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01-04

 その日、チヒロは大学の授業が無かった。

 真面目に単位を取得していれば、文系の大学四年生は時間に余裕が生まれる。


 そして、その空いた時間を使って就職活動をするのが世間一般での定石となっている。

 就職先の決まらないチヒロは日中、手書きで丁寧に履歴書を作成する。


 父親からの追加の仕送りで購入した履歴書である。

 決して高額な物ではないが、かと言って無料でもない。


 失敗しないよう一文字一文字に気を遣いながら慎重になり、神経を研ぎ澄ませ、集中し、精神を削る。

 しかし、そこまでしても人は過ちを犯すものである。


 書き損じて失敗。

 また一からやり直しである。


 ここ数日の出来事により溜まったストレスを小出しにするため、チヒロは堪忍袋の尾を緩める。


「何で手書きじゃないと駄目なんだよ、馬鹿馬鹿しい!」


 苛立ち混じりにチヒロはボールペンを壁に投げつけ、失敗した履歴書をくしゃくしゃに丸めると、それも壁に投げつける。

 白い壁紙に黒いインクの点と小さな傷跡が残った。


「このくだらない風潮を作った奴は死ね! しょーもねぇ! 止めだ、止め! こんなクソ会社、誰が受けるか! 潰れろ、クソ会社!」


 頭を無造作に掻き、大きく溜め息を吐いたチヒロは、履歴書の作成を投げ出して大の字で床に寝転んだ。

 そして改めてもう一度、駄目押しで特大の溜め息を吐く。


 怒りを鎮めるために目を閉じ、深呼吸をするチヒロ。

 だがしかし電話口での母親の言葉が脳裏をよぎる。


「――出来損ない」


「――どの企業もほしがらないわよ、アンタみたいなの」


「――私の言う通りにしていれば間違いないんだから」


 怒りを鎮めるどころか、むしろ腸が煮えくり返り、チヒロは目を見開き天井を睨む。


「好き放題言いやがって、クソが。誰のせいでこんなに困ってると思ってんだよ」


 失われたやる気は取り戻せず、そのまま時は流れ、夕刻。

 鬱々としているところに電話が掛かってくる。


 スマートフォンの画面に表示されているのは再び「母」の文字。

 チヒロは眉をひそめて苦い顔をすると、渋々着信に応じる。


「もしもし」


「もしもし、チヒロ?」


 電話口の第一声から明らかに分かるほどに、母親の声は低く不機嫌なものであった。


「アンタ、まだ献金していないみたいじゃない。どうなってんの?」


 してないけど、それが何か?

 てか、そんな金無ぇし。


 そう言い返したくなるのを堪えるチヒロ。

 臍下丹田に力を入れ、内なる怒りを押し殺す。


「ごめん、今、本当にお金無くて」


「そんなんじゃね、アンタ碌な死に方しないわよ。生きてる間にどれだけ神様に祈り、教義に則り、教祖様に御奉仕できるかが大事なんだからね。何度も口を酸っぱくして言ってるでしょ。アンタそこんとこ分かってんの?」


「……はい、すみません」


「ったく、しょうがないわね。献金はもういいわ。それよりアンタ、就職先を見つけてきたから、こっちに帰って来なさい」


「はっ? 就職先?」


 寝耳に水。

 チヒロの声は上ずる。


「そうよ、就職先よ。アンタこのままじゃ無職になるでしょ。ニートまっしぐら。ちゃんと働いて献金してもらわないと困るんだから、本部の口利きで働き口を紹介してもらったの」


「そんな! 勝手に決めないでくれよ!」


 今まで言わんとすることを言わずにいたチヒロだったが感情が先立ち、本音が零れてしまう。


「勝手に――、ですって?」


 しまった。

 やってしまった。


 チヒロはそう思ったものの、時すでに遅し。

 母親に一を言い返すと、十になって返ってくる。


「そもそもアンタがさっさと就職先を決めないからね、こうやって親切でいい会社を見つけてきてあげたっていうのに、それを言うに事欠いて、勝手に! ですって? アンタ何様のつもりよ! 自分で自分の面倒も見れないような半人前が偉そうな口きいてんじゃないわよ!」


 始まってしまった母親からの口撃。

 こうなったら最後、話の本題と関係ないことまでもを含め、言いたいことを全て言い切るまで通話は終わらない。


 早々に嫌気が差したチヒロはスマートフォンを耳から離すと、スピーカーに切り替えて机の上に置く。


「私はね、アンタにはそういうちゃらんぽらんな生き方をしてほしくないの。何故だか分かる? アンタの父親がそうだったからよ。アンタが産まれた時も、その後も、アイツずっと無職だったのよ。そんな無責任な話ってあるかしら? 無いわよね、常識的に考えて。だから私はアイツと離婚したの。甲斐性が無いから」


 今までに幾度となく、事ある毎に聞かされてきた話にチヒロはうんざりしていた。


「今までも言ってきたわよね? 父親にだけは似るな、って。でも今のアンタ、アイツにそっくりだわ。無責任なところもそうだし、電話から聞こえる声もそっくり。正直言ってアンタの声を聞いているとね、それだけでイライラすんのよ。昔を思い出してさ。ちょっと! チヒロ! ちゃんと聞いてんの?」


「……聞いてます」


「聞いているなら相槌くらい打ちなさいよ。私ばっかり喋っているみたいで、馬鹿みたいじゃない」


 そうだよ、母さんは馬鹿なんだよ。

 だからカルト宗教に嵌まって、金を毟り取られて、父さんに見捨てられたんだ。


 とは思っていても、もちろん言わない。

 ただただ耐えるのみである。


「……すみません」


 心にも無い謝罪。

 不快な今をやり過ごすためだけの言葉である。


「アイツのことはもういいわ。とにかく、面接の日時も決めてあるから、こっちに帰って来なさい。ひとり暮らしで無駄に家賃を払うくらいなら家族みんなで一緒に住んで、浮いたお金を献金に回すくらいのことを考えなさいよ」


 チヒロは返答に迷う。

 何故なら、実家に帰るつもりがないからである。


 宗教と母親に縛られる生活に今さら戻ろうなどという気は、チヒロには毛頭なかった。

 そしてもうひとつ、帰省を拒む別の理由がある。


 それは、チヒロにとって絶対に譲れないものであった。

Satie / Gnossienne No.3

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