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その1 金髪の草原

 土曜の夜だった。6コール目でスマホに出ると、母の弥生の沈んだ声が響いた。


芽生(めい)。もう寝てた?』


「今シャワーから出たとこ。服着てた。なに?」


『エリーね。……駄目だった。さっき、逝っちゃった。洗面所で、私の膝の上で』


 時計を見た。午後10時半。ここから家までは電車で40分。

 芽生はひと呼吸置くと、静かな声で答えた。


「そうか……。残念だったね。今からそっち、いく? 行っていい?」

『私は大丈夫。もう、覚悟してたから。エリーも14歳だしね。明日の朝早く、庭の花を摘んであげようと思ってる。それからG寺の動物霊園に電話するから、朝になったら来て』

「今、お庭、何が咲いていたっけ」

『雪柳がちょうど盛りよ。あと、菫にスノードロップ、ハナカイドウ、水仙も咲いてるわ』

「そうか。今はちょうど、庭が花盛りだね。じゃ、お花屋さんによらなくてもいいかな」

『お庭の花で十分だと思う。エリーもその方がうれしいと思うし』

 

 エリーは動物譲渡会で芽生が16歳のころ家族でもらって来たミルクティー色のミニチュアダックス犬だった。家に来たときはおおよそ生後4か月。

 臆病で甘えん坊でさみしがり屋で、家族全員になついていたが、芽生が家を出て大学の寮にうつってから、芽生の部屋のベッドで丸くなってクンクン鳴き続けていると聞いたときは、寮を出ようかと思ったほどだ。

 兄の晃が大学を出て独立したときも、残していった晃の服を集めてその上に寝て、昼間はいつも玄関に向かって座っていた、そんな子だった。

 でもそののち、この家で自分を愛してくれる人はママとパパだけだと察すると、

「もうどこに行くのも私やお父さんのあとをついてくるようになったのよ。寝るときも一緒。いつも顔をぺろぺろ舐めてくるの」と母は嬉しそうに言っていた。

 だが、エリーは13歳になったころから副腎皮質機能亢進症の兆しが見え始め、通院はしたものの、急激に元気と食欲がなくなり、寝てばかりになった。

「人間だってそう。かたちあるものは、いつかこの世とお別れするのよ。私はその未来に向けて、今流せる涙はみんな心の中で流してる」と、以前気丈にも母は言っていた。


「お父さんは、今どうしてる? エリ―のそば?」

『エリーのお気に入りのおもちゃとおやつを集めて、エリーの寝ている段ボールに入れてるわ』

「お兄ちゃんには言ったの?」とたずねると

『お嫁さんもいるし、深夜の電話は迷惑だから、ラインで送っておいたわ。そしたらすぐに既読がついて、明日朝一番で僕一人で行きますって。長い間ご苦労様でしたって』

「そうかあ。久しぶりに兄貴にあえるな」

『他県なのに悪いわね。エリー、ほとんど老衰みたいなものだから、穏やかできれいな顔よ』

「じゃ、わたしからの、おやすみなさいも伝えておいて。お母さん、心細いだろうけど、朝にはわたしと 晃兄ちゃんがそばにいくからね」

『ありがとう』

 涙交じりの声で、電話は切れた。


 今、芽生は29歳。アパレル系の会社に勤めている。付き合っている彼氏はいるが、結婚に関しては、まだ決心がつかない。


 あの流れるような、クリーム色というよりは金髪に近い美しい毛色、常に常に人の愛を確かめようとしているような真っ黒の目、はッはッはッといういつものせわしない息。母はきっとその全部を思い出しながら、やわらかな頭と全身をなでて、涙にくれていることだろう。

 

 でも父は、泣いてはいないだろう。今、私が泣いていないように。

 

 エリーの前に飼っていた白猫のユキが死んだときもそうだった。オッドアイの美しい猫。気位が高く賢くて、自分と母にだけ心を許していた。芽生が10歳の時から6年家にいて、白血病で死んでしまった。そのときも、父は泣かなかった。自分もだ。そして、兄の晃も。

 

 ユキに取りすがって泣いていたのは、母だけだった。


 遺伝なんだよと、申し訳なさそうに父は母に言っていた。

 泣かない遺伝。泣けない遺伝。

 弥生以外の家族は、涙を流すことがない。


 父方の祖母も、祖父の葬式の時一粒も涙をこぼさなかったし、自分も妹も両親の葬儀で涙を流さなかったと父は言った。だから、父に顔つきの似ている二人の子供、兄の晃と自分は、その血を継いでいるだけなんだと、芽生は思っている。

 実際、物心ついたころから、ろくに泣いた覚えがない。

 赤ん坊の時はともかく、幼稚園のころから転んでも注射されても、親に怒られても泣いたことがない。一番ショックだったのは、心から愛しいと思っていたペットが死んでも、涙が出なかったことだ。心は十分に動揺しているのだが、それは涙という泉を溢れさせてはくれないのだ。

