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その2 わたしは孤独だ

 明日の合同火葬のあとは、それぞれ都合のいい日に改めてお参りに来ることになった。


 霊廟を出ても、母は茫然とした表情だった。父は隣の晃に聞いた。


「ミズキさんとは仲良くやってるか」

「仲いいよ。よく温泉巡りしてる。あとキャンプもね。千葉のキャンプ場選ぶと、たいてい猫に会えるんだ。餌くれって甘えてくるくせに、抱っこしようとするとめちゃめちゃひっかいてくる」

「そういや、お前もそんなもんだったよ。赤ん坊のころから、芽生は母親には甘えまくるのに、お前は抱っこするママの鼻の穴に指突っ込んだり、薄い爪で唇わしづかみにしたりしてママを傷だらけにしてた」

「俺その時のこと覚えてるよ」

「うそっ!それって、0歳ぐらいの記憶ってことになるよ?」と芽生が言うと

「でも覚えてるんだよ。抱っこしてこちらを見ながら、あばばばー、とかブブーとか言ってくるんで、このうにょうにょしてるのなんだろうと唇つかんで、その上の二つの穴に指突っ込んでた」

「じゃあ、お兄ちゃんって天才じゃん」

「おう、お陰様で」と歌うように晃は言った。晃も妻のミズキも、外資系の一流企業で知り合って一年前に結婚したのだった。


「おかあさん、そろそろお腹すいたろう」と父。

「なんだか胸が詰まってよくわからないわ」無表情の母が答える。

「じゃあ、きょうは平日で人でも少ないし、参道の人気の蕎麦屋で精進落としといきますか」と父が言う。

「じゃあ、いつも行列で入れない、U店がいいな!」と晃。

「あそこなら平日でも並ぶぞ。まあいいか、急ぐ用事もないし」

 

 案の定、店の外には10人ぐらい並んでいたが、これでも少ない方だ。父と兄は株の話を始めていた。


「晃、お前最近、株のことやたら聞いてくるけど、結局どこの買ったんだ」

「製薬会社と、半導体の会社のK。あとはねえ、世界情勢がトランプのバカのせいで混とんとしてるんで、なかなか手が出せないな」

「確かにね」

「実のところ、お母さんのほうが利殖がうまいんだ。うちの耐震リフォームなんて、お母さんの貯金で完成したようなものなんだよ。今住んでる土地は国からの借地で、家も土地も名義はお母さんが、亡くなったお祖父ちゃんから継いだんだ。だからお母さんのお金しか使えなかった」

「へえ、そうなの」

 

 ようやく席についてしばらくすると、おいしそうな天ぷらそばが運ばれてきた。

 母親だけは、梅おろし冷やかけだった。


「お母さん、お勧めの銘柄ある?」晃が聞く。

「しゃべるより先に食べなさいよ」母はそっけなく答えた。


「こういうときはね、会社の業績で選ぶというより、短期売買でもうけを狙った方がいいんだぞ」と蕎麦をすすりながら父が言う。

「それはわかってるけど。どういう基準で銘柄を選ぶのさ」

「まずだな、 流動性とボラティリティが株価チャートに現れるサインを……」

「専門的すぎるよ。ボラティリティって何」

「お父さんさ、投資のプロみたいな口きくけど、配当金一年でどれぐらいよ?」と芽生が聞くと

「金髪の草原」

 母が独り言のように口をはさんできた。

「え、なに? 金の相場?」晃が聞き返すと、いきなり母はバシッと箸をおいた。


「なんで誰もエリーの話をしないのよ!」


 全員が一瞬、母の顔を見て固まった。


「エリーを送ってから、関係ない話ばかり。今日は株の話をしに来たの? ここはエリーの精進落としの席じゃないの?」


 明らかに怒気を含んだ声だった。芽生は気づいた。母はずっと、この情緒も涙もあらわさない、自分と悲しみを共有できないドライな家族の会話に、耐えていたのだ。


「エリーの話はしたくないの?」

「したくないわけじゃ…… お母さん、落ち着いて」と芽生がなだめるように言う。


「じゃあこの話のどこでいつ私はエリーの最後の一週間の様子とか治療の時頑張ってたこととか、思い出とか、話したらいいの。それとも、ついさっき遺体を渡したからもう終わり、私がそういう話をしたいと思うのは、迷惑なの? もう終わったことだから? スマホに子犬の時からの写真を撮りためてあるんだけど、見る気もないわよね?」


