナという一つ下の女子と朝から街を歩いている。日本に来たばかりで、家具を揃えないといけないというヒロムの大した事の無い(と本人は思っていた)話を聞いてカナが街を紹介するよ!と勢い込んで申し出たからだ。
それはそれで悠南市に慣れていない自分には都合がいいし、もし『敵』の噂でも聞ければと思いヒロムはありがたく同行してもらう事にしたのだが、フタを開ければカナも越してきて一年足らずでそれほど街を熟知しているわけでもなかった。それでも日本にまだ馴れないヒロムにはそれなりにありがたかった。
(別に知り合いを増やすのはいいけど、本業に差し障りの無い程度にしねぇとな……)
「いや、好きなアーティストはいるけど、憧れてるのは……いないかな」
「そうなんだ、じゃあカラオケ行こうよ。ヒロム君の歌聴いてみたい!」
「ま、また今度な……」
(め、めんどくせえ……!)
無限に弾薬を装填してあるマシンガンのような話題の嵐にヒロムは頭痛を感じ始めた。帰ったら帰ったでまた口うるさいメイド服の女と顔を合わせなければならない。その事も考えると胃の方までキリキリと痛み出す。
ともあれ、なんとか日用品の買い物は終わりつつあった。ベッドや布団、洋服箪笥は業者に配送の手配をし、バスタオルやフォークにスプーンといった細々した物もカナのお陰でそこそこ安く手に入った。資金は充分に預かっているとは言え安易に贅沢をするわけにもいかない。
ほぼ必要な物は買い揃え、二人は出口までの通路、百貨店の玩具コーナーの横を通り過ぎようとした。
(ん……?)
ヒロムの目に一つの商品が留まった。ワゴンセールの中に半分埋もれている箱に手を伸ばす。
「なになに?」
「いや、これ……」
必要以上に大事に箱を持ち上げるヒロム。その肩越しにカナが背伸びをしてその手の中の物を見た。
「ん?カバ……?」
ヒロムが持っていたのはカバのプラモデルだった。充分……というか必要以上にリアルな出来で、皮膚のシワや歯の掘り込みが精密に再現されている。そのせいか余計に長年売れなかったらしく、箱の四隅はくたびれて汚く折れたり剥げてしまっていた。値札も何度も張替えられたのだろう、定価2千800円のその商品に与えられた最終的な売値は、悲しいかな580円。
「それ、欲しいの?ヒロム君」
「あ、ああ。なんか凄いな、と思って」
たしかにパッケージの写真は本物のカバと見間違えても仕方の無いほどリアルだが、カナはさすがにヒロムが思うほどの価値は感じられなかった。しかし、意中の男が欲しがっているのなら、これを逃す手は無い。
「じゃあ、買ってあげるよ。悠南に来た記念に!」
「え、いや、いいよ!それにこれ……組み立てたり塗ったりしなきゃいけないんだろ?」
「あ、ホントだ、プラモデルなんだ……。でも大丈夫、そういうの、得意な人いるから!」
百貨店から少し離れた所にある花屋の店先で盛大なくしゃみが響いたが、それは二人には届かなかった。
「そ、そうなのか?」
「うん、たぶんその見本どおり作ってくれると思う」
カナの根拠の無い自信の言葉を聞きながら、ヒロムはボロいプラモデルの箱をワゴンに戻す事が出来ないでいた。クスッと笑ってカナがその手から箱を奪い取る。
「あ、那珂乃さん!」
「じゃ、買って来るね!」
フラワーハスノでのバイトを終えて、ユキオは帰り道の途中小さな公園に寄っていた。仕事中に店中に響くでかいくしゃみをしたせいでサクラに心配をされてしまい、くれぐれも気をつけてね、と風邪薬までもらってしまった。自覚症状は無いが、マイズアーミーとの戦闘は激化する一方だ。念のために途中で買ったカレーパンで空腹を満たしつつ風邪薬を飲み込む。
寒空の中、苦い粉薬を冷たい水で流し込んだせいで胃が震えた。
(少し、休んでいくか)
寝不足とバイト、そして『ファランクス』での出撃でユキオの身体には相当の疲労が溜まっていた。今までの人生で感じた事の無いほどの倦怠感がユキオにいつも以上に重い溜息をつかせる。
空は、今日もどんよりとした灰色だった。しばらく青空を見ていない。枯葉一つ残っていない木々がゆらゆらと風にゆれ、モノトーンの不思議な模様のようにユキオの目に映った。
(「手を出しちまうかもしれないぜ」)
カズマの言葉が幾度と無く思い出される。それを、許したくないという気持ちはあれど、反芻するたびに(それでいいか)という諦めの気持ちが大きくなっていくのをユキオは自覚していた。
(カズマは、イケメンだし、あれで結構気が効く。女子の扱いも上手いし、奈々瀬さんを泣かせるような事はしないだろう……嫌いだけど)
最後の一言は捨てゼリフそのものだった。それに、言うほどカズマを嫌いぬいているわけでもない。