 そのせいで、中学のころから友人の間で、「芽生を泣かせる会」までできた。

 と言ってもそうタチの悪いものではない。これを見て泣かない人間はいない、という悲恋映画や動物モノを見せられる。転校していく友達のお別れ会でスピーチをさせられる。推しの俳優が急死したと嘘を聞かされる。どれも無駄だった。

 そして、皆が抱き合ってはお別れを言う、涙なみだの中学の卒業式。

 芽生は一人でニコニコしていた。

「じゃあみんな元気でねえ」

「なんでアンタ一人だけ泣かないんだよっ。泣けこの変人!」と友人。

「ひとりじゃないもん、うちの家族みんなだもん。あ、母は違うけど」

「あんたが泣くときっていったいどんな時なんだろね。世界の終わりかな」

「いやいや。世界の終わりが来ても、母の作ったおにぎりがあれば、それで十分だし」

「そんだけ涙がなくてよくドライアイにならないね」

「あくびすれば出るよ。ただ、感情と連動しないだけなの」

 実際自分で思い出しても、あくび以外で涙が出たのは何かの拍子に大笑いしたときぐらいだった。


 一番痛い思いをしたのは、高校時代の友人が自殺したときだ。名前は名倉加乃。

 

 彼女は、病的な厭世観と、重度の鬱で通院していた。という、噂だった。

 あからさまなリストカットの跡だらけで、すぐ泣くのが嫌われて、皆が距離を置いていた。

 図書室が芽生と彼女との出会いの場だった。

 トリイ・ヘイデンの『シーラという子』を読んでいたら、後ろを通りかかった誰かに、

「それ最後まで読んでね」と小声で言われた。振り向くと前髪の長いロングヘアの少女。それが名倉加乃だった。芽生は親指を立ててこたえた。

 次に図書室で会ったとき「全部読んだよ。感動した。次のおすすめは?」と声をかけたら、嬉しそうに笑って、「100万回生きたねこ」と言った。

 それからはレンタルビデオで同じ映画を見て、感想を言い合う仲になった。

 デッドマン。惑星ソラリス。2001年宇宙の旅。マイライフアズアドッグ。お互い動物好きで、猫カフェにも行った。自分といるときだけ、彼女は笑った。本当はとても感受性が豊かで、ひそかに書いているという詩も、語彙と表現力、独自の世界観が素晴らしかった。それでもいつも、芽生以外とは口をきかず、月の半分以上は不登校だった。

 

 10月は文化祭の用意で盛り上がる月だ。芽生は実行委員長として毎日奔走し、終わった夜は仲間の家で打ち上げパーティーをした。加乃の姿は文化祭準備の間学校にはなかった。

 文化祭の翌日、加乃が陸橋から飛び降りて自殺したことを知らされた。

 

 あまりのことに心は凍り付き、葬儀の日のことはあまり思い出せない。

 家族葬ということだったが、自分だけがひそかに呼ばれ、ご両親に頭を下げられた。


「あなただけが心の支えだったと、娘は言っておりました。ただ一人の友達だったと。ありがとうございました。どうか、最後に顔を」

 棺の前に進んでも、芽生にはその勇気が出なかった。自分の罪がそこに形になってあるような気がしていた。のぞいているように見せながら、目を閉じていた。

 そして両手で顔を覆い、泣いているふりをした。

 

 帰りぎわ、中は読んでおりませんと言いながら、母親に封筒に入った手紙を渡された。

 帰宅してから、恐る恐る開いてみた。


『あなたの強さと優しさにいつも救われました。でもあなたみたいに強くはなれなかった。

 沢山の友達の輪の中にいるあなたは、やはり私から遠くて、眩しかった。私はいつも泣き虫だったね。でも私といると皆があなたから静かに離れていってしまう、それがつらい。このままだと私はあなたを縛ってしまう。あなたを私から奪うあなたの友達を恨んでしまう。それが一番いや。

 さよなら。いつも優しくしてくれてありがとう。そばにいてくれてありがとう。こんな私の涙を拭いてくれてありがとう』

 

 涙は出なかった。

 なぜだろう、悲しみと怒りと恥ずかしさが同時に魂を支配した。

 生まれてこのかた殴られたことはないが、この手紙は人生一番の打撃だった。

 

 自分は強いから泣かないんじゃない。優しくなんかない。

「ああいうタイプとあんまりお近づきにならないほうがいいよ」と皆から言われ、「えーどうして、あの子頭いいよ」「そいうんじゃなくてさ、後々面倒なことになるって」

 他の友達にはわかっていたのだ。

 実際、いつもの友人たちと談笑していると、恨めしそうに遠くからこちらを見ている彼女が、本当は少し負担になっていた。

 私は、偽善者なのか。「可哀そうな人」に寄り添う自分に酔っていたのだろうか。


 ごめん。本当にごめん。あなたも私の大事な友達だったのは間違いないんだよ。

 私なんかに近づいたのが間違いだったね。

 じゃあ私は一体、どうすればよかったのだろう。


 それからひと月あまり、芽生は表情と感情を失って過ごした。


 

