己の至らなさの果てに
疲れた。
ボクはベッドから這い出る。下の部屋だったエリンが、ボクの隣で寝息を立てていた。あの後、ボク達は代わる代わるシャワーに入って、寝ることになった。ちなみに、恵澄美の部屋にはクレアがいて、同じベッドで夜を明かすことになっている。
耳を澄ます。
特に大きな声は聞こえてこない。はたして、ヒギンズの怒りは収まっただろうか。
ボクはタオルケットを静かに蹴飛ばし、ベッドから這い上がると、音を立てずに部屋を出た。こういう時、仕事で使う様々なテクニックが活きる。忍び足で、何をするにも無音で。最近は操縦手としての仕事の方が多くなりがちだけど、本業は戦闘要員だ。
下の階から、微かに光が漏れ出している。
もしも、未だにヒギンズがご立腹だったら、どうしよう。そう思うと、深い考えなしにここまで来てしまった自分の浅はかさを悔やんでしまう。誰が好き好んで危ない橋を渡るんだ、と心のなかで意地悪なボクが囁く。
いっそ、行きの要領で、このままとんぼ返りしてしまおうか。あるいは、お手洗いに行くとか。気配を周囲に同化させつつ、考えているのはそんな下らないことだった。なんというか、ここまで来て、自分の往生際の悪さに腹が立つ。
勇気を振り絞って、下の階へ降りていく。
そして、そこには何故かトーテムポールに抱き着いたままぐったりしているジョシュア、ソファに顔を埋めて身動ぎ一つしないキャロライナがいた。
二人の状態を端的に言えば、ただその場で寝ているだけなんだけど、生きている感じがまったくしない。もの、としてただそこにあるような、そんな感じ。本当に、無造作に転がっている。
生気さえ感じさせていなければ、本当に死んでいるみたいだった。
「まだ起きていたのか?」
ひとり、ヒギンズだけが、薄闇のなかでテーブルに向かっていた。その声音は普段と変わらない、はっきりとした言葉遣いと落ち着きがある。大きな手には、バドワイザーがしっかりと握られていた。ボクはヒギンズの姿をまじまじと見つめてしまう。
これは、一体どういうことだろう。
「ああ。このことはエチカには内緒だぞ?」
そう言って、自分の口元に指を当ててみせる。
「……もしかして、飲んでたの? この二人と?」
ヒギンズは一向に否定しない。
「いや。別に、飲もうと思って飲んだ訳じゃないんだ。ただ、陸軍犯罪捜査局として、請負社員のキャリーと、それを監督する立場にある情報軍大尉に反省を促すべく、大声を張り出していたらだな……」
ヒギンズはそう言って、後頭部をガリガリ引っ掻く。
「……喉が渇いてしまって。で、目の前には、ちょうど旨そうな酒が山ほどあってだな」
駄目だ、この人。
「しかもこの二人、ちょっと飲んだだけでこのザマだ」
とはいうものの、テーブルや床に転がる空き缶の多さはむしろ圧巻といったところだ。よくもまぁ、三人でこれだけの量のビールを飽きもせず飲むことができたなぁ、と呆れるのを通り越して、逆に関心してしまうレベル。これは、恵澄美が降りて来る前に、必ずなんとかしておかなきゃいけない。
「キャリーの話、トゥクモは知ってるか?」
「……キャロルの、なんの話?」
ボクはさり気なくヒギンズの隣に座る。
「今は亡きキャリーの母の話さ。そして、非公式請負社員になるまでの経緯だ。……知らないのか?」
ボクは頷く。
「そうか。じゃあ、本人から聞くんだな。これは、彼女自身の口から話した方がよさそうだ」
「なんだよ、それ」
自分で振った話の癖に。
そう思って、ヒギンズの顔を覗き込むけれど、彼は唇を結んだままだ。
「今度はトゥクモ、きみの話が聞きたい」
そう言って、ヒギンズはじっとボクを見つめてくる。
こんなに酒が入っていても、それでいてこの人にはアルコールで高揚した感じは皆無だった。戦場になったギーツェンの拠点で見せたような、冷静な横顔のまま。もしかしたら、お酒では酔えないタイプの人間なのかもしれない。
もっと抽象度の高いものに身を置かなければ、陶酔することもできない、そんな感じの。
「……ボクにはヒューゴに話すことがないよ」
ボクは俯いた。
彼の視線に応えるのが、ひどく辛い。
別に、ヒギンズのことが嫌いな訳じゃない。どちらかと言えば、ずっと見ていたい、そんな風に思わせてくれるような双眸だというのに、ボクは目を逸らしてしまう。胸の奥で暴れる心臓が気になって、ついボクは胸元を乱暴に抑えつける。
「何かあるだろ? きみが、誰かに伝えたいことが。戦いという手段で、何かを表現しているはずだ」
「……そんなこと、ないよ」
「いいや。ある」
反論する時に思わず顔を上げてしまって、ヒギンズの視線を浴びる。
ボクはそこで怯んでしまう。
