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2nd contact

 目が覚めて最初に視界に入った白い天井を見た時、最初に漏れた言葉は「いやぁ最悪の夢だったね」だとは笑えない。

 いつもの見慣れた研究所の救護室。しょっちゅう性能テストで気絶させられているからさ、もう一発でここがどこかわかる。

「すまない……現実だ」

 声の方向に首を向ける。あまりにも速く回しすぎたせいでちょっと首が痛い。

「もしいまだに信じられないなら、現実であったことを一から説明しよう」

「ケッコウデス」

 後ろ手で直立している彼女、アヤメの存在がすべてを物語っている。ということは。

「やばい、殺される……」

「確かに命を狙われるかもしれない。だが命の恩人であるあなたは死んでも守る」

「いやそうじゃなくて……」

 あからさまに怪訝な表情を見せるアヤメ。こんなに顔に出るガードマンで大丈夫か、と思ったのも、つかの間。

「彗のドアホウっ!」

「たゆん」という擬音語を感じるほど、重力に逆らったやわらかい二つの塊。僕はそれを慄きながら見上げる。持ち主の小柄な体が自分の体に踵落としを決める。

「ごはっ!」

「街中でなに危険な真似をしている! どれだけ心配したと思っている!」

 有栖は踵落としを決めたままの左足をさらに強く踏み込んだ、というか僕の体の上に直立する。

 横目で見えるアヤメはあからさまに「合点がいった」とあきれている。

 苦しいが視線を背けることを最優先にする。この体勢だとスカートの中が……

「有栖は今日何色のパンツを履いていた、彗?」

 野太いその言葉に一瞬きょとんとした有栖は電気ケトルでお湯が沸いていくような感じで、赤くなる。もちろんスカートを抑えながら。

「……彗のスケベ」

「僕は見ていません」

 真っ赤な顔で睨まれると何もやましいことがなくても罪悪感を覚える。

「来栖兄さんも変なこと言わないでくださいよ」

「はは、それは悪かったな」

 有栖の首根っこをひょいと摘み上げる筋肉の塊のような大男。金色の短髪に碧眼がおそろいの兄妹。兄妹で研究者をやっているという若干稀有なケースも相まって、玉宮と言えば二人を指すぐらいには有名だ。

 妹がパワードスーツ本体等のハード面が得意なのに反し、兄の来栖はプログラムなどのソフト面を得意としている。二人が手を組んでないとあのパワードスーツ『PW-YT=ss』は単なる殺人暴走マシンになっている。

 いまでも十分その素質はあるけれども。

「しかしお前は何をした。『脳のストレスレベルと心臓の負荷が尋常じゃない、特殊合成セロトニンを投与した』ってアイツが言っていたぞ?」

 ふざけた口調から一転、雷の落ちる前の雲のように重苦しい威圧感を覚える。状況を聞いた自分自身もその話を聞いてぞっとした。ただのセロトニンならサプリメントでもあるが、特殊合成セロトニンとなると話は別だ。

 特殊合成セロトニンは現在禁止薬物に指定されている。最近の指定であるためまだ在庫が残っていたのだろう、命拾いした。

 もともと特殊合成セロトニンは体内生成に必要なトリプトファンを経由せず、鬱などのストレスを取り除く薬として開発された。禁止薬物指定された理由としては依存性がある癖に、血圧・心拍数の急降下、極度の集中力欠如などがあげられる。

 特に血圧・心拍数の急降下が問題視された。生命維持に危険が及びかねない程度の効果は医者でもコントロールが非常に難しい。そのこともあり、使用に際して議論が巻き起こったこともある。

