その3 秘すれば花
丈の高い、茎の太いシロガネヨシの密な茂みの中で、弥生は持ってきていた帽子をかぶり、サングラスをかけて膝を抱え、自分の世界の中に入り込んでいた。
こんな大事な日を、台無しにしてしまった。
なにもかも、一緒に生活して知っていたことなのに。
家族みんな、うちの猫も犬も大好きで、大事に愛してくれた。ユキもエリーも、家族のことが大好きだった。
エリ―は、肉体を失った今でも、誰のことも恨んではいないだろう。
死んでから泣かないからって、それがなんだというのだろう。生きている間にしてあげたことがすべてだ。
もしエリーが空からこの様子を見たら、どう思うだろう。短気で我儘な私のせいで、せっかくの日を、お別れを、無茶苦茶にしてしまって……
もう、歳のことを考えれば、これ以降ペットを迎えることもない。
あの子が私の、人生最後の無償の愛の対象だった。その子を失った悲しさを存分に共有できなかったことで、怒りを爆発させてしまった。
どうしたら、家族との関係は元に戻るだろう。
戻さなければいけないのは、自分だ。私が、反省しなおさなくてはならない。
それでも、家族の中で一人ぼっちな自分が、寂しい。淡々とお金の話をしていた家族に対する怒りは、まだ消えてはくれない。
そうだ。こう考えてみたらどうかな。
夫も子供たちもみんな、愛も悲しみも優しさも持っている。それはわかっている。
でもそれを涙とともに外に出すことができなくて、魂の奥に抱えているうちに、そう、琥珀になってしまったのだ。
琥珀の核は花。悲しみの一つ一つが美しい花になって閉じ込められている。その琥珀を、みな自分でも知らない心の谷間に抱えているのだ。
琥珀の花は、一つ悲しみを乗り越えるたびに開く。そして結晶のように、生涯変わらない姿でそこにあるんだ。
うん、自分らしく、バカバカしくロマンチックに決まったわ。
不意に周囲の茂みががさがさと揺れた。
え、こんな場所に入ってくる人がいる??
「きゃっ」
茂みをかき分けて悲鳴を上げたのは、娘の芽生だった。
「おか、……お母さん?」
弥生はサングラスと帽子をとった。
「変なところに入ってくるわね。何か用」
「いや、その、昔からここ、エリーが好きだったから。なんでこんなところにいるのよ。ここの中、一応立入り禁止なのよ」
「なんでって、……あんたと同じ理由よ」
それからゆっくり立ち上がると膝をパンパンとはたいた。
「一人で考え事がしたかったの。もう出るわ」
二人は、丈の高い茂みから出た。
「外から見ると、すごい迫力ね。シロガネヨシって」母が言うと
「普通パンパスグラスって呼ばない?」と芽生。
「あ、そうだった。そっちの名前が出てこなくてイライラしてたの。よくエリーを連れてきたわよね」
それからしばらく草原を歩くと、「座らない?」と言って、芽生は草原に腰を下ろした。
弥生は隣に座り、あたりの、花の咲いている雑草を摘み始めた。
「もう一度、この草原をエリーに駆け回らせてあげたかったわ」と呟く。
芽生は答えた。
「エリー、もうどこにでもいけるから。きっと首輪も鎖もなしで、いま、私たちの周りを駆け回ってるよ」
弥生ははっとしたように周囲の草原を見渡した。
芽生は気遣うようにつづけた。
「お蕎麦の味もわからなかったでしょ。エリーの話、したかったよね」
「……」
「ごめんね」
「謝らないで。みっともなかったのは私だから」
しばらく二人とも黙っていた。
静かに口を開いたのは、弥生だった。
「私が自分の母親とうまくいってなかった話、知ってるわよね」
「突然だね。切れ切れに聞いたけど、知ってるよ。癇性のお母さんだったって。あんたなんか生みたくなかったって、早く結婚して家から出て行けって言われ続けたって」
「それでいて、結婚相手は両親のお眼鏡にかなった高学歴高収入の、見てくれのいい男性しか駄目だというのよ。だからお父さんとは、お見合い。
私だけじゃない、私と姉二人も、厳しく束縛されて、幼い時から泣くことさえ許されなかったの。
ほんの少しでも涙を流したら、泣くのは頭の悪い子供のすることです、二度と泣いたら許さないって、往復でひっぱたかれた。だからもう怖くて、子どものころからとにかく泣けなかったの」
「知らなかった…… それ、相当ひどいね」呆れたように芽生は言った。
「それで姉たちと誓ったの。私たちがお母さんになったら、せめて子どもたちには泣きたいときは思い切り泣くことを許してあげようねって」
「ヘビーな反面教師だね。ご期待に沿えずすいませんです」芽生は頭を下げた。