 黙り込んだ晃にかわって、父が言った。


「それは、お母さんの悲しみもわかるし、みんなそれぞれ心の中に抱え込んでることだよ。悲しくない家族なんて一人もいないよ。でもさっき、お別れの時、ちゃんとエリ―に話しかけて手を合わせたじゃないか。ここでまたそういうつらい時の様子を聞くと、お母さんがまた泣くと思って……」

「私は泣きたかったのよ!」母はきっぱりと言った。


「わかってた。お父さんは泣かない人だって。ご両親が死んだときも、猫のユキが死んだときも、泣かなかった。どうせ私が死んでも泣かないんでしょうよ。それはそういう性分なんだから、そしてあなたたちにも遺伝してるものだから、それは仕方ないと思ってたわ。エリーの病院通いも、薬を飲ませるのも手伝ってくれたし、お父さんには感謝してる。でもね」

 いったん噛みしめるように口を閉じて、母は続けた。

「私は俗物なのよ。泣かないお父さんの前で泣きたくなかったから、昨夜はお父さんが寝るまで我慢して、それから思う存分泣いてた。それでも、胸が張り裂けそうだった。愛犬や愛猫を失って、一家で号泣したとかいう話を聞くと、羨ましかったわ。そういう風に家族とこの涙を分かち合えたらどんなにいいかって。涙はね、心にたまった悲しみや苦しみを浄化してくれるのよ。

 でも、ひそかに今日に期待してたの。

 今日という日だけは、誰かとこの感情を共有できるだろうってね。

 でも期待した私がばかだった。わかってたはずなのに、あなたたちが心の痛みと涙を同期させることができないってこと。

 それでも、この席ではしんみり、涙はなくても、エリーの子犬のころからの話が出るものだと思ってた。でも、全然。株の話だけ。お金の話だけ。これでおそば代払ってさようなら? これが精進落とし?」


 誰も答えられずにいると、母はひと呼吸おいて言った。


「わたしは、孤独だ!」


 最後の声は叫びに近かった。

 しかも文語体。

 

 近くの席の人がこちらを向いた。

 誰も、泣いている母を前に何も言えなかった。母は財布からお札を出すと言った。


「今日はみなさんお付き合いありがとうございました、未熟な母でごめんなさい。こんな思いをさせてごめんなさい。泣き虫でごめんなさい。私は先に、バスで帰ります」

「お母さん、それはないよ。そんな風においていかれたらみんな、ねえちょっと」父の呼びかけにも答えないまま、母はさっさと店を出て行った。


 皆があっけにとられている中、芽生は静かな声で言った。


「お父さんがあれだけちゃんと言うべきことを言ったうえでなんだから、仕方ないよ。

 お母さん、ほんとは私たちを傷つけたこと、後悔してると思う。

 別にお母さん、俗物じゃないよ。家族同然のペットを失って悲しみが止まらないのは普通だよ。こっちがおかしいのよ。可哀そうなのは、普通の感性を持ったひとりぼっちのお母さんの方だと思う」

「泣くのがまともで正しくて、涙流さずに悲しむのは悪い? 悲しみ方は人それぞれじゃない?」晃が言う。

「そんな平たいこと言ってるんじゃないわよ」芽生は兄を睨みつけた。

「変な言い方になるけど、今日の主役は、二度と会えない世界に行ったエリ―よね。そして、そのエリ―の死で心がつぶれそうになってるお母さん。

 今日は、そのエリーとのお別れの日なのよ。

 涙は必需品じゃないよ。でもこの場では、お母さんの気持ちを察して、静かにエリ―のことを語り合っていればよかったと思う。一番苦しんでるお母さんに、寄り添うべきだったと思う。私たち、無神経だったわ」