 それで自分が心拍共に安定した状態に戻った、ということは非常に危ない状態。

 でも……

「死にかけたり、命を狙われるような状態になったりしたらみんなあんな状態になるんじゃないの?」

「ならない」

 気持ち良いくらいの即答。

「明らかに過剰だ。そもそもパワードスーツが生命維持に関する警告を発した時点で、な」

 ふと思い浮かんだ銀髪のヤコが発した言葉を思い出す。

 ――――並列演算を開始。私の思考回路と処理能力、あなたとシェアします

「なあ来栖兄さん、人間の脳で並列演算ってできる?」

「質問をはぐらかすな」

「重要なことなんだ」

 真剣な表情をしている来栖といまだに首根っこを掴まれジタバタしている有栖。傍から見たらこれほどシュールな光景はないだろう。

「理論上なら議論されていた」

 何やら含みのある言い方だ。

「五年前に学会そのものが撤退して立ち消えになった、例の事故のドタバタでな」

 それだけで十分だ。五年前の事故なんて忘れることが出来るはずもない。そして思い出したくもない。

「まさか君の名字は羽山……」

 アヤメという女性は知っているらしい。苗字まで覚えているなんて嫌な記憶力だ、本当に。

「これから僕の名前を呼ぶときには彗って呼んでくれ、その名字は……」

 だめだな、あの事故と絡んで苗字を呼ばれると平静を保てない。

「ふん、彗は彗だ。別に荒ぶる必要はない」

 やっと床におろされた有栖が腰に手を当てて胸を張る。言っていることはわけがわからない。まああの親の子供、と言わず最初から最後まで『彗』と呼んでくれたのはあの時期も救いではあった。現に心が少し安らいだ気がする。

「……そうだな」

「当たり前だろう」

 より一層得意げな表情で胸を張る有栖。

「さっきの踵落としは許さないけどな」

「あ、あれは心配させた彗が悪い!」

 一応反省はしているようだが、相変わらず素直じゃない。

「ああ、そういえば……えーとヤコさん、は無事なの?」

 さっきから姿が見えない。まあアヤメがここにいる以上彼女もすぐそばにいるんだろう。

「そう言えば彼女たちは何者なんだ?」

「僕も知らない」

 そういったとたん「流石は彗だ」また誇らしげに胸を張る有栖。頼むからそのまま後ろにたおれないでくれよ、背が小さいせいかその体勢は昔から妙に不安をあおる。

「見ず知らずの人間でも助けようとした! その気高さに免じて無断で『PW-YT=ss』を装着したことは不問にするぞ、うん!」

 気高い、ね。そんな大層なものじゃないような気がするけど。

「……話を戻すぞー、ヤコって人は無事なのか?」

「む? さっきからお前の左側で寝ているが……」

 その言葉に首を百八十度傾ける。枕もとに寄り掛かり、顔を横に向けているその銀髪の少女は肩の部分を小さく上下させ、微かな寝息を立てている。

「ずいぶんと心配をしていたぞ。医者の診断が終わってからは特に『私のせいだ』と繰り返して泣いていたのだからな」

 自分から首を突っ込んだのだから彼女が謝るのは筋違いだとも思っている。

「はあ……」

「ぬ? やけに憂い顔だな」

 なんだかんだ言って有栖は平常時ならちゃんと気配りのできる性格をしている。それを研究成果にも向けて欲しいのだけど。

「いや、なんでもない。部屋に戻ってもいいか」

 ちょっと前までは危ない状況だったと言うが体も動くし、意識もはっきりしている。

「どうでもいいが、彼女たちはどうするんだ? 軽く話聞いたところ外に出るのは危険だと思うが……」

「どっかに空き部屋あるだろ? そこにとめてあげられないか」

「無理だ」

 有栖の即答に嫌な予感がする。

「ないのか、空き部屋」

「あることにはあるが、研究所という性格上居住には特別許可がいるし、空き部屋のマスターキーは研究管理局が保管している」

 それはつまり国の機関に『身分証明を伴う』申請が必要ということ、偽造は難しい。

「身内とそれに類する関係なら比較的容易に申請は通るが、赤の他人ともなると難しいだろうな」

 研究所そのものは独立した機関。だが機密漏えい防止のために、鍵の管理は管理局が行っている。未使用の鍵のコピーを防止するためというのもある。また鍵をコピーしたとしても鍵のIDが管理局に送信される。登録のないIDを検知すると、警備隊がすっとんでくる。機密情報の保持は比較的、容易になっている。