諦める事は慣れている。人生、諦めが肝心。身分不相応のものを欲しがっても辛いだけだし、どうせ長く手元においては置けない。ユキオは気が付けばそういう価値観を悟っていた。父親がバカでかい外車の4WDを欲しがる度に母親が、母親が最先端のシステムキッチンを欲しがる度に父親が、互いにそう言って相手を諫めるのを聞いて育ったからかもしれない。
だから、そうなったらなったで、仕方ない。あの才媛の美少女はまさに身分不相応だ。
恋愛経験皆無、駆け引きを知らないユキオにはそれ以外に、自信を持って実行できる選択肢が見つからなかった。
ベンチに腰掛けたユキオの口から出た白い息が風に流されてゆく。その先から異様に目立つ服装の人物が近付いてきた。
「こんにちわ」
急に明るい声を掛けられて、驚いて顔を上げると、メイド服に身を包んだ見覚えのある女性が目の前にいた。
「あ、芦原さん……?」
それは、南雲の病室で顔を合わせた少女、芦原だった。ピンク色の毛糸のマフラーを巻いている以外は、以前目にした服装のままで、いかに夕暮れ前とは言えその姿は寒そうに見える。
「隣、座ってもいいかな?買い物で疲れちゃって」
エヘヘ、と屈託無く笑いながら両手に持ったスーパーのビニール袋を見せる。
「あ、だ、大丈夫です。いや、ちょっと待って……座っててください」
芦原を座らせて、代わりに立ち上がる。ドタドタと公園の隅にある自販機に行って、少し迷ってからコーンポタージュのボタンを押した。手づかみできないほど熱く保温された缶をコートのすそに乗せながらベンチへ戻る。
「これ、どうぞ。寒いですから……」
「わぁ!ありがとう!」
芦原は目を丸くしながら喜んでそれを受け取った。膝の上において、あったかいねーと屈託無い笑顔を見せる。
よくよく見れば、ルミナとはまるっきり反対の雰囲気を持つが結構な美少女だ。少しカナに似ているかもしれないせいで多少の慣れはあるものの、正直隣に座られるとドギマギしてしまう。
「あ、芦原さんは……」
「レイミ」
「え?」
言葉を挟まれぽかんとしたユキオの目を愛嬌のある眼で見つめながら芦原は続けた。日本語は流暢だが、どこか日本人離れしたオリエンタルな印象を受ける。今まで会った事の無いような雰囲気の明るい女性から、ユキオは目が逸らせなくなっていた。
「レイミ、私の名前。歳も近そうだし、名前で呼んで。貴方は?」
「お、俺は……ユキオ、玖州ユキオです」
「ユキオ君か……同じだね」
クスクスと笑うレイミの言った意味がわからずにいるユキオに、レイミは細い指で空を指した。
「あ……」
気が付かないうちに、また粉雪がちらつき始めていた。
「雪……そ、そうですね。ユキです。ユキオ」
あたふたと動揺しながらも話題を合わせるユキオに、レイミはケラケラと笑った。
「敬語なんかいいよぅ。アタシ、苦手なんだ」
「あ、わ、わかりました……レイミ、さん」
レイミはまだ笑い続けている。その明るさが曇っていたユキオの気持ちにはありがたかった。つられて少しだけ笑顔を見せる。
「随分買い物したんで……だね。全部先生の?」
パンパンになった二つのビニール袋を指差して聞く。レイミはふるふると首を振った。ポニーテールが可愛らしく揺れながら少し積もった雪を振り払う。
「半分はね。後はアタシの……家族の分」
「そうなんだ。大変、だね」
「そうだね……働くって、大変」
初めてそこでレイミが憂鬱そうな顔を見せた。ユキオも労働をして所得を得ているが、レイミの顔には学生とかバイトとは縁遠い大人の翳りが見られる。その横顔に、彼女の背負っているものの重さを垣間見たような気がして、同年代にもかかわらずユキオは急に距離を感じた。
「ユキオ君は、学生?バイトとかしてるの?」
「あ、はい、花屋とか……あといろいろ」
<センチュリオン>の事は、反射的に黙った。話しても良かったが、説明するのが長くなりそうだと思ったからだ。
「お花屋さん!いいなぁ~あたしもそういうお仕事したかったー!」
「メイドさんは……大変?」
「大変だよぉ~!結構重いもの運んだりするし、そのくせ地味だし……こんな格好もしなきゃいけないし……」
レイミは盛大に文句を言いながらスカートの裾をちらっと持ちあげてヒラヒラさせた。
「で、でも……可愛いと思いますよ」
「エー?ほんとぉ?そう言われちゃうと、照れちゃうなぁ~」
ユキオが恥ずかしさの入り混じった声でボソボソっとフォローを言うと、レイミはまたニコニコと笑った。
「アリガト……ユキオくん、優しいね」
「いや、そんな……」
普段滅多に向けられない女子の屈託の無い笑顔を向けられ、ユキオの顔がだらしなくなる。ここの所鬱々としていた心に、レイミの笑顔は清涼剤のように沁みた。
そこに、別の男女が公園を通り過ぎようとしているのがユキオの視界に入った。
(カナ……?)
