01-08
チヒロは父親に会うことを諦め、罪悪感と共にアパートを立ち去ろうと歩き始める。
するとアパート前の路地で柄の悪い男が寄って来て、無理矢理に肩を組まれ、チヒロは足を止めた。
「よぉ、あんちゃん。抜け駆けはナシで頼むわ」
絡んできた男は、パンチパーマに茶色のサングラス。
けばけばしい柄物のシャツと、縒れたダウンジャケットをだらしなく着た、任侠映画さながらのチンピラである。
「何のことですか?」
絡まれる理由が分からないチヒロは訝しげな表情で、疑問をそのまま口に出す。
「何ってお前、普通は香典もらった後を狙うのがセオリーだろうが」
チヒロはすぐに、チンピラが借金取りであることを理解した。
「あの、僕そういうのじゃないんで」
チンピラの腕を退けて立ち去ろうとするチヒロであったが、胸ぐらを掴まれて引き戻される。
「そういうもんじゃなかったら、どういうもんだっつー話になるよなぁ? お前、何もんだ?」
顔を近付け、サングラス越しに睨みを利かせるチンピラ。
「借金をした男の息子です。同業者じゃありませんよ」
チンピラの目つきがいやらしいものに変わる。
チヒロには、チンピラが心なしか笑っているように見えた。
「ほぉ、そんならお前から取り立てるのもアリってこった」
「お金ならありません。献金で全て持っていかれてますから」
「献金? 何のこっちゃ分からんのぉ」
「イルミンスールっていう宗教の献金です。信者なんですよ、僕」
チンピラは目の色を変えると、掴んでいたチヒロの胸ぐらを離し、突き飛ばす。
チヒロはよろけてアスファルトに倒れ込んだ。
「んだよ、気色の悪いカルト宗教の下っ端の養分か。先に言えやダボが。お前らみたいなんと関わるとな、碌な事にならん。失せろや。死ね、ボケぇ」
チンピラはしっしと手を振り、唾を吐く。
チヒロはゆっくりと立ち上がり、スーツの汚れを払い落としてから襟を正すと、改めてその場を立ち去った。
チヒロは再び電車に揺られ、昼過ぎに最寄り駅に着く。
そして、その足でアルバイト先のマンガ喫茶に向かう。
バックヤードに入ると、部屋の奥では店長がパソコンに向かって事務作業をしていた。
店長は三十代半ばの男で、話のしやすい気さくな性格である。
チヒロの気配に気がつくと、店長は手を止めて振り返る。
「おう、桜田くん、お疲れさま。どした?」
「お疲れさまです、店長。すみません、今ちょっとお時間いただけますでしょうか?」
店長はチヒロの服装を見て何かを察すると、立ち上がる。
「あぁ、全然いいよ。じゃ、そこ、座って」
チヒロは部屋の真ん中にある机から椅子を引き出して座る。
店長もチヒロの対面の席まで移動し、座った。
「どうしたんだい、桜田くん? 何か悩み事かい?」
「ちょっと急な話で申し訳ないんですが、退職させていただきたく思いまして」
「えっ? 本当に急だねぇ。何か事情でもあるのかい?」
「そうですね。もしかしたら店長も聞いているかもしれませんが実は僕、イルミンスールの信者なんです」
「うん、他の人から噂は聞いてるよ。選挙の投票を依頼されたって言ってた。桜田くんが何を信じようが桜田くんの自由だけどさ、職場でそういうのはちょっと控えてもらった方がよかったかな、うん」
「そうですよね、すみません。反省しています」
「あぁ、いや、ごめん。話の腰を折っちゃったね。続き、話して」
「はい。それで、僕の母親が熱心な信者なんですが、明日にでも実家に戻って来いと言い始めまして。何せ言ったら聞かない人間なものですから、説得も難しくてですね、泣く泣くこうして店長に退職のお願いに来た次第なんです」
「なるほどね。そういうことなら、まぁ、仕方ないか」
店長は立ち上がり、パソコンのある席に戻る。
「ちょっと待ってね。退職用の書類出すから」
「すみません、ご迷惑をお掛けして」
「いやいや、こればっかりはしょうがない。世の中には、自分の意思や力だけじゃどうにもならないことが沢山あるからね。家庭の事情とかさ」
「そうですね」
「でもさ、いつかきっと、いい事が起こる日が来るよ」
「いつか、って、いつですかね?」
「いつだろうね。それはきっと神のみぞ知る、ってやつかな」
「少なくともイルミンスールの神は、僕に不幸しかもたらしていません。今のところ」
「そうなのかい? でも人生何が起こるか分からないし、諦めちゃいけないよ」
「昨日、離れて暮らしていた父が死んだんです。自殺でした。今日、父に会いに行ったんですが、再婚相手に追い返されました。お前のせいで自殺したんだって言われて、追い返されました」
店長のパソコンを叩く手が止まる。
「そっか。何か、ごめん……」
暫しの沈黙の後、店長は再びパソコンを操作する。
チヒロは印刷された退職届けに必要事項を記入し、ロッカーの中の私物を全て捨てた。
マンガ喫茶から少し歩き、チヒロはホームセンターに入店する。
そこそこ広い売場を隅から隅まで歩き回り、じっくりと商品を物色するチヒロ。
店内を三周ほど回ったところで、ひとつの商品を手に取った。
サバイバル用の折りたたみ式ナイフ。
ステンレス製で切れ味が良さそうなフォールディングナイフである。
チヒロはナイフを握り込み、大きさや使用感を確かめる。
そのナイフが気に入ったチヒロはレジで会計をする。
香典袋から現金を取り出し、支払いを済ませ、ポケットにナイフを入れて帰宅した。
荷物を置き、服を着替え、スマートフォンを確認すると母親からメッセージが来ていた。
内容は、翌日に面接する予定の会社名や住所、時間等についてである。
そして、追伸のメッセージが来る。
それは、イルミンスールの会合で、ヒカリのスピーチ後に壇上で花束を渡す役目をチヒロに任せるという内容であった。
そのメッセージを確認してチヒロは思った。
いつかきっと、いい事が起こる日が来る。
それはきっと明日に違いない、と。
Satie / Gnossienne No.7