「大人になっても、涙を流すのに罪悪感が付きまとってたのよ。でも、動物たちが死ぬともう駄目。禁じられていた涙を、その時だけは止められなかった。
だからトイレに隠れて泣いたわ、泣いてるの、私だけだから恥ずかしくて」
「そんな…… うちではもう、隠れなくていいのに」
「私は親に押さえつけられて育ったから、子どもはあくまでのびのびと、好きなように生きさせてあげたかった。でも、私の呪縛が、あなたたちに移ったのかと思うと」
芽生は断固として言った。
「そんなことないよ! お母さんはどんなに禁じられてもちゃんと涙の蛇口があったじゃない。
私たちは、泣くのを禁じられたわけじゃない。なぜか人前で泣くことができないの。蛇口がないのよ。それがどうしてかわからない。でも、傷つかない心なんてない。お母さんはつらい育ち方をしたけれど、私も晃も、ちゃんと愛されて育てられたと思ってる。とても幸せに育てられたと思ってるよ。
泣けないのはただの個性。お母さんの責任じゃない、罪でもない。
飼っているペットが死んで泣くのは、それこそ、当たり前のことだよ。お母さんの感性は、普通なのよ。
私は、どんな時も涙が出ない自分が悲しかった。いろんな場面でね。でもどうしようもないの」
ああ、優しい子に育ってくれた。今更そう思うとともに、また新たな涙がにじんだ。
「……ごめんなさい。私って、……駄目だなあ」
母は空を見上げて、ため息をついた。
そして、摘んでいた小さな花々を差し出した。
芽生は黙って、それを受け取った。
二人バスに揺られて、ひとまず家に帰った。
心配していたらしい父が真っ先に出てきた。
「たくさんライン送ったのに、見てくれなかったの。母さんどこにいたの」
「この人はパンパスグラスに隠れてました」と芽生はすまして言った。
「ごめん、雑音ききたくなくて、スマホの電源切ってたわ。晃は?」
「もう帰ったよ。母さんのこと心配してたぞ」
「ああ、せっかく来てくれたのに、こんな帰し方しちゃったわ、あとで謝らなきゃ」
父はまじめな顔で言った。
「あいつ朝この家に来た時、花の中のエリーをなでたあと、ちょっと部屋で探し物してくる、って言ってしばらく戻らなかったでしょ。降りてきたときの真っ青な顔、覚えてる?」
「……」
弥生はうつむいて、口元を押さえた。気づいていた。気づいていたのに。
芽生は、草原で母から渡された青い花や白い雑草を、青い硝子のコップに生けた。
そして、ピアノの上の、写真立ての中のエリーの前に置いた。
母は振り向いてその様子を見ると、頭を下げた。
「きょうは、本当に、みんなを傷つけて、ごめんなさい」
「いいよ。家族だから、みんなわかってるよ。お母さんだけ、ぼくの家系の遺伝の犠牲者じゃないってこと」
夫はおどけた風に言った。
芽生は声色を明るくして言った。
「ねえ、週末は晴れだって。
お母さん、私ピクニックのオープンサンドの材料持っていくから、パンパスの草原でピクニックランチしようよ。その前にもちろん合同葬のお墓参りしてからさ。きっと周りをエリーが飛び跳ねてるよ。
そして、エリーがどんなに可愛くて人懐こくていい子だったか、天国のエリーに聞かせてあげよう。泣いても笑っても、ダメ出しなしだよ。都合がよければ、お兄ちゃんも誘おう」
「おっ、いいな、それ。彼女が来ると言ってくれるなら、晃の嫁さんも誘おう」父が言った。
母は微笑んで言った。
「じゃあ私は、おにぎりを作るわ。お米はそうね、ミルキークイーンと、おいしい天然水を買ってきて、一番おいしいお海苔をまいて、心を込めて今までで一番おいしいおにぎりを作る。大根ときゅうりと人参で、丁寧に、糠漬けも作る。だから、彼氏もつれていらっしゃい」
「うわ、それ、最高!」
芽生は歓声を上げた。母の作るおにぎりは、どんな御馳走よりも芽生の大好物だったのだ。
「お母さん、私の彼氏は、時夫くんはね、どっこに出しても恥ずかしくない、人間も犬も猫も大好きな、心がすごーくあったかい人なんだよ。エリーの話聞いただけで、涙ぐんでた。
見目麗しく、涙あり。二世に乞うご期待!」
「なんですって。じゃあ何が何でも連れてきなさい」間髪を入れず弥生は言った。
「お母さんのおにぎり、食べてもらうの楽しみだわ。多分人前結婚式になるな」
風もないのに、エリーの写真の前の小さな花々がさやさやと揺れた。
この物語に出てくるG寺と隣の植物園にはモデルがあって、特徴で気づいた方もいらっしゃるかもしれません。実際の植物園はペット入場禁止ですが、フィクションとして飼い犬との思い出の場にしました。




