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01-03

 その後、夕方までを大学で過ごしたチヒロは確かに、友人が言っていた通りの空気を感じ取った。

 他の友人達の態度はそっけなく、挨拶はするものの明らかに距離を置かれていた。


 彼女は、その内の誰かから噂を聞いたのであろう。

 だから別れることになってしまったのだとチヒロは合点がいった。


 自分が思っていた以上に、自分のしていたことの影響力が強いことを実感する。

 それ故に、放課後のアルバイトに向かうチヒロの足取りは重かった。


 何故なら、アルバイト先でも選挙の投票依頼をしていたからである。

 大学の最寄り駅近くにある漫画喫茶に到着したチヒロは、暗い面持ちでバックヤードに入る。


 そして案の定、予想は当たっていた。

 明るい雰囲気の職場と同僚が、どことなく素っ気ない。


 皆のチヒロを見る目は冷たく、話しかけても会話が長続きしない。

 誰一人としてチヒロと長時間居合わせようとはしなかった。


 神と教義は、チヒロを孤独に追いやりつつあった。






 夜になり、終始気まずい勤務を終えたチヒロは帰宅する。

 玄関のポストを開けると、水道代の請求書が入っていた。


 ごくごく一般的な金額ではあったが、今のチヒロにとっては厳しいものである。

 居間のテーブルに請求書を置いたチヒロは鞄からスマートフォンを取り出し、連絡帳のアプリを開く。


 しばし悩んだ挙げ句、電話を掛けることにした。

 選択した名前は、芦田マサトシ。


 母親と離婚した、チヒロの父親である。

 呼び出し音の後、通話状態になる。


「もしもし、チヒロか?」


「もしもし、父さん。すみません、夜分遅くに」


「いいってことさ。チヒロからの連絡ならな、父さんいつでも大歓迎だ」


 傷ついた心に寄り添う父親の優しい声色。

 特に今は、チヒロの心に深く染み入る。


「それで、用件は何だ? 何でも言ってみろ」


 少し躊躇したチヒロだが、意を決して口を開く。


「すみません、仕送りとは別で、お金を貸してもらえないでしょうか?」


 チヒロは恐る恐る言葉を並べる。


「そんなに金に困っているのか? 父さん、今月も振り込んだだろ?」


「実は今度、大きな選挙がありまして……」


「なるほど。確か選挙前は特別献金があるんだっけか」


 イルミンスールは真世界党の選挙費用を捻出するために、選挙の前には通常のものとは別に献金を募っていた。


「はい。奨学金とバイト代と、父さんからの仕送りを足しても生活が苦しくて、公共料金も払えなくて、他に頼れる人もいなくて、それで……」


 今現在の自分が置かれている状況を包み隠さず伝えたチヒロは、得も言われぬ惨めさを味わっていた。

 スマートフォンのスピーカー越しに、父親の長く小さな溜め息が聞こえる。


「――そっか。うん、分かった。追加でお金振り込んでおくから、心配するな」


「すみません。ありがとうございます。助かります」


 電話越しに頭を下げるチヒロ。

 申し訳なさで胸が一杯になる。


「子どもにお金のことで苦労かけたくないからな。――って、もう散々苦労かけてるけど」


「いえ、そんな! とても助かってます! 悪いのは全部、俺ですから!」


 父親の好意に甘えている自分が悪い。

 チヒロは自責の念に駆られていた。


「父さんと母さんが離婚したのだって、俺のせいですから……」


 そして不意に、口を衝いて出る呵責。


「――そんなことはない。お前のせいなんかじゃないぞ、チヒロ」


 語気を強め、マサトシはきっぱりとチヒロの自虐を否定する。


「悪いのは母さんを支えてやれなかった不甲斐無い父さんなんだ。決してお前のせいなんかじゃない。父さんがもっときちんとしていれば、母さん……、チヨコだって、あんな宗教に入ることはなかったんだ。だからなチヒロ、自分を責めちゃいけないよ。何があっても、自分を責めるな。いいね?」


「……ありがとう、ございます」


 再び頭を下げたチヒロの視界は、ぐにゃりと歪む。

 堰を切ったように零れ落ちた涙が床に大きな染みを作る。


「じゃあ明日、早速お金を振り込んでおくからな。大学ももう卒業だろ。最後の仕送りと併せた金額を振り込んでおくよ」


「助かります。本当にありがとうございます」


「なぁに、チヒロが大学を出るまでは面倒を見るって決めてたからな。社会に出てしまえば、きっと自由は手に入る。しっかり自立できれば、イルミンスールと母さんの手の届かない所に行けるはずだ」


「……はい、そうですね」


 就職先の決まっていないチヒロは、一抹の後ろめたさを感じた。

 しかし、マサトシの激励はそれを払拭する。


「頑張れよ、チヒロ。負けるなよ、チヒロ。強くしっかりと自分を持って、教義に惑わされることなく、自分の正しいと思った道を選んで生きていくんだ。何があっても大丈夫。いつでも父さんはチヒロの味方だからな」


「……うん、うん」


「それじゃあな、チヒロ」


「ありがとう、父さん」


 通話が切れる。

 止め処なく流れる涙と鼻水でチヒロの顔はぐしゃぐしゃになっていた。


 父に電話をして良かった。

 父の子に産まれて良かった。


 心の底からチヒロは、そう思っていた。

 明日への希望を取り戻したチヒロはその後、一日の疲れを忘れて眠りにつく。






 翌朝、チヒロはキャッシュカードと水道代の請求書を持ち、外出をする。

 最寄りの銀行で現金を引き出すと、その足でコンビニへと向かい、水道代の支払いを済ませた。


 残ったお金は献金に回さなきゃ――。

 そう思ったところで、チヒロは踏み止まる。


 いつの間にかイルミンスールへの献金が、所与のものとしてチヒロの中に根付いてしまっていたことに気が付く。

 母親からの言葉が、無意識のうちに自分の行動原理を支配していたのである。


 チヒロは身に付いてしまっている思考と習慣を振り解くと、真っ直ぐに家へと帰る。

 残ったお金は献金に回すことなく、無駄使いすることなく、自分の未来のために使おうと心に誓った。

Satie / Gnossienne No.2

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