みんな、隠れて、私を見ている
机には、人から人へと託されたことを証明する汚れがあった。白っぽい傷跡は曲がりくれりながら、細くなっては太くなり、それを繰り返していた。最初からそこが約束の場所であったかのように、我が物顔で居座る黒い斑点が、私に挨拶してくれた。
だが、私は気に入らなかったから、「私の場所だ!」と心の中で叫び、その斑点をなぞる。ゆっくりとなぞり終えて手を離すと、嘲笑うかのごとくそこに斑点があった。お前は最初、そこにいなかっただろうに! 新品の机にいなかっただろうに! 私は、爪でカリカリと、そいつをどかそうとした。敵だ! 敵だ! 敵だ!
入学式を経て、この高校に在籍して二週間になった。前から二列目に私の席がある。しばし、女子三人組が前を通って、トイレに行く。縁があり、私はこの女子たちの名前を知っていた。浅井と下畑ともう一人の名前はわからない。
偶然かもしれないが、三人ともポニーテールで、まるで姉妹のようだと思った。みんな、人気者らしい顔をしている。しかし、浅井は目間が広かった。それが少々、とんちきな印象を与える。ほかの二人は、どちらかと縦長で目間が狭く、しまりのある顔をしていた。どうにもその中に並ぶと、浅井は偽物に見えるのだ。そして、私は浅井がこの三人組から排除されるだろうと、確信していた。その程度のことなのに、人気者の間では致命的なことだと思えた。
続いて、二人の男子たちがうるさい声で騒ぎ立てながら歩いて行った。けたたましい警報みたいだ。顔にニキビを持った目の細い男子。やせ型である。主導権を握っている奴が前を歩く。それに笑って応えるやつが後ろを歩く。
友達を作りたいけれど、どうして良いか分からない。実をいうと、入学式の時、左横の女子が話しかけてくれた。
「はじめまして! 私、下畑っていうの。二中出身だよ。どこの中学?」
ポニーテール。ぱっちりと開いた目に、元気よく上がった口角。聞き取りやすい透き通った声質。運動部に入っていたであろう、健康的に日焼けした肌。少女漫画からそのまま出てきたような、オレンジのにおい。話しかけられた時、私は、宝くじを当てた時に近しい動悸を感じた。
「六中。岩崎」
「六中? へえ。あそこの吹奏楽部すごいよね?」
「私、吹奏楽部じゃない」
「そうなんだ。中学何か部活に入ってた? 私、陸上部でさ」
「帰宅部。部活って嫌だよ。私、好きじゃない。帰宅部のほうが沢山勉強できるし」
「そっか」
そこでしばしの沈黙。もう話しかけてくれないのか。終わり? 私がちらりと見ると、下畑が微笑んで「う~ん?」と首をかしげる。でも、何か言おうとしない。
「私も陸上部なんだ」
斜め左後ろから声がした。下畑はまるで台本に書いてあったかの如く、後ろを振り返った。彼女から見て右回転だから、視界に私が映るはずなのに、特段気にする様子はなかった。
「へえ! すごい。何の競技やってたの?」
「走高跳」
「わあ! 一緒。奇跡かも」
「奇跡! 奇跡! ねえ、何ていうの?」
「浅井! よろしくね」
「浅井ちゃん。私、下畑っていうの」
「よろしく」
「どこの中学なの?」
「六中だね」
「岩崎さんと一緒じゃん」
と言って、突然私を見た。私のほうこそ驚いた。私は、浅井というやつを全く知らなかったからだ。中学の同級生なんて、覚えていない。私はそいつの顔をジッと観察すると、一回、学校の廊下ですれ違った気がしてきた。いいや、駅のホームで五回くらいあるかも。一度もないか。どこに居ても違和感がない。綺麗目ではあるんだけども、探せば粗は見つかる。普通そうな顔をしている。普通。私の敵みたいだ。
下畑は、私たちの会話が弾むのを想定しているのか、天使が飛び回るように天真爛漫な笑みをもって、双方を見ていた。が、浅井の方は私の視線に気付いた時、敵意に近しい視線を送り返す。私を無視して話し出す浅井に対して、下畑は最初から何も無かったように笑顔を向けた。