 思い出から帰還すると、窓の外から遠吠えが聞こえた気がする。ベッドで天井を眺めながら芽生は祈るような思いでエリーを思い出していた。ただただ、美しかったエリーを。

 

 何かというと顔とか口をぺろぺろなめに来て、いつもちぎれんばかりにしっぽを振ってたね。理屈抜きに人間が好きだった。

 どうしてそうなのエリー、と芽生はよくエリーに言っていた。あなたのような美しい生き物に無条件に愛されるほど、人は罪のない生き物じゃないんだよ。汚らしくて残酷で、不幸で、卑しい生き物なんだよ。

 エリー。会うたびに痩せて、口の横から舌を垂らすようになったね。

 それでも濁った眼でこちらを見ながら、しっぽだけはぶんぶん振っていた。

 苦しかった?

 でももうあなたは自由だね。

 金髪をなびかせて、花盛りの草原を走り回っているだろうか。

 だとしたら、なにを泣くことがあるだろう。もう誰の世話にならなくても、あなたは永久に、自由で健康な自分自身のままだ。


 翌朝、身支度を整えて、自宅に飾ってあったフリージアの花を抱えて実家につくと、もう晃の靴があった。


「お兄ちゃん早いわね」トイレから出てきた兄に言うと

「早起きの癖がついてるからね」

「奥さん、ついていくって言わなかった?」

「あいつは僕と結婚する前、最愛の猫を亡くして目が溶けるほど泣いたって言ってた。その悲しみを思い出すから、自分はいいって」

「あら、来たのね。どうぞ、こっちよ」

 

 母の声に従って居間に入ると、テーブルの上の白い段ボールに、タオルとおもちゃと季節の花々に埋もれるようにして、エリーが眠っていた。


「……生きてるみたい。きれいだね」と芽生が言うと、

「撫でてごらんよ。まだ毛はふわふわだよ」と父が言う。


 香りの高いフリージアを顔の周辺に添え、体をなでると、毛皮はふかふかしているものの、その奥のからだはもう固まっていた。

「エリー。お兄ちゃんとお姉ちゃんも来たわよ。フリージア、本当にいい香りね」

 泣きはらした目をした母は、そう言いながらひたすらエリーの頭をなでていた。


「霊園には連絡したから、これから車で向かうよ。合同火葬は明日だそうだ。それ以降は合同葬の霊廟にいつでもお参りできるそうだよ」と父が言った。

 

 うちでは今まで飼ったペットはみな動物霊園で合同葬で弔ってきた。

 個別で火葬し、骨壺ごと霊廟の中の部屋を買って納める人も多いようだが、うちは「死んだらそれまで」思想なので、合同火葬で天に送ることに抵抗はなかったのだ。


 車の中ではみな無言だった。フリージアの甘い香りが車内を満たしていた。

 動物霊園のあるG寺は参道が賑やかなのと、蕎麦店が軒を連ねているので有名な広大なお寺だった。その一角の、動物霊園の駐車場に車をつける。

 

 霊園には、合同葬といえども、お別れの部屋が用意してあった。

 係員の男性が、「ここでお気がすむまでお別れの時間を過ごしてください。お時間になったらお声を掛けますので」と優しく言ってくれた。

 四角いテーブルの上に、花に囲まれたエリ―の箱を置く。

 白い部屋に、柔らかな午前の光とフリージアの香りが満ちる。


「金髪の草原」と母がぽつりと言った。


「エリーみてるとこの言葉が浮かぶの。これなんだっけ」


「大島弓子の漫画よ。内容に動物は出てこないけど、金髪に近いエリーを見てると私もその名が浮かんで、本棚で探してみたの。自分がぼけ老人だと分からない孤独な男性が青年の姿で描かれてて、お手伝いの娘さんに恋する話」大島弓子の大ファンの芽生はすぐ答えた。

「そうそう、そうだった、思い出したわ」

「説明しといてなんだけど、どこに草原が出てくるんだっけ」

「確か、そのおじいさんがお手伝いさんに語る夢よ。天気のいいとき外の草原を見ていると、金色の草原に汽船が到着するような気がして、それを待ってるって」

 読書好きな母は、5年前まで図書館で司書をしていた。

 

 晃は、エリーの頭をなでながら、言った。


「こんな歳までさ、金髪美人のままで。俺なんか、遊び相手にしてくれて、ありがとう。また会おうな」


 母はエリーに顔を近づけた。


「私もいつかそっちに行くから、楽しく過ごしてね。今まで本当に、ありがとう。あなたに愛されて、私は幸せだった」そして一筋、涙をこぼした。


「お前も幸せだったよな」花に埋もれたエリ―の頭をなでながら、父が言った。

 

 やがてみんなが手を合わせる中、エリーの箱は屋外に運ばれていった。



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