その女の子は間違いなく居候、親戚のカナだった。連れの男には見覚えは無い。今日は朝から出かけるといっていたがまさかデートとは思わなかった。唖然とするユキオの顔をカナも見てニヤリと笑う。
「じゃ、じゃあ俺はこの辺で……!せ、先生のこと、よろしくお願いします!」
カナに勘違いをされたのでは堪らない。(時すでに遅いのかも知れないが)ユキオはビョンとバネ仕掛けの玩具のように立ち上がってレイミに頭を下げた。
「え、あ、ああ、うん。これ、ありがとう」
急変したユキオに驚きつつレイミがコンポタの缶を振ってお礼を言う。すでにそれは若干ぬるくなりつつあった。
「また、会おうね。ユキオ君」
「え?……ああ、はい!」
少し寂しそうに言うレイミに頷き返し、転びそうになりながらユキオは雪の降る公園から走り去った。
残酷にもユキオの逃走は手遅れだった。
「で、ユキ兄ぃ何してたの~?あの人がこないだデートした人なの~?」
夕食後、自室に侵犯し事情聴取を始めたカナをうっとおしそうに見てから、ユキオはごろりとベッドで寝返りを打った。
「そんなんじゃねえよ、知り合いの人のところのお手伝いさんだ」
「ホントー?なんか可愛い人だったよねぇ~」
返答に満足する気配の無いカナが近寄ってきてベッドに腰掛ける。蹴っ飛ばすわけにもいかずユキオはその分壁際にずれた。窓際に置いた、空の植木鉢が落ちないように位置を直す。冬の間は、他の季節より園芸は気を使うしそれでなくてもバイトの仕事でいつも花と顔を合わせている。<センチュリオン>悠南支部のミーティングルームでプランターを置いている事もあり、今年の冬は家で土をいじる事はやめた。
「本当だって……お前こそ誰だよ一緒にいたの……もう彼氏作ったのか」
少し呆れた口調でやり返すユキオに、デレた表情でカナがくねくねと身体を揺らす。
「ええ~、まだそんな関係じゃないって言うかぁ~、そうなったらいいなぁ~っていうかぁ」
(全く、顔面偏差値の高い奴はこれだから……)
ユキオの苦悩も知らずぬけぬけとそう言うカナにユキオは僅かな殺意を覚えた。一緒にいた男もモデル体型で、カズマほどではないがイケメンの部類である。カナが惚れるのも仕方ない事だろう。余計なものを見てしまった、と眉間にシワを寄せて枕に顔を埋める。
「あ、それでぇ~、ユキ兄ぃにお願いがあるんだけどぉ~」
「何が、それでぇ~、なんだ」
あお向けになって、いつも以上に甘ったるい声で頼み事をしてくる親戚の顔を気だるそうに振り替えったが、視界に入ってきたのはボロくさい箱だった。
「なんだコレ」
突き出された箱を見る。まず眼に入ってきたのはリアルなカバの写真。手に持ってみると意外に軽く、中からカサカサというビニールが擦れる音がする。
「プラモデルだって、カバの」
「はぁ?」
カバのプラモデルなんて聞いたこともなかったが、現に目の前にあるとそんなバカなとジョークめいた事も言えなくなる。一通り巡らせて見てみると確かにプラモデルのようだ。有名な模型メーカーのマークが日焼けで薄くなっている。カバ独特の皮膚を精密な掘り込みで再現!というセールスポイントの言葉に眩暈を覚え、この商品を企画した人物の正気を疑った。一体全体いくつ売れたのやら。
「こんなもの、どうしたんだ」
「今日一緒に買い物行ったんだけど、コレが欲しそうだったから、買ってあげたの」
「買ってあげたものを、なんで持って帰ってきてるんだ」
「彼、作れないって言うから。代わりにユキ兄ぃに作ってもらおうと思って」
「おい!」
何から何まで勝手な親戚にいい加減キレて声のボリュームが若干上がる。さすがに悪いと思ったのかカナは両手を合わせて可愛らしいアニメの美少女みたいな声を出してきた。勉強しているだけあって、なるほどプロっぽく聞こえる。
「お願い!ユキ兄昔良くプラモデル作ってたじゃん。他にに頼める人いないの~!」
声が良いだけにタチの悪いギャルゲーの妹ルートをやっているような気分だ。頼みごとを聞いてもゲームのようなステキなエンディングは無い。
溜息をつきながら箱を開ける。古いつくりのプラモデルで、パーツ数は少ない。ただレバーのようなパーツがあり、説明書をみるとちょっとしたギミックがあるようだ。有名なメーカーの商品だから合いが悪いという事は無いだろうが、作った事の無いジャンルのために苦戦しそうな予感がする。
(面倒なもの買ってきやがって……)
こめかみを押さえながらしばし考える。断って突っ返してもダダをこねて喚かれるだろう。ここは大人しく引き受けて、今日見た逢瀬の事は口止めさせるほうが良策かもしれない。いずれはポロっと親に喋るのだろうが……。
気晴らしにもなるかもしれないしな、と諦め半分でユキオはその珍妙なカバを預かる事にした。