二人は、満面の笑みをこぼして、両手を合わせる。ぶつかるというよりも、手のひらを同じ高さ同じ場所において、限りなく近づける。そうするから、時々手のひらが擦れる。私は彼女らの会話に、入ろうとして、近づく。でも、話そうとしても、話しかけるタイミングがないんだ。凝視しても、私のほうを見ないし、息継ぎもなしに至近距離で話している。以前からの知り合いであったかのようだった。椅子越しなのに、今にもキスしてしまいそう。口臭とか不安にならないのか、と私は思った。
一瞬だけ、浅井が私を見た気がした。浅ましい顔だった。痩せた犬が見せるような威嚇。野良猫が、別の餌を横取りする時に見せる表情だ。下畑は、何も周りを警戒しない無垢さを振り撒いているから、一層際立った。だが、それはほんの一瞬のことで、それを隠ぺいするかのごとく、勢い良く浅井と下畑は話を続けた。
前の下畑が、後ろに入る浅井により近づく。強欲である。もうこれ以上、距離を詰めなくてって、いいでしょ。案の定、下畑が椅子ごと倒れそうになる。微笑んでいた浅井も、目を真ん丸に大きく開けた。
「あぶな!」
幸いにも、体勢を崩すだけで、何もなかった。下畑の方のパイプ椅子がぐらん、鈍い音を鳴らす。しばし、真剣な眼差しで、見つめあう二人。隣の男子が、怪訝な視線を送った。下畑が、笑い出した。まるで後ろから何かに押されて、内面からあふれ出るものだった。浅井も笑っていい
んだって気が付き、追随する。危ない事故でさえも、まるで歓迎されるべき事象のように扱った。
それから入学式を終えて廊下に出た際、右隣から声が聞こえてきた。厳粛なる空気でいたのに、急に高く幼い声が響いて、びっくりした。誰かがしゃべりだすと、自分もいいんだって思う、人間的な弱さが広まった。まるで待ち合わせしていたかの如く、近くの人と二人三人の組を作って、前のめりに相手の瞳をのぞき込み、近づきたいと身振り手振りで訴える。それでも許可をもらえるのか不安になるようで、偏屈な態度を繰り返していた。そんな新入生たちに交じって私は、間違い探しの答えのように、ぽつりと一人歩いていた。
入学式が終わった後、下畑と浅井は食事に行ったらしい。廊下で盗み聞きをした。私は、わざとらしくゆっくりと二人の近くを歩いたけれど、彼女らはオーバーなリアクションをしながら話を進めていた。私と下畑の会話など、最初から存在ないのではないかと思われた。振り返ると、都落ちした私をせせら笑う浅井がいた気がした。
結局、私は友達ゼロ人。中学と何も変わっていない。だが、私には一つ作戦がある。隣にいる女子だ。名前は斎藤。百七十センチメートルくらいの高身長な女子。関わらないでほしいという雰囲気で突っ伏し、しばし顔を上げると、警戒する獣のような鋭い視線を放つ。鼻が高く釣り目なうえ、厭世的な表情をする。
斎藤も、多分友達がいない。今まで見てきた限り、一度も誰かと話しているのを見ていない。こんな高圧的なやつ、できなくて当然だ。でも、私が友達になってもいい。きっと寂しいだろうし。
「なに?」
斎藤の太い眉毛と、微動だにしない瞳が私をとらえた。垂れ下がる髪の毛を見ている時は、あんなに冷静に考えがまとまって友達になってやろうなんて思えたのに、いざ私という存在を認知されると、恐怖が強くなった。私は、黙っていることが敵対的な行為だと感じ、必死に口を動かした。
「いや、ええと、ごめんね。何しているのかなって。気になって。何を考えているのか…。その、全然!言いたくないんだったらいいんだけど。大丈夫、大丈夫。それに、一年生始まって。どうしていいか分かんなくて。でも、斎藤さん、友達できているかもしれないから。できてそうな感じするし。話しかけられて、迷惑かもしれないんだけど。話したくて、それで…」
