01-01
「ごめんなさい、別れてください」
約二年間付き合っていた彼女から告げられた突然の別れ。
桜田チヒロは驚きつつも、その理由を察していた。
「……そっか、そうだよね。うん、わかった。今まで楽しかったよ。ありがとう」
「本当にごめんなさい」
チヒロは無理矢理に自分を納得させながら、精一杯に無難な言葉を並べる。
彼女はばつが悪そうに頭を下げた。
しばらくして頭を上げた彼女は踵を返し、その場を立ち去ろうとする。
「――あのさ!」
拳を握り締め、勇気を振り絞って彼女を引き留めるチヒロ。
立ち止まる彼女。
「やっぱり聞いていいかな? 別れの理由。何となく分かってはいるんだけどさ、念のため――」
彼女は振り返らずに、一泊の間を置いてからチヒロの質問に答える。
「……友達からね、チヒロ君が〈イルミンスール〉の信者だって聞いたから」
それは、チヒロが予想していた通りの回答であった。
改めて聞くまでもなかった。
今までも、こんなことは沢山あったじゃないか――。
チヒロは自分に、そう言い聞かせる。
「隠していたわけじゃないんだ。騙そうとしていたわけでもない」
「でも私、知らなかった。裏切られたんだよ、チヒロ君に。大事なことなのに教えてくれなかった。大好きだったのに……」
「ごめん! ……ごめん」
肩を落とし、力無く俯くチヒロ。
それ以上、その場を繕う言葉が見つからない。
そのことを察した彼女は再び歩を進め、チヒロの前から姿を消した。
「――いつも、こうだ。――いつも、こうなる」
夕暮れ時の放課後。
茜さす、人気の無い大学の校舎裏。
ひとり取り残されたチヒロは悔しさに顔を歪め、一雫の涙を流す。
そして彼女との想い出を差し置いて、頭の中に浮かぶのは母の姿。
「神に祈りなさい。神に祈れば、必ず自由は訪れるの」
彼女からの言葉を差し置いて、頭の中を駆け巡るのは母の言葉。
「教義を信じなさい。教義を信じれば、必ず幸せは訪れるのよ」
俺の自由は、いつ訪れる?
俺の幸せは、いつ訪れるんだ?
神に祈れば気味悪がられ、教義を口にすれば嫌悪される。
人との繋がりを手に入れたと思っても束の間、全てが指と指の間をすり抜けて零れ落ち、皆が自分から遠ざかってゆく。
産まれてから今までずっと、そんな人生だった。
そして、それは、今も尚――。
そんな堂々巡りの思考がチヒロの心と頭を支配する。
「何が教義だ。何が神だ。馬鹿馬鹿しい。これじゃあ、まるで呪いじゃないか……」
時は二月、季節は冬。
肌寒い空気の中、吐き出した言葉が白い煙となって舞い上がり、風に消える。
チヒロは、宗教法人イルミンスールの二世信者である。
イルミンスールは抱えている信者の数が多く、国内でも屈指の巨大宗教団体となっている。
ただし、世間一般ではカルト宗教として認識されており、その評判は決して良いものとは言えない。
ひとり暮らしのアパートに帰ったチヒロは、スマートフォンの通知に気が付きメールを開く。
届いていたのは、就職を希望していた企業からのお祈りメールであった。
「はぁ、ここも駄目だったか……」
チヒロは大学四年生であり、卒業を間近に控えていた。
彼女には振られ、就職活動も思うようにいかない。
スマートフォンをベッドに放り投げると、自分の身も前のめりにベッドへと放り投げる。
「彼女には振られるわ、面接には落ちるわ、今日は散々だな。――って、今日に限ったことじゃないか。ははっ」
自分以外に誰もいない静かな部屋に、零した不満と嘲笑が響き渡る。
チヒロは仰向けになると天井に向かって手を伸ばし、指の隙間から差す電球の光に目を細める。
「かといって、実家には帰りたくねぇしなぁ」
伸ばした手を投げやりに下ろすチヒロ。
一切の覇気が無く、全身の力が抜け、何もやる気が起こらない。
目を閉じ、大きな溜め息を吐く。
このまま溶けて消えてしまえればいいのに、とチヒロは思った。
いっそ自分なんか産まれてこなければ良かったのに、とも思った。
呼吸すらも煩わしい程の徒労感に襲われる。
感じるのは、虚無と絶望。
そしてチヒロは、そのまま眠りに落ちた。
チヒロは夢を見た。
幼い頃の記憶の夢である。
何も知らない子どもの頃は母親の言うことが絶対であり、それはつまりイルミンスールの教えが絶対であるということであった。
神が何かも分からないが、チヒロは母親に言われるがままに祈りを捧げていた。
教義が何かも分からないが、チヒロは母親に言われるがままに教えを鵜呑みにしていた。
母親の言葉を信じて生活をしていると、小学生になる頃には周りから不審がられた。
友達が出来ても、暫くするとチヒロを気味悪がり、そして疎遠になる。
中学生の頃にはクラスメイトからいじめられるようになり、高校生の頃には教師からも避けられるようになった。
チヒロがいつも感じていたのは、孤独。
イルミンスールの信者というだけで、排他的な扱いを受け続けてきたのである。
そしてチヒロは大学生になるのを機に、家を出ることを決めた。
母親とイルミンスールから距離を置くために。
枕元のスマートフォンが震え、チヒロは目を覚ます。
画面には「母」の表示。
電話に出ようとしたが少し考え、チヒロは着信を無視することにした。
寝起きで会話が億劫なこともあったが、何よりもの理由は、母親からの電話はイルミンスールに関する話題に決まっているからである。
その中でも殊更、献金の催促の頻度が高く、チヒロは母親からの電話に心底うんざりしていた。
壁に掛かる時計を見れば深夜の二時。
寝ていて電話に気が付かなかったことにして、翌日まで放置しようとチヒロは決め込む。
しばらくして鳴り止むスマートフォン。
一時の安寧を手に入れたチヒロは再び目を閉じ、今度は深い眠りについた。
Debussy / La fille aux cheveux de lin