今、そこで寝ているキャロライナやジョシュア、あるいはエリンやクレア、恵澄美のことを慮って、小さな声を出している訳じゃなかった。
ただ、ボクの心情的な理由から、普段の様な大きさで声が出せなかっただけだ。
「ヒューゴこそ、おかしいよ」
「何が? おれの何がおかしい?」
「……ボクなんかに、指輪をあげちゃうし」
「女の子に指輪を贈って、何がおかしい?」
ボクは耐えられなくなって、机の上に突っ伏す。
耳が痛い。
なんだか、とてもひりひりする。
変なところに熱が籠っていて、内側から溶けてどろどろになってしまいそうになる。喉元の辺りで、妙な息苦しさを感じた。ちゃんと息を吸っているにも関わらず、肝心の肺かどこかで空気が抜けているような……って、それじゃあ病気だ。
「ねぇ」
「なんだ?」
ボクはそっと、彼の顔色を窺う。
「ヒューゴはさ、何を表現するために戦ってるの?」
ヒギンズは口元に浮かべていた、微かな笑みを消す。
「それがなんだか、ボクは知りたい」
ボクはそれだけを、辛うじて言うと、口を噤んだ。
というよりも、それだけを捻り出すので精一杯だった、と表現するのが正しいだろう。
身体の一部が急激に熱くなっている一方で、脊髄の芯は冷えていく様な、そんな不思議な感じがしていた。燃える様な高揚感に包まれるなかでの、ひんやりとした冷静な自分の存在を、心のどこかで察する。
「……後悔だろうな、きっと」
「後悔?」
ヒギンズは缶を静かに、テーブルに置いた。
彼の横顔に悲しさが混じる。
「己の至らなさの果てに、救えなかった命に対して。あるいは、今まで自分が『仕方がなかった』だとか『これが現実だ』という言葉で片付けていたものを、今になって再清算しているんだ」
ボクは自分の腕の上に顎を置く。
「……理屈ではわかるけど、実感できないな」
仕方がなかった。これが現実だ。
そういった言葉が世界に、世の中に溢れている。その言葉を、無自覚なままで使っている。乱用している、と言い換えても過言じゃないだろう。「仕方がなかった」だとか「これが現実だ」という言葉で受け止められ、受け流されていく現実は、その実もっとも残酷で剥き出しの悲劇だからだ。
「それは、幸せ者だってことだ。……これがわかっても、良いことなんて一つもないからな」
ボクは顔を動かさないようにして、目だけでヒギンズの顔を見る。
悲しい笑みだった。
その顔を見て、ボクは何か一言言ってあげたかった。彼に、何か言葉を投げかけたかった。たとえ、それがなんの慰めの言葉にもならなかったとしても。気休め以外の何物でもなかったとしても。自分ができる限度、限界に自覚的だったとしても、それでもボクは何かを言いたかった。
だけど、その言葉は不幸にも思いつくことはなかった。
「さて、そろそろ帰るとするかな」
ヒギンズの肩がせり上がって、すぐに視界の外へと消える。
ボクは思わず、起き上がってヒギンズに追い縋る。
「いっ、今から?」
「そうだが?」
逆に、訊かれた。
「お酒飲んだのに?」
「幸運なことに、ここにはハイウェイ・パトロールはいないからな。……それに、おれは陸軍犯罪捜査局、軍隊のお巡りさんだ」
「……何それ、ズルい」
ヒギンズはしっかりとした足取りで、玄関へと向かっていく。
むしろ、ボクの方がもどかしい動きをしている。ボクはお酒を一滴も飲んでいないのに、もしかしたらボクの方が足元が覚束なくなっていた。何故だろう、雰囲気に酔っているとでも言うんだろうか。まったく、どうかしていると自分でも思う。
「ん? 見送ってくれるのか?」
「うん。鍵かけるよ」
「こんなところに空き巣はいなさそうだし、たとえ強盗が押し入っても、ハチの巣にされそうだけどな」
「……わかんないよ。ボクも、悪い奴に捕まって、鎖で繋がれちゃうかもしれないよ?」
それは、冗談だった。
こんなこと、冗談で言っちゃいけないことだってことは、誰かに指摘されなくたって、ぼくが一番よくわかっているつもりだ。でも、何故だろう。この人の前になると、つい言ってしまいたくなる「余計な一言」だった。そんなことは言うもんじゃない。そう叱ってもらうための、それ自体には意味もない一言。
「じゃあ、悪い奴に捕えられないように、おれが鎖で繋いでおこう」
ヒギンズは笑って、ボクの首元からぶら下がったチェーンを引っ張る。
「ん? もしや、寝る時も着飾ってるのか?」
目を丸くするヒギンズに、ボクは答えなかった。
「じゃあな。トゥクモ」
「……おやすみなさい、ヒューゴ。気を付けて帰ってね」
なんでだろう。
抱き締めて欲しい。
そう思ってしまった時に限って、ヒギンズはただ手を振るだけで。
大きな背中は闇のなかに溶けていってしまった。