話を始めた時と今とで、話したいことが変わっている。私は、自覚があるのだ。元々話したかったそれを思い出そうと試みるが、漆黒の峡谷に落としてしまったかのごとく、消失してしまった。実在していたと確信できるが、もう二度と取り戻せない。最初を境に声量はどんどん小さくなっていく。前半使っていたジェスチャーは、いつの間にか私の腕が凍り付き、消失していた。語尾に到達して、頭から次の分を取り出そうとしても、何もないものだから、間をつなげるしかない。
斎藤は何も反応を示さなかった。姿勢も表情も口の開き具合もそのまま。まばたきだけが、彼女を生きていると証明した。生きている。だから、考えることはできているのだ。考えたうえで、私に何も提示しない。それが一番怖い。私が呼吸をするため、再び何か言いだそうとした時だった。
「別にいいから。何も考えてねえよ」
そうとだけ言う。私の心が、峠を超え、重しを足につけて、砂浜を歩き、素足のまま海に入り、暗い深海へと沈んだというのに、こいつはさも興味なさげに言い捨てたのだ。私は、最初呆然と見ていた。そんな私を置いて、斎藤はまた惰眠を貪る。私は、洞穴の中にいた。中に財宝があると思ったのに、存在したのは苔だけで、見上げてみれば縄が無くなっているのだ。私はそこをグルグルと無意味に回ったのち、苛立ちを覚えた。なぜ、私がこんな目に合わないといけないのだ! せっかく、私から話しかけたというのに! こんな愛想のない奴だから、友達ができないんだ!
私はもう二度とこんな奴を助けない、と固く心に誓った。私だけが斎藤を見ているのは、損だと思ったから、大袈裟に首を動かし、同じように突っ伏した。気分を落ち着かせるため、イヤホンを取り出し、大好きなJ-POPプレイリストを再生した。
私は、斎藤が失敗する姿を考えた。例えば、教科書を忘れてしまったとか。いつも冷淡で尊大な態度の斎藤が、顔をふいに歪ませる。少しの歪みだ。バッグの中身を確認する。微かな可能性を信じ、必死になって探すだろう。崖から落ちそうな人が、貧相な枝を掴むように。私はそのことを考えて、良い気分になった。
段々と事の重大さを理解した斎藤は、青ざめ始める。だが、私にそれを知られたくないから、気丈に振舞う。でも、視線を動かす頻度がいつもより多かったり、あるいはシャープペンシルを落としたり、私と不自然に目が合ったりするはずだ。
最後のクライマックス。顔と机の狭い隙間、私だけの宇宙の中で、悦に入る。起承転結における転だ。
斎藤は私に話しかける。だが、すぐに反応する必要はない。無視する私を見て、斎藤は苛立ったように身体を揺らす。私はゆっくりと反応する。
「なに?」
あの時の斎藤のように、傲慢で冷たい声! 蟻を踏み潰すような語気! 話したくないのに、そっちのほうから話しかけてきたと示すために、冷たい視線で見つめる。斎藤はそれでも言うしかない。彼女は、必要に拳を握り締めて、自分の怒りを処理する。私にぶつけられない立場だからだ。
「あ、あのさ。教科書を貸してほしいんだけど」
「え?」
私は大きく間を取って、威嚇するように言ってやる。斎藤の顔は台無しだ。いつものクールな顔は、苦々しい焦りと怒りに染まる。真っ赤な顔に、眉毛をハの字。いつもの生意気なニヒリスティックは、焦燥感に塗りつぶされる。
私は何も言わない。喋るならそちらから話すよう、視線で促す。踏み潰されるスポンジのように、沈黙が斎藤を圧迫していった。それが臨界に達したとき、糸で引きずり降ろされ、座り込んだ。みっともない姿だ。
「お願いします。貸してください」
「しょうがないなあ。貸してやろうか」