「……」晃はため息をついた。そして言った。

「小さいころから思ってたよ。人のことは言えないけど、お父さんて、泣いたの見たことないし、怒りもしないよね」

「なんだ。急に僕か?」

「遺伝の責任とれよ」

「それは先祖代々の墓に行って言ってくれ」

「そういえばお父さん、あまり笑わないし、怒った顔も見たことないね。いつも悟りを開いた僧侶みたいな顔してる」と芽生が言うと

「しょうがないじゃない。喜怒哀楽の波が静かなんだよ」

「いちど、職場でものすごい侮辱を受けたと言ってたじゃない。てか、面罵されたって」

「あー、今でも思い出せるよ。あれね。でも腹は立たない」

「なんで」

「昔から、自分以外の人間全員バカだと思ってるから。馬鹿の言うことで傷ついてたら損だろう」

 

 晃が噴出した。

「性格悪っ。僕と同じだ」


「そういやお前、大学時代天丼屋でバイトしてた時、失敗するとバックヤードに引きずり込まれて、お前みたいな役立たず見たことないと何度か殴られたと後で言ってたな。頭の悪そうなヤンキーの先輩に。でも腹も立たないし、バイトやめたら負けだって」

「だって相手バカだから殴るしかないんじゃん。時間さえかければ覚えられることなのに。いつかこいつに認めさせればすむことだと思ってたし。バイトがどんどんやめてく中で気合で仕事覚えて、三か月ぐらいしたとき、お前思ったよりなかなかやるじゃんってそいつに笑顔で言われてさ。これでお前に店任せられるわ、後輩どもをよろしくな、って言われたとき、勝ったぞ!って思ったね」

「それでそのひとバイト辞めたんだよね。なんつうか、鈍いっていうか、お兄ちゃん我慢強いね、尊敬するよ」芽生は苦笑いした。

「そらみろ。いいところも遺伝してるだろう」と父は冗談めかして言った後、


「さて、これからどうするかな。一応みんなで一度実家の方へ帰るか」とため息交じりに言った。


「わたしはいい。ちょうど季節もいいし、いろいろ考えたいから、隣の植物公園で、春のバラ園と温室見てくる。バスで帰るわ」

「そうか。晃は?」

「実家まで送ってくれたら一度実家によって、バスと電車で自宅に帰るよ。ちょっと母さんも気になるし」

「わかった。お母さん、おとなしく家に帰ってるといいんだがな」

「昔から腹立てるとどこかのビジネスホテルにプチ家出してたから、また脱出してるかもね」芽生が言うと

「夫婦げんかしたとき、I公園の女子トイレの個室にひと晩こもってたこともあったな。あの時は見つけられなくて苦労した」

「そんなことがあったの」と晃。

「まあ、実際一緒に泣いてあげられないんだから、犬散歩の仲間でも呼び出して僕の悪口言いながら食事でもしてたならその方がいい」父は淡々と言った。


 二人が乗った車を見送ると、芽生は植物園の方向に取って返した。広大な寺と広い植物園はちょうど隣り合っていた。


 入場券を買って植物園に入る。

 まず目に入るのは咲き始めたサツキの赤。

 鯉の泳ぐ池を囲むように何層にもうねっている。

 大温室とバラ園、藤棚と梅林、牡丹にシャクヤクもあるはずだ。広い芝生の真ん中にはパンパスグラス。

 いつもは真っ先にバラ園の先にある温室に行くのだが、芽生はまっすぐ、広い草原を目指していた。広大な敷地は、平日とあって人影も少なく、うららかな四月の日差しを受けて草原が輝いていた。

 エリーが大好きだった場所だ。


 草原の中央にあるパンパスグラスは高さ3メートルにもなる、巨大なススキのような姿をしていて、秋になるとまるでススキが爆発したような穂をつける。大人が20人ぐらいで手をつないでやっと囲める規模の茂みだ。風に揺れるパンパスグラスは、この植物公園の芝生広場のシンボルだった。

 今はまだ細い穂に向かって手をあげ、蒼穹を見上げる。


 車でこの公園に来ては、よくエリーを散歩させた。エリーはこの茂みを出入りするのが好きで、よく飛び込んではパンパスグラスの穂を震わせて飛び出してきたっけ。

 

 明日になったら、エリーは煙になってあの美しい青空に吸い込まれるのだろうか。それとも今、現実のくびきを離れて、この広々とした草原を走り回っているのだろうか。


 エリ―。

 そっと心の中で呼んでみた。

 

 エリ―。私が見えてるなら、こっちへおいで。

 泣き顔じゃなくて、笑顔を見せてあげるよ。


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