「それじゃあ、有栖お前の部屋に泊めてあげられ……ないよなぁ」

 一つの提案をしてすぐに打ち砕かれた理想。設計図面や資料が散乱し少し触れれば雪も降っていないのに、雪崩で死にかけない。

「お前の部屋に決まっているだろう」

 来栖のあまりにも不可解な言葉の羅列に思考回路が追い付かない。

「確かに彗の部屋は広いしマンションみたいに部屋も区切られている、最適だ!」

「おい、待ってくれ、有栖」

 こいつら言っている意味わかっているのでしょうか? 男と女、それも二人です。自分を入れたら三人。確かに部屋は広いが寝室は一つだ。

 残る二つの部屋の一つはキッチンとリビングのある部屋。一つは自室用のトレーニング機器の倉庫と化している。

「仕方がないだろう。アヤメがヤコと彗の警護をする、といって聞かない」

 出来ればそこは妥協してほしくない。全力で突っぱねてくれないか、有栖。いつもそれで美濃川(みこがわ)のアホを追い払っているじゃないか。

「……何か間違いが起こったらどうする」

「起こすのか?」

 有栖の即答に、軽く眩暈がした。信頼なのか、なめられているのか非常に判断に困る。

「来栖……」

「諦めろ、お前の『責任』だ」

 言い出した張本人はあっさりと僕を突き飛ばした。

「えっと……今日からお願いします」

 直立してぺこりと丁寧な45度のお辞儀をするヤコ。退路はない。

「……よろしく」

 僕の日常は取り戻せない過去のものとなったらしい。

 予感がなかったわけじゃない。だけど流石にこれは想定外だった。

「……部屋掃除してきていいか?」

 ……最低限アレな本ぐらいは隠しておかないといけない。

「大丈夫だ」

「有栖の『大丈夫だ』は信用できない」

「処分済みだ!」

 あえてどうやってとか、何をとかは聞かない。今頃焼却炉の肥やしになっている。ああ……なんか泣きたくなってきた。

「部屋はどこだ? 警護をするからには研究所全体を含め、早めに構造を把握したい」

「ちょっとだけ落ち着かせてアヤメさん、頭が追い付かない」

「みとめない」

 反射的に「はい?」と聞き返した。

「意識が飛びかねない高速で戦闘をこなしていたくせに」

「時と場合によります。悩む時間ぐらいください」

 戦闘機のパイロットなんて音速域で戦っている。それでもチーズケーキにするか、チョコレートケーキにするか悩むことぐらいはあるでしょ。悩む時間をとるでしょ?

 甘いもの好きだよ、文句あるか。

「あの顔でぶつぶつ言っている時は現実逃避している。覚えておいたほうが良い」

「了解した」

「おい、こら、そこ」

 有栖、アヤメさんにそういういらない情報を教えるなよ。

「二階の二十五号室が彗の部屋だ。これが彗の部屋のカギ」

「了解」

 人の荷物というかポケットを荒らさないでほしい。頼むから。

「では案内を頼むハル……いや、ケイ」

「おい、だから」

「私、ほかの人の部屋に入るの、初めてだからちょっとワクワクしています」

 無邪気すぎるヤコの視線と声に完全に脱力する。

「はあ……なんでこうなるかなぁ」

 ベッドから立ち上がると左肩が痛む。狙撃された時とは比べ物にならないほど痛みがなく、少し驚いた。ここの担当医は鎮痛剤でも打って帰ったのだろう。何でも薬に頼る医者だから何らおかしくない。

 救護室の自動ドアが開く。僕に続く形で並んだヤコとアヤメが出てくる。有栖と来栖は僕たちを追い越し「さて改良だな」と不吉なことを呟き、研究室のほうへ向かっていった。

「今度は人命をさらに優先した物にしてくれよー」

「……善処する」

「まって、今の間は何!?」と突っ込む間もなかった。来栖はそそくさと逃げるようにプログラミングに使用する研究室に逃げ込む。有栖に至っては全く聞いていない。

「ケイさんは二人を信用してないのですか?」

 僕より身長の低いヤコは左わきから覗き込む。その視線と光を受けて輝いた銀髪に思わず見入ってしまった。

「……ケイさん?」

「あ……ああ、いや信用はしているんだけど」

 右手のこぶしを自分の額に当てる。

「けど?」

「信頼は厳禁って思ってる」

 ヤコがクスリ、と笑う。

「……なにさ」

「いや良い信頼関係だなって」

 さっきから会話がかみ合わなさすぎて頭が痛くなってきた。

「もういい、案内するから来て」

「はいっ」

 元気に楽しそうに返事をするヤコ。アヤメは小さく息を吐く。目線を廊下の隅々まで配るアヤメは完全に仕事人モードだ。

「さっき有栖と来栖が向かったほうは研究開発部門。機密が多いから許可のない人が入ると警報が鳴る。大変なことになるから二人は入らないでね」

「大変なことって?」

 何やら好奇心に目を輝かせている目の前の少女には言わねばならない。

「研究所の隔壁がすべて降りる。侵入者の確認が済んでも小一時間は各ブロックを移動できない。外にももちろん出られないからね」

「ケイが入ったらどうなるの?」

「僕はテストパイロットの身分だから『大変なこと』になる」

 ヤコの「私たち三人ともはいれないのね?」と入りかねない、不安な発言をするのだけが気がかりだ。いつか好奇心に負けました、ってだけで隔壁をおろさせないでくれよ。

「ねえねえ! あの中庭のドームみたいなのは?」

「あれは実験検証施設。『POWER=S』の練習もできるように専用リングも備えているよ」

 まあ、こうやって話をしながら歩くのは結構新鮮で、何より楽しい。

 何よりこの研究所では僕は明らかに異物。研究者でまともな話をするのは有栖と来栖ぐらいでほかの研究者は自分を明らかに避けている。

 原因は父親がいわゆるマッド・サイエンティストの烙印を押されたからだろう。その息子、とくれば心象もよくない。研究者でもないのに研究所に住んでいるから、というのも一つの原因かもしれないけど。