私は、わざとらしく視線を逸らす。小動物が主人に捨てられないよう、私を見上げる斎藤。イヤホンから流れる音楽も、クライマックスだ。私は、リズムに合わせて小刻みに身体を揺らし、心地良い刺激を味わった。身体と机が擦れるたび、幸せになった。
突然、背中に刺激が走る。何かが強い調子で押している。私のことを起こそうとしている。誰だ、私は今、最高な気分なのに。怒りをそのままに立ち上がると、起こしていたのは例の斎藤だった。いいや、彼女だけじゃない。教室にいる全員が、着席し、私を見ている。嘲笑や、いたたまれない間抜けな生き物を見る時の不安な表情が、あたり一面を覆っている。私はイヤホンを外す。一斉に静寂という弓矢が放たれる。冷たい空気が私の心を引き裂く。
「岩崎。授業、始まっているぞ」
前にいた五十歳くらいの、男の教師が、野太い声で言った。不機嫌な声色であったが、この先生はいつもこういう声だ。だから、特別なことが起こっているわけではないのだ。
「はい」
「授業を聞きなさい」
「い、いや! 聞いていますよ!」
授業をサボっていると、思われたくない。
「お。じゃあ、P11の巻末問題を答えてもらおう。前回の宿題だ」
皮肉に満ち溢れた嬉しそうな声だった。口答えしてきた生意気な子供が許せないと、彼の口元が語っていた。
私は、先程の白昼夢の余熱が、揮散していくのを感じた。寒々しい。私に送られる視線は、好奇心だった。ライオンの群れに気付けない間抜けな草食動物を、上からヘリコプターで眺めている。沈黙は不安定である。みんな、クスクスと笑いたいが、笑ってしまえばこの滑稽なピエロの失敗談を邪魔してしまう。愉快な劇を楽しむべく、暗黙の合意が作られていた。
周りには敵しかいない。私が泣けば、みんなは嘲る。私が不安げに揺れれば、みんなはワクワクする。私の不幸はみんなの幸福だ。この世にいるのは、敵だけだ。私が間抜けなことをしようと待ち構え、私が失敗するように望み、私を見下し、馬鹿にする。
風船から空気が漏れ出るような、ユーモラスな吐息が反射する。それを聞き、教師が満足そうに笑った。私は下を向いた。みんなの望んだことをしていた。
「イ。曖昧さを表す暗喩」
突如として、注目の的は左にスライドした。斎藤は、退屈なものを見る冷めた目で、教師を見ていた。生徒たちの失望に近いざわめきが、斎藤へ伝わる。
「斎藤に聞いたわけじゃないんだがな」
教師がバツ悪そうに言う。
「時間がもったいない。悪趣味だと思う」
その言い切りが、一つの章末になった。それから仕切り直して、授業が始まった。みんな、私をいじめようとしていたことをすっかり忘れてしまったかのようだった。私は、勘づかれぬよう慎重に周りを見渡すのだが、誰も私を見ていない。つまらなそうに窓の外を見るか、狂ったように黒板とノートを見比べせっせと書いているか、消しゴムを触っている。だが、ある女子生徒と目が合ってしまった。
私は慌てて、視線をそらした。私は手で顔を覆う。意味を理解した。みんなずっと私を見ている。まだあのゲームは続いていたんだ。みんな、隠れて、私を見ている。そう思うと、ゾッとしてきた。私は教科書で前を守り、横髪で左右を守り、机で下を守った。
授業が終わって、教員がいなくなった後、私は立ち上がった。誤解を解かなければならないと思った。あの教師と斎藤、どちらからにしようか迷った。だけど、教師は終わるとすぐに廊下に出て行ってしまったから、斎藤にした。
「さっきのことだけど…」
いつものように突っ伏していた斎藤がこちらを見る。早く終わらせてくれ、と視線が訴えていた。だが、私はちゃんとしている。それを知れ。私は理解していたのに! タイミングが悪かっただけなのだ! いつもの私なら、難なく答えただろう!
