表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/49

01-01

「ごめんなさい、別れてください」


 約二年間付き合っていた彼女から告げられた突然の別れ。

 桜田チヒロは驚きつつも、その理由を察していた。


「……そっか、そうだよね。うん、わかった。今まで楽しかったよ。ありがとう」


「本当にごめんなさい」


 チヒロは無理矢理に自分を納得させながら、精一杯に無難な言葉を並べる。

 彼女はばつが悪そうに頭を下げた。


 しばらくして頭を上げた彼女は踵を返し、その場を立ち去ろうとする。


「――あのさ!」


 拳を握り締め、勇気を振り絞って彼女を引き留めるチヒロ。

 立ち止まる彼女。


「やっぱり聞いていいかな? 別れの理由。何となく分かってはいるんだけどさ、念のため――」


 彼女は振り返らずに、一泊の間を置いてからチヒロの質問に答える。


「……友達からね、チヒロ君が〈イルミンスール〉の信者だって聞いたから」


 それは、チヒロが予想していた通りの回答であった。

 改めて聞くまでもなかった。


 今までも、こんなことは沢山あったじゃないか――。

 チヒロは自分に、そう言い聞かせる。


「隠していたわけじゃないんだ。騙そうとしていたわけでもない」


「でも私、知らなかった。裏切られたんだよ、チヒロ君に。大事なことなのに教えてくれなかった。大好きだったのに……」


「ごめん! ……ごめん」


 肩を落とし、力無く俯くチヒロ。

 それ以上、その場を繕う言葉が見つからない。


 そのことを察した彼女は再び歩を進め、チヒロの前から姿を消した。


「――いつも、こうだ。――いつも、こうなる」


 夕暮れ時の放課後。

 茜さす、人気の無い大学の校舎裏。


 ひとり取り残されたチヒロは悔しさに顔を歪め、一雫の涙を流す。

 そして彼女との想い出を差し置いて、頭の中に浮かぶのは母の姿。


「神に祈りなさい。神に祈れば、必ず自由は訪れるの」


 彼女からの言葉を差し置いて、頭の中を駆け巡るのは母の言葉。


「教義を信じなさい。教義を信じれば、必ず幸せは訪れるのよ」


 俺の自由は、いつ訪れる?

 俺の幸せは、いつ訪れるんだ?


 神に祈れば気味悪がられ、教義を口にすれば嫌悪される。

 人との繋がりを手に入れたと思っても束の間、全てが指と指の間をすり抜けて零れ落ち、皆が自分から遠ざかってゆく。


 産まれてから今までずっと、そんな人生だった。

 そして、それは、今も尚――。


 そんな堂々巡りの思考がチヒロの心と頭を支配する。


「何が教義だ。何が神だ。馬鹿馬鹿しい。これじゃあ、まるで呪いじゃないか……」


 時は二月、季節は冬。

 肌寒い空気の中、吐き出した言葉が白い煙となって舞い上がり、風に消える。


 チヒロは、宗教法人イルミンスールの二世信者である。

 イルミンスールは抱えている信者の数が多く、国内でも屈指の巨大宗教団体となっている。


 ただし、世間一般ではカルト宗教として認識されており、その評判は決して良いものとは言えない。






 ひとり暮らしのアパートに帰ったチヒロは、スマートフォンの通知に気が付きメールを開く。

 届いていたのは、就職を希望していた企業からのお祈りメールであった。


「はぁ、ここも駄目だったか……」


 チヒロは大学四年生であり、卒業を間近に控えていた。

 彼女には振られ、就職活動も思うようにいかない。


 スマートフォンをベッドに放り投げると、自分の身も前のめりにベッドへと放り投げる。


「彼女には振られるわ、面接には落ちるわ、今日は散々だな。――って、今日に限ったことじゃないか。ははっ」


 自分以外に誰もいない静かな部屋に、零した不満と嘲笑が響き渡る。

 チヒロは仰向けになると天井に向かって手を伸ばし、指の隙間から差す電球の光に目を細める。


「かといって、実家には帰りたくねぇしなぁ」


 伸ばした手を投げやりに下ろすチヒロ。

 一切の覇気が無く、全身の力が抜け、何もやる気が起こらない。


 目を閉じ、大きな溜め息を吐く。

 このまま溶けて消えてしまえればいいのに、とチヒロは思った。


 いっそ自分なんか産まれてこなければ良かったのに、とも思った。

 呼吸すらも煩わしい程の徒労感に襲われる。


 感じるのは、虚無と絶望。

 そしてチヒロは、そのまま眠りに落ちた。






 チヒロは夢を見た。

 幼い頃の記憶の夢である。


 何も知らない子どもの頃は母親の言うことが絶対であり、それはつまりイルミンスールの教えが絶対であるということであった。

 神が何かも分からないが、チヒロは母親に言われるがままに祈りを捧げていた。


 教義が何かも分からないが、チヒロは母親に言われるがままに教えを鵜呑みにしていた。

 母親の言葉を信じて生活をしていると、小学生になる頃には周りから不審がられた。


 友達が出来ても、暫くするとチヒロを気味悪がり、そして疎遠になる。

 中学生の頃にはクラスメイトからいじめられるようになり、高校生の頃には教師からも避けられるようになった。


 チヒロがいつも感じていたのは、孤独。

 イルミンスールの信者というだけで、排他的な扱いを受け続けてきたのである。


 そしてチヒロは大学生になるのを機に、家を出ることを決めた。

 母親とイルミンスールから距離を置くために。






 枕元のスマートフォンが震え、チヒロは目を覚ます。

 画面には「母」の表示。


 電話に出ようとしたが少し考え、チヒロは着信を無視することにした。

 寝起きで会話が億劫なこともあったが、何よりもの理由は、母親からの電話はイルミンスールに関する話題に決まっているからである。


 その中でも殊更、献金の催促の頻度が高く、チヒロは母親からの電話に心底うんざりしていた。

 壁に掛かる時計を見れば深夜の二時。


 寝ていて電話に気が付かなかったことにして、翌日まで放置しようとチヒロは決め込む。

 しばらくして鳴り止むスマートフォン。


 一時の安寧を手に入れたチヒロは再び目を閉じ、今度は深い眠りについた。

Debussy / La fille aux cheveux de lin

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