「ねえ? ケイの部屋は?」

「あ、ああこの階段を上って左の三番目の部屋だよ」

 若干小走りで駆け上がるヤコ。そのあとを無言で涼しい顔をしつつ早足で追いかけるアヤメ。

「えーとアヤメさん?」

「なんだ?」

「アヤメさんはヤコとどういう関係なのさ」

 アヤメは無邪気に扉を数えているヤコに目を払っている。

「……姉妹みたいなものでも、契約関係でもある」

 おそらく僕の疑問が表情に出たのだろう。

「まあ、仲のいいことは確かだ」

 アヤメは短く笑い、手招きをしているヤコのもとへ行く。

 そこは僕の部屋なんだけどなぁ、と内心苦笑いしつつポケットから部屋のカギを取り出す。

 べこべこにへこんだ耐衝撃カプセルを開いた。中から出てきたのはいまだに信頼性が強いとして使われている、ICチップ入りのカードキー。もっとも暗証番号を忘れてしまったり漏れてしまったりしたら大変なことになるけど。

 カードをリーダーに通し、暗証番号を入力する。そういえば有栖にばれていた、変更しておこう。

 ランプが施錠を示すグリーンから開錠を示すイエローに変化する。

 自室に入ると思わず口から「人の部屋をなんだと思っているんだよ」と呟きかけた。不自然なまでに整理整頓、清掃が行き届いた部屋。ここまできれいに掃除ができるのなら有栖は自分の部屋を整理すべきだ。

 玄関からいきなりリビングにつながる、開放感のあるこの部屋は結構気に入っている。中央にある向かい合わせのベージュとオレンジのソファーの向こうには、中庭の見える一面の窓。左手前には浴室と洗面所、トイレetc. 左手奥が寝室。右側はキッチン。脇の階段を上ったロフトには本来研究部屋となる、ガラスで区切られた勉強スペースがある。一人で暮らすには確かに広い部屋だけど。三人で、しかも女性二人となるといろいろ問題が。

「プライベートダダ漏れな部屋だけど……本当に大丈夫?」

「大丈夫、少なくともヤコは……」

 指をさすアヤメの先にはさっそく靴を脱いでソファーのそばにいた。そしてはしゃぎながらヤコ自身が回りながら、ソファーを中心に回る。

 悩んでいた自分が嘘のように和んだ。子供のように無邪気な姿をみるとどうしても和む。アヤメは一礼して「お邪魔します」と一言靴を脱いでヤコのもとへ行く。

 目の前に来たヤコの頭に間髪入れずチョップを加えた。

「はしゃぐのは良いけど、礼儀を忘れたら人間として失格です」

「……随分厳しいね」

「最低限の礼儀はわきまえるのが人間です」

 人間に対する認識が随分と厳しいな、という言葉も口には出さないで置いたほうが良いだろう。もっとフランクでいいはず。

 マナーは確かに最低限持つべきとは思うけど、そんなに歳も離れていないみたいだしそんなに気にしなくても。

「そう言えばケイって意外と小さいね?」

 ……前言撤回少しは気にしてほしい。

「ヤコ、ケイは小さいわけじゃない。あのパワードスーツが大きいだけだ」

 確かにスーツ装着時は身長2m以上の巨漢、という印象を持つだろう。それが原因かもしれないが。実際の身長は170ぐらいだけどそれぐらいあのスーツはかさばる。確かに体の大きさを誤認したことに罪はないけど。

 結構気にしている。可能ならもっと大きくなりたい。アヤメさんは自分と拮抗した身長の持ち主。あんまり立場がないように感じるのはなぜ。

「えっと……小さいって意味は、その……」

 自分の体の前で両手の平を振って否定の意思を示すヤコ。

「そう感じただけっ!」

「フォローにも言い訳にもなってないよ!」

 全力で突っ込んでしまった。こらえきれなかった自分が情けない。

 無邪気な印象が余計に心苦しい。

 もういろいろ諦めて二人をオレンジのソファーに促す。僕はいつものベージュのソファーに座る。

 いつもより乱暴な座り方になったのはいろいろ疲れていたから、ということもあるのかもしれない。ソファーが心なしか軋んだような音を立てる。

「そういや自己紹介がまだだったね」

 もう無理やりにでも話題を変えないと堂々巡りの予感しかしない。

「もう名前は聞いていると思うけど僕は彗。漢字は彗星の『彗』だよ」

「うんよろしく! 彗!」

 アヤメがまたほとんど表情に出ないものの、若干こわばる。やはり僕が苗字を言わない理由を察したのだろう。おそらくニュースに詳しいか、研究者関連の知り合いがいると見た。