「別に、私分かっていたし」
「そうかよ」
言い終わると同時に、斎藤はため息をつき、また突っ伏す。間違えて、呆れられたみたいだった。斎藤の長い髪は光沢が少なかった。拒絶するかの如く、光を返さない。私は周りを見渡した。幸い、今は誰からも見られていない。見られるのは怖い。でも、あの檻を壊してくれたのは誰だろう? 腹立たしく髪を見せびらかす、斎藤だ。
「ありがと!」
「は?」
私は恥という感情を、声量で押しつぶす。いつもは全く動揺しない斎藤が、消し忘れた火を思い出したかのように、顔を上げた。
「助けてくれて、ありがとう!」
私の左斜め後ろにいた二人組の女子が、ギョッとした顔をして、こっちを見てきた。斎藤は、いつもきつく閉めている口を、伸びきったゴムのごとく開けていた。こちらを見ている女子たちの視線に気が付いて、斎藤は、私に宥める口調で言う。
「いいって。いいって。分かったから」
長身な彼女が立ち上がると、私の身体をすっぽり覆ってしまう。私の肩を叩く。途端に幸福が生まれ始める。私の身体を一通り循環し、首の下あたりで暖かくなる。私と斎藤は、同じものを持っているのだと確信した。
私は急に、ずっと前からの古き友人のような親近感を感じた。授業の合間を縫って、斎藤を見た。私が周りから見られているかどうはどうでも良くなった。私は見られる側から見る側へと回った。気分がとても良く、色々なことを忘れさせてくれた。
「ねえ、斎藤。一緒にご飯行こうよ」
放課後。幾度も同じ道を通って、同じ景色を見た友人に声を掛ける気持ちだった。斎藤は少しの驚きと倦怠感が混じった顔をする。こいつはいつもそうだ。これが斎藤なんだろう、と心の中で弾みをつけて叫ぶ。
「今日は予定があるんだ。弟の面倒を見ないといけない」
「いいじゃん。行こうよ」
「そういうわけにはいかない」
「なんで? 面倒なんてみなくていいじゃん。何年生?」
「中一」
「いらない! いらない! もういらないでしょ。ごはん行こうよ」
「うるさいなあ! 急にずけずけと! 人の事情も知らずに!」
斎藤が突然叫んだ。私が後ずさりをすると、お尻の右側が椅子の角にぶつかって、痛かった。もうこれ以上後ろに下がれない閉塞感を味わった。斎藤はその身長を存分に生かして、沸騰しそうな怒りを表した。私が唖然としていると、そのまま行ってしまった。
ふと教室の後ろを見ると、浅井がいた。公共の場で物を破壊しだした人を見るような警戒感、自分はそんな奴と違うと主張する嫌悪の表情を、持っていた。私が対抗して睨み返すと、慌ててそっぽを向く。そしてまた、下畑たちとの会話に興じる。一連の出来事を終わらせるため、不自然なまでに私のほうを見なかった。
なぜ、斎藤は断ったのだろう。もしかして、浅井とご飯に行く約束をしているのか? 斎藤に友達がいないっていうのは、私の勘違い。裏で結託していたなら、あいつは敵だ。私は、トラックをずっと回り続ける。どこまで回っても、前に進まない。ある時、足首が勝手に動き出した。
なぜか両手を天井に伸ばし、ぴょんぴょんと飛び跳ねる二人組の男子の間をすり抜け、階段を下りる。か弱さをアピールするように、薄っぺらいクリアファイルを胸に抱きかかえた、メガネの女子の横を、通り過ぎる。廊下を出ると、大きな障害物が現れた。私は左へ倒れこむように、間一髪避ける。
「おい。気をつけろ」
「すみません!」
後ろから、男子の低い声があった。私は謝ったものの、決して後ろへ振り返らなかった。靴のかかとを踏みながら、外に出て、それを整えながらあいつを探す。いない。校門の外に出た。代わりにいたのは、腹立たしいほどやる気のない走りで追いかけあう、ふざけた女子たちだった。名前も知らない。
次の日、金曜日。何もかも奪いつくすような薄暗さの中、土砂降りの雨が降っていた。斎藤は登校した。いつもと変わらず不機嫌に突っ伏し、しばし警戒し、その鋭い瞳を放つ。私のほうも、前日の切羽詰まった気持ちは、くだらない映画のラストに思えた。私はその日、確かめる意欲が湧かなかった。
