吐き気を催す巨悪
すぐ傍までヒギンズがやって来ていた。
ボクは「大丈夫」と言いたかった。でも、ついに言葉にはならなかった。
ボクにとって、とても気まずい沈黙がヒギンズとの間に横たわる。
その沈黙が、さらにボクの口を重くしていく。
唇を動かすことさえままならない。
力なく、その場に蹲ってしまう。
ヒギンズは中腰になって、ボクの背を優しく撫でてくれる。彼の指先を背中で感じて、ボクはようやく言葉を紡ぐことができた。
「ねぇ、ヒギンズ中佐。中佐には、奥さんや娘さんがいます?」
「……トゥクモは彼氏がいないんだなぁ」
ヒギンズは笑う。
場違いなほどに、からっとした笑みだった。
処刑場で無数の人骨を、人の死に様を見ておきながら、こんなにも爽やかに、湿気の交じる余地もない笑顔を作ることができるだなんて。
ボクには到底信じられなかった。
ヒギンズをどこか遠くに感じた。
「茶化さないで下さいよ」
「じゃあ、ヒギンズ中佐とかいう変な呼び方はしないでくれ。あと、敬語もなしで」
「……無茶振りですよ」
「覚えておけ、九九。上官や先生と言った目上の連中には、無茶振りしない人間はいないんだ。だから、慣れておけ」
「ヒューゴ……」
照れ臭くなってしまって、尻すぼみになる。
それが、ヒギンズをさらに笑わせる。
「ああ。一〇歳年下の可愛い女だ」
「娘さんは?」
「ちょうど、おまえさんくらいの娘が。おれに似ず、可愛い女の子だ。ただ、妻が少々箱入りに育て過ぎてしまってな、お陰で敬語で話しかけてくる。……実の親父に向かってだぞ?」
「それはむしろ、いいんじゃないの? キャロルみたいになったら嫌じゃない?」
そう言うと、ヒギンズは「んー」と言う。
「いや、やっぱりキャリーみたいになって欲しいね。……妻がいけないんだ。文句も言わずに、合衆国に奉仕する夫の留守を守ることが、心あるアメリカ人の妻の『あるべき姿』なのだと、そう思い込んでる。愚痴を夫にぶつけるのはナンセンスって。しかも、それを娘にまで押しつけてるんだ」
「……変なの」
「別に、心の底からそう思っていてくれるんであれば、おれは全然構わないさ。ただ、愛している人が、無理しているのはみたくない。何事も自然体が一番だ。……で、何が訊きたかったんだ?」
ボクは黙る。
さっきまでは動いた口が、途端に動かなくなる。
だけど、ヒギンズの穏やかな目が、光の筋となってボクの心の奥まで差し込んでくるみたいだった。
不思議な感じがする。
波打ち、幾重の波紋が重なり合った、混沌の極みにあった水面が、落ち着きを取り戻していくのがわかる。
「いや、武装組織を率いていた大将や、ギーツェンには家族がいたんだよね」
「大将の方はともかく……少なくとも、ギーツェンに家族がいたのは確実だ」
「ボクは、お父さんもお母さんも今はいないから、そういうことを実感を持ってわからないんだ。理屈や道理はもちろんわかるよ。でもね、なんて言うのかな。知識としては知っているんだけど、実体験としてはないから……どうしてもピンと来ないんだ」
ボクはそこで、一旦区切ってから、捲し立てた。
「でも、ヒューゴも、ギーツェンも家族がいる。なのに、どうして、ギーツェンはこんなに酷いことができるのかな? 紛争地帯では、それが当たり前。それはボクだって、よく知ってるつもりだよ。でも、理解はできても、実感はできないんだ……」
ヒギンズはそっと、ボクの肩に手を置いた。
それは、アメリカという場所においては、ともすればセクシャルハラスメントになる行為だ。でも、不思議と嫌らしい感じはしない。むしろ、ヒギンズの大きな掌から発せられる温もりが、肩からじんわり体へと伝わっていく。身体と身体の境界となっている皮膚がどこかへ行ってしまったみたいだ。
「ギーツェンだって、元々は普通の人だったんでしょ? そういう意味では、軍人のヒューゴよりもよっぽど『普通』だよ。もしかしたら、ヒューゴの方が歪む恐れがあったのに。なのに、何がどうなれば、あんな酷いことができるんだよっ……」
ボクは、どうしたのだろう。
こんな女々しいことを、よりにもよってヒギンズにぶちまけるだなんて。
どうかしてる。
本当に、ボクはどうかしている。
「トゥクモ。おまえは、優し過ぎる」
ボクは優しくなんてない。
ボクは、人の命を奪っているんだ。それも、かなり無自覚に。
仕事だから。
そう、仕事だからだ。
ボクは、たとえヒギンズみたいな人がいたってアンソニーのピザ屋の娘で一生を終えたくなかったし、どんなにお金を積まれたって、ボクは男の人の前で裸になって、身体を許すなんて真似はしたくなかった。
そう、恵澄美みたいに、ボクと同い年だというのにいろんな学校に通い詰めて危ない場所へ飛び出して、そしてまた帰って来る場所へ収まっていく。そんな家と成功を手に入れる。
こんなボクでも認めてくれて、ボクの全てを肯定してくれる人と一緒になる日が来るまで。
そのために。そのためだけに。
ボクは、人を殺して殺して殺しまくってる。
エーファみたいな、限りなく被害者に近い加害者を、ボクは任務だから職務だから仕事だからと言って、躊躇なく殺して、そこに罪悪感を感じない。
だって、これがボクの「仕事」なのだから。
ヒギンズの言う使命感や合衆国の責務なんかじゃ、断じてない。
お金を得るためだけの、単なる手段に過ぎない。
それに。
ボクは心のどこかで、ホッとしているはずだ。
ああ、自分は、エーファみたいにならなくて、本当に良かった、と。自分は男に狩られるような、そんな無力で非力な女なんかじゃない。
そう、ボクには力がある、有象無象の力が。
ボクがゴロツキのように、エーファみたいな女の子を自分のモノにしたって、アメリカ合衆国の司法当局の権限は及ばない。
それこそ、ヒギンズのようなCIDの人に調べられて、今の仕事を失うかもしれない。けれど、国際戦犯法廷に送られることは万に一つも有り得ない。
ボクはそれをわかっている。よくわかっている。
自覚的なんだ。
ただ、ボクは、そういう「趣味」がないだけで。
そして、たまにこうやって自己嫌悪に陥ってみせて、そんな可愛い自分を自分で慰めてやるんだ。
そう、ボクは我が身を省みない傲慢な人間じゃない。
ボクは弱くて、人の心がよくわかる優しい奴で、生々しい戦場に身を置きながら、感受性を失っていない、そんな人間なんだと、再認識して安堵している。
女の子らしくないだとか、女らしさがある女の子が反吐が出るほど嫌いな癖に、こういうところは本当に、悔しいくらいに女々しくて。
ボクはきっと、ヒギンズの前だからこんなことを言っている。
背中に回される太い腕と、迫って来る分厚い胸板を頬で感じながら。
ボクはしばしの間、微睡みにも似た心地良い優しさに包まれていた。