「私は八子、数字の八に子供の子でヤコ! よろしくね!」

 元気だなー、本当に。

「……菖蒲だ、花のアヤメ」

 みんなして下の名前しか言わないのは僕にならったのか、それとも何かあるのか。

「八子は……八つ子なの?」

 なんて冗談交じりで聞いてみる。

「ううん? 私は八番目に……」

 突然アヤメに口をふさがれたヤコ。もごもご何か言いながら暴れるヤコにアヤメが何か囁く。何があったのかあっという間におとなしくなった。

「二人とも、どうしたの?」

「なんでもない!」

 片方はハイテンション、片方は無表情で見事なハーモニーでの返事。

 まあ別に苗字を知らないからと言って別に支障もない。むしろフルネームで知らなければならない、なんて理由はないし。

「ねえ、ちょっと質問してもいいかな」

「なに」

 首をかしげるヤコに反しアヤメはやはり緊張を一層高めている。

「なんで追われていた?」

 こういう風に聞くなら単刀直入。遠回しなんて何もいいことはない。

 エアコンの駆動音だけになった室内。明らかに困った表情を見せるヤコ。険しい表情を見せるアヤメ。蛇口から水が一滴、シンクに音を響かせた。

「答えは?」

「すまない……」

 NOの返事。予想していた返事とはいっても釈然としないのも事実だった。

「ただし犯罪行為で追われていたわけではない、とだけ釈明させてくれ」

 アヤメが僕の目をまっすぐに見る。深い茶色の瞳はただ「信じてくれ」と訴えている。全くぶれないその視線に、思わず目を背けたくなるほど。

 磔にあったように動けない。

「……わかった、負けたよ、これ以上この件には首突っ込まないよ」

 根負けだ。これほど強い意志で言われたら崩すのも大変。

 ヤコの「もう肩までつかっているようなものだけど……」というぼそっとしたつぶやきが妙に不安でもあるが気にしないことにする。

 まあ、そのうち本当に話してくれそうだから。別に緊急の用件、というつもりもない。僕の勘違いか、僕が騙されているかでもなさそうだ。

「ああ、コーヒーでも飲む?」

 コーヒーと言ってもインスタントだけど。

 本来自分の体が完璧なら豆を挽くところから入れたい。だが鎮痛剤が切れてきたのか、左肩がかなり痛み出している。そりゃ貫通したとはいえライフルで撃ち抜かれた。衝撃波と回転エネルギーで患部がズタボロになっていても文句は言えない。

「患者が気を使うな」

 アヤメが僕の右肩を押さえつけソファーに戻し、人差し指で左肩を小突いた。

 当然走る激痛に、思わず歯を食いしばる。

「当分はベッドで寝て、しっかり養生してくれ。身の回りのことは私がすべてやろう」

 アヤメはまた短く笑い、微笑みかける。

「む……でも……」

「けが人は寝てなさい」

「アヤメさんも怪我してなかったっけ?」

「逃走の際には確かに障害となる負傷だったが、君と比べれば非常に軽微だ」

 表情はあまり変わらないものの、若干得意げになるアヤメ。

「それとも何か? 女性が君の世話をしている。その状況が、何かまずいのか?」

 意地悪な笑顔を浮かべるアヤメ。くっそう……なめられるのは癪だけどここは素直に応じておかないと。今度は肉体じゃなく、心の傷をえぐられかねない。

「お言葉に甘えます」

「それでよろしい」

 とはいっても横になったら痛みで眠ることはできなさそうだ。ベッドに移動するのも面倒なのでソファーで目をつむる。

「ねえ……ここで寝たら風邪を」

 ヤコの声が遠くなる。意外と座ったままでも簡単に眠りに落ちることはできたみたいだ。

 あるいは自覚していないだけで、相当疲れていたのかもしれない。

 これからどうなるのかな? と一瞬頭をよぎった。しかし一日が騒がしくなるだけだろうと思うことにする。

 その騒がしさの程度がどれほどのものであるかはさておき。


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