01-02
翌朝、チヒロは起床すると、眠い目をこすりながら母親に電話を掛ける。
全く持って気は進まないが、後回しにすると余計に厄介になることを身に沁みて理解していた。
呼び出し音が鳴り、しばしの後に通話状態となる。
「もしもし」
「もしもし、チヒロ?」
「そうだけど。昨日の夜、電話した?」
「したけど、なんですぐに出ないのよ?」
深夜に電話に、すぐに出ろ?
非常識にも程がある。
そう文句を言うと理不尽な反論をされ、話が無駄に長引くので、チヒロは苛立ちと怒りの言葉をぐっと飲み込む。
「ごめん、寝ていて気が付かなかったんだよ」
何故に責められ、謝らなければいけないのかと思うチヒロ。
「で、用件は何?」
「アンタ、就職先は決まったの?」
痛いところを突かれ、チヒロはじわりと嫌な汗をかく。
「それが、まだ決まってなくて……」
「あら、そう。じゃあ私がいいところを探しておくから、アンタこっちに帰ってきなさい」
「……お、己を知り、己を磨くことが、神に対する最大の感謝と敬意だって、教義にもあるだろ? 俺はまだ甘えた自分を鍛えて精神力を高めたいんだ。そのために実家を出て、ひとり暮らしをしている訳だし、もうちょっと待ってくれないかな」
咄嗟に教義を口にし、説得を図る。
母親といえど、信仰心が厚い人間は教義を盾にされたら引き下がらざるを得ないことをチヒロは理解していた。
これは説得の際の、昔からの常套手段である。
「そうなの? それは素晴らしい心意気ね」
作戦成功。
「でもね、それ以上に大切なのは献金よ。アンタ、献金止まってるでしょ?」
「そっ、それは……」
「ちゃんと本部に連絡を入れて確認してるんだから。私に恥をかかせないでくれるかしら」
「ちょっと就活が長引いて、予定よりお金がかかっちゃってさ……」
「言い訳は心の乱れであり、神への冒涜である。バイブルにも、そう書いてあるでしょ」
「……はい、すみません」
電話口にも関わらず、チヒロは反射的に頭を下げてしまう。
「そもそもアンタみたいな出来損ないはね、大人しく親の言うことを聞いていればいいのよ。あんなに勉強を頑張って入学できたのが、誰も聞いたことないようなド底辺大学でしょ。しかも、その中でも成績は中の下か下の上。そりゃあ、どの企業も欲しがらないわよ、アンタみたいなの。ちょっと考えれば分かる、当たり前のことよね。アンタみたいなのはね、ちゃんと教義に従って、神に祈って、献金して、私の言う通りにしていれば間違いないんだから、そうするべきなのよ。私はアンタのためを思って、アンタに幸せになってほしいから、心を鬼にしてこういうことを言ってるんだからね。私だって辛いんだから。辛いのはアンタだけじゃないんだからね。分かるでしょ、私の気持ち?」
「……はい」
「それじゃ、また連絡するから、さっさと献金しておきなさいよ。あと、毎日のお祈りと、選挙の電話は欠かさないように。いいわね?」
「……はい」
「それじゃあ、またね」
作戦失敗。
教義を盾にし返され、畳み掛けるように言いくるめられると、通話は切れた。
「……金なんか無ぇっつーの」
口を衝いて出た就活という言い分は事実であるが、献金が滞っているのも、これまた事実である。
表向きには義務ではないものの、イルミンスールは信者に多額の献金を実質的に強制していた。
そしてそれはひとり暮らしをする大学生のチヒロにとって、大きな負担となっていたのである。
「はぁ、どうすっかなぁ……」
チヒロは溜め息を吐き、無造作に頭を掻く。
部屋の中を見渡すが、換金できそうな高価な物は何ひとつ無い。
狭く、簡素なワンルーム。
余計な物を買う余裕が無いチヒロの部屋は、ミニマリストさながらの殺風景なものであった。
チヒロの目に留まったのは、不定期に母親から送られてくる大量の水。
部屋の隅にはダンボール箱が積まれており、中身は〈神聖樹の水〉という、イルミンスールの信者が買わされる高額な水であった。
神聖樹の水の購入もまた、ある種の献金である。
手を変え品を変え、イルミンスールは信者からお金を巻き上げていた。
自転車に乗り、大学に到着するチヒロ。
卒業までの消化試合と化している授業に出席し、学友を見つけると隣の席に座る。
軽く手を上げ簡潔に挨拶を済ませると、チヒロは本題に切り込む。
「あのさ、悪いんだけど、ちょっとだけお金借りれないかな?」
チヒロは両手を合わせ、小声で友人に頼み込む。
友人は訝しげにチヒロを一瞥すると、スマートフォンを取り出してメッセージを送る。
『貸せない』
チヒロもアプリを開きメッセージを確認すると、返事を送る。
『だよね。急にごめん。今の忘れて』
友人はチヒロの返信を確認すると、視線を授業に戻す。
そして、しばらくの後、チヒロにメッセージを送る。
『てゆーかお前さ、もう俺たちに関わらないでくんね?』
『急にどした? 何かあった?』
『お前、選挙の投票を頼んで回ってるらしいじゃん。みんなマジで迷惑がってるぜ』
メッセージを見て固まるチヒロ。
『真世界党って、やべぇ宗教のところだろ?』
真世界党とは、イルミンスールが支持母体となっている政党である。
『正直、みんな気味悪がってんだよ、お前のこと。俺もカルト宗教の奴と関わりたくないし、もうじき卒業だし、この先会うこともないだろうから、この際はっきりと言わせてもらうわ』
急激に喉が渇き、呼吸が止まり、心臓と胃が潰れそうな感覚に陥るチヒロ。
『お前の連絡先ブロックするから。他のみんなもそうするか、とっくにそうしてると思うぜ』
目の焦点が定まらず、チヒロは顔を上げることが出来なくなる。
『それじゃ』
それが、その友人から受け取った最後のメッセージである。
授業が終わり、教室から人がいなくなっても尚、チヒロはしばらく席を立つことが出来なかった。
Satie / Gnossienne No.1