01-07
翌朝、チヒロは父親の家に向かった。
貧しさ故に礼服を持っていないチヒロは、仕方なく黒のリクルートスーツとチェスターコートを着て電車に乗る。
自宅から駅までの道中、コンビニで買った香典袋には、献金に使わずに残しておいた父親からの仕送りが全て入っていた。
なけなしの預金も引き出し、お札も、小銭も、チヒロの全財産がそこに入っていた。
二時間ほど電車に揺られ、チヒロは目的の駅で降りる。
そこから徒歩で約二十分。
チヒロは閑静な住宅街にある二階建ての古い木造アパートに到着する。
部屋は二〇二号室。
住所を知ってはいたものの、初めて訪れた父親の住居を見てチヒロは胸が苦しくなる。
建物は絵に描いたようなおんぼろ。
自分への仕送りが無ければもっといい場所に住めただろうに。
そして死ぬこともなかっただろうに、とチヒロは思った。
玄関の前に立ち、チヒロはインターホンを鳴らす。
建物が古ければインターホンも古く、カメラもマイクもスピーカーも付いていない、ただの呼び鈴である。
「はーい」
扉の向こうから女性の返事が聞こえる。
ドアスコープから外を伺う気配がすると、恐る恐る扉が開けられる。
警戒しながら顔を覗かせたのは、若くて綺麗な女性であった。
年齢は二十代後半であろうとチヒロは予測する。
「あの、どちら様でしょうか?」
「突然お訪ねしてすみません。わたくし桜田チヒロという者です」
桜田は母親の旧姓である。
父親である芦田マサトシが自分の話をしているようであれば、桜田姓を名乗った時点で自分が何者かを察してもらえるとチヒロは考えていた。
「桜田……。あ、はい。そうですか。あなたはマサトシさんの息子さん――、ですよね」
目論見通り、父親の再婚相手であるアヤノはチヒロの正体に気がつく。
無用な自己紹介は不要であると踏んだチヒロは話を続ける。
「そうです、息子です。すみません、朝早くからお邪魔してしまって」
頭を下げるチヒロ。
恭しいチヒロの態度に警戒を解いたアヤノは、扉を開けると全身を現す。
服装は喪服で、上は白のワイシャツ、下は黒のスカートとストッキングという姿であった。
化粧も済ませていたが、チヒロには、それでも隠しきれない程にアヤノの顔が疲弊しているように見えた。
「父が亡くなったと聞きました。急な話で申し訳ありませんが、本日の通夜に参列させて頂きたく思い来訪した次第です」
チヒロは再び頭を下げる。
すると、アヤノもゆっくりと頭を下げた。
「すみませんが、お引き取りください」
チヒロは驚くこともしない。
断られる理由が明白だからである。
マサトシの自殺の原因は借金であり、その借金の原因はチヒロにある。
チヒロは、父親を死に追いやったのは自分であると考えており、アヤノも同じことを考えていたのであろうことを察した。
「そうですよね。分かりました。あの、突然の来訪に親切にご対応いただき、ありがとうございました」
「本当にごめんなさい」
チヒロは自分を納得させながら精一杯の感謝の言葉を並べ、アヤノはばつが悪そうに頭を下げる。
しばらくして頭を上げたアヤノは踵を返し、部屋に戻ろうとした。
「あの!」
拳を握り締め、勇気を振り絞ってアヤノを引き留めるチヒロ。
アヤノはチヒロの問い掛けに立ち止まる。
「やっぱり最後にひと目だけ、父さんの顔を見させてもらえないでしょうか? 父さんに会いたいんです」
アヤノは振り返らずに、一拍の間を置いてからチヒロの要求に回答する。
「あの人から、あなたがイルミンスールの信者だと聞いています。あなたの母親も――」
振り返り、チヒロを睨みつけるアヤノ。
その目には光が無く、強い負の感情が宿っていた。
「あなたの母親は、あなたへの養育費含め、慰謝料の全てをイルミンスールに献金していたそうです。あなた、母親から仕送りや学費を受け取っていましたか?」
それは、チヒロにとって予想外の回答であった。
今まで知り得なかった事実がアヤノによって告げられ、驚愕する。
「……いいえ」
「そうでしょうね。そして、あの人からのあなたへの仕送りは、慰謝料とは別に、まったくもって個人的に支払われていたものなんです。ヤクザから借金をしてまで。あなた、それを知っていましたか?」
「……いいえ」
「そう、あなたは何も知らない。何故なら、あの人があなたに気を遣わせないように全部隠していたから」
改めて聞かなければよかったとチヒロは後悔する。
本来であれば払う必要のないお金までもを、父親が必死に工面していたという事実。
チヒロの中で自責の念が更に肥大化し、勇気を振り絞った自分に後悔する。
「はっきりと言わせてもらいます。私はあなたが憎い。あなたの母親も、イルミンスールという宗教も憎い。でも特に憎いのは、あなた――。あなたさえいなければ、あの人は無理な借金をすることもなく、死ぬ必要もなかった。私は――、私たちはもっと裕福な生活を送れて、幸せに暮らせていた。でも、そうはならなかった――」
アヤノの顔はぐしゃぐしゃに歪み、目からは涙がぼろぼろと零れ落ちる。
感情の勢いが余り、アヤノは両手でチヒロの肩を強く掴んだ。
「あなたがあの人を殺したの。あなたがあの人を死に追いやったのよ。それが今さら何よ? 最後にひと目会いたいですって? ふざけたこと言ってんじゃないわよ! この人殺し!」
「……ごめんなさい」
圧倒的な憎しみを真正面から受け止めたチヒロは、アヤノの視線に耐え切れずに目線を逸らす。
アヤノの後ろ、廊下の奥の部屋に目をやると、年端も行かない男の子が虚ろな表情を浮かべて床に座っていた。
「返してよ……。あの人を返してよ……」
アヤノは力無く俯き、嗚咽混じりにチヒロを責めた。
チヒロも力無く俯き、ただそこに立ち尽くした。
そして内心、自分を責め始める。
死ぬべきだったのは俺なのかな、と。
Satie / Gnossienne No.6