土曜日、私は午前中の時間を使い、散歩することにした。今日は晴れのうち曇り。斎藤は敵なのか、何度考えても分からなかった。両親は別々にどこかへ行ってしまった。机には千円札が置かれていたので、昼ご飯を食べることができる。黄ばんだ電柱。穴にレジ袋が詰まっていた側溝。欠けたブロック塀。そういった住宅街を私は歩いている。
汚らしい住宅街を出ると、遮るような高い土手がある。上には桜がある。この生活臭漂う街において、唯一の綺麗になろうと努力している場所だ。土手の雑草が生えた坂には、ボロボロの精肉容器や赤い何かがついた割り箸が、姿を見せていた。階段を踏む足の感触から、ところどころに崩れていたり盛り上がっていたり、していることが理解できた。
土手を上がりきると、何かが舞っていた。
「せっかちな奴だ。もう行ってしまうの?」
だから桜は嫌いなんだ。私が思い出した頃を見計らって、散り始める。まるで嫌がらせみたい。瞼に何かが覆いかぶさる。痛い。
私は腹立たしく首を振ると、ふてぶてしく桜の花びらは落ちていく。私はいら立ちを抑えるよう息を整えていると、何かくすぐったいものが当たった。私は髪をかきむしる。シラミがしがみついたみたいに、髪の油分と結合していた。顔を二、三回、野良犬みたく振ると、桜の花びらが一枚舞い散った。お前のせいか! 敵が! 私の事がそんなに気に入らないのか。
私は悪の化身を消し去るべく、攻撃を始めた。だが、私がそいつを握りつぶそうとしても、あざ笑うかのように避けられた。拳をつかむ時に生まれる風のせいだ。敵意を?き出しにすればするほど、反発する桜の花も強くなる。そうこうしているうちに、その桜の花びらは落ちてしまった。仕方ないので、とりあえず、その花びらを踏み潰した。薄く平べったい桜の花びらを踏みつけたところで、あまり違いがなかった。少々の土埃が付着しただけ。拾い上げて、破り捨てるのも面倒だ。
「死ね!」
私は一番近くにあった桜の幹を蹴り飛ばした。お前が、桜の花を咲かせたのが悪い。お前がこれを生み出さなければ、こんな目には合わなかった。あるいは、私が生まれてこなければ、こんな目に合わなかった。私がみんなから見られるのも、お前が蹴り飛ばされるのも、生まれてきたからそうなったのだ。運命である。
私は蹴り飛ばした後の幹を眺めた。外見上の差異は無かった。こんなことなら、しなければ良かったと思った。足の甲あたりが、後悔と連動しジンジンと痛んだ。突如として、あちらの土手から、灰色の自転車に乗っている男子高校生が現れた。私はしまったと思った。桜の幹を蹴り飛ばしたのを、見られた。いいや違う、焦って怒っている私の内心もよく見ている。私はまた見られなければならない。土手の向こう側で立ち止まるか、川を渡ってまで、私を嗤いに来るだろう。
私は視線をそらした。冷水に入れられる激痛を味わった。鳥の声が響く。人の苦しみも知らずに、響かせる。花びらのくすぐったさが、不快から快感へと変わっていった。痛い日光が、私を守るような守護者の手に変わった。
「あっ!ああっ!」
突然のことだった。狭い折に入れられていたそれが、展開され自然な形に戻る。見ていると吐き気がするキツイ色から、柔らかい淡い色合いへと変わっていく。それは見分けがつかないほど繊細な色だけれど、本来のものだ。あちらの土手の男子高校生が、意志を持って生きているのだと初めて知る。私を嘲ず、私に手を貸さず、ただ通り過ぎていく。
一心不乱に私は踊った。視界は常に変化した。空の優しい水色、桜の厳かな茶色、住宅街のナンセンスな灰色、川の濃緑。遠くから小さな男の子の叫び声がした。あそこの公園だろうか。しかし、私はそれをつかむことができず、液体のように落ちていく。それで良いのだ。
ある時に膝の力が抜けて、私は草むらに寝転がる。息を整えながら、改めて、土手の向こう側を見る。もう顔を思い出せない、あの男子高校生は、すっかりいなくなっていた。
私はそれに満足して、スキップしながら帰っていった。




