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01-11

 チヒロが壇上の妹に花束を渡せるという千載一遇の好機。

 これは教義によって生まれたチャンスであった。


 教義のひとつに、教祖とその親類縁者は信者に一切の物品を施すべからず、という文言がある。

 それが例え、祝いの花束であっても。


 そして、信者が教祖から物を受け取る場合には、その信者の家族が代理として渡すのが習わしとなっている。

 渡すのは、その家族の中で最も格の低い人間――。


 ナユタの説法を聞き流しながら、チヒロは頭の中でとあるシミュレーションを繰り返していた。

 一、ヒカリがスピーチを終える。


 二、自分はステージに上がり、ヒカリに花束を渡す。

 三、隙を見て一気に教祖までの距離を詰める。


 四、隠し持っていたナイフで教祖の心臓を一突きにする。

 五、教祖を殺す。


 そう、チヒロは教祖を殺すことだけを考えていた。

 神に祈るが如く、強く、心の中で繰り返す。


 教祖を殺す。

 教祖を殺す、教祖を殺す。


 教祖を殺す、教祖を殺す、教祖を殺す。

 教祖を殺す、教祖を殺す、教祖を殺す、教祖を殺す。


 教祖を、殺す――。


 二十二年間の人生で積もりに積もった負の感情。

 片想いをする乙女の恋心のように、日々募らせてきた不平や不満。


 ある日突然、花粉症が発症するように、長年に渡って溜まり続けた怒りや憎しみ。

 ここ数日の出来事でチヒロの我慢は限界に達し、溢れ出した負の感情は教祖の殺害という結論を導き出していた。


 何故ならば、それ以外に自分が自由と幸福を手に入れる術が思いつかずにいたからである。

 殺意に取り憑かれ、思考も感情も完全に支配されている状態であった。


 チヒロの体内をアドレナリンが駆け巡り、いつの間にやら瞬きすらも忘れていた。

 呼吸は浅くなり、時間の経過と共に目と口が渇いてゆく。


 殺意に集中したチヒロは徐々に音すらも聞こえなくなり、終いには時間の感覚すらも無くなっていった。

 あとはただ、目の前にいる教祖を殺すだけ。


 気がつけばナユタの説法が終わり、ヒカリが立ち上がると、階段を上って演台の前に立つ。

 マイクに向かって何かを話しているヒカリの姿が目に入るが、チヒロの耳には何も届いていなかった。


 どれくらいの時間が経ち、何を話していたのか。

 今のチヒロには皆目検討がつかない。


 最終的にチヒロの目に映るのは、ナユタただ一人。

 場内にいる千人もの信者は、もはやチヒロにとって存在していないも同然であった。


 ふと、チヒロは肩を叩かれ、ナユタに注がれていた意識が引き戻される。

 横を向くと、チヒロが持参したものより倍は豪華な花束を持った信者が立っていた。


 立ち上がり、信者から花束を受け取るチヒロ。

 手足が痺れているような、震えているような、力んでいるような、硬直しているような、何とも形容し難い感覚をチヒロは覚えていた。


 体が上手く動かず、ぎこちない足取りで、花を渡してきた信者の促す方向にチヒロは歩を進める。

 階段を上り、ステージの上を歩くと、ヒカリの姿が段々と近づき、そして目の前にまで辿り着く。


 チヒロは視界の端にナユタの姿を捉える。


 ――教祖を殺す。


 距離にして約五メートル。


 ――教祖を殺す。


 花束をヒカリに渡す。


 ――教祖を殺す。


 花束を受け取るヒカリ。


 ――教祖を殺す。


 信者たちから沸き起こる拍手。


 ――教祖を殺す。


 袖に隠したナイフを右手に落とし、ぎゅっと握るチヒロ。


 ――教祖を殺す。


 どの角度からも、誰からも見えないように。


 ――教祖を殺す。


 そして、ナユタを目掛けて走り出す。


 ――教祖を、


 ――殺す。


 勢いよく踏み出した最初の一歩。

 しかし、その一歩がマイクのコードに引っ掛かる。


 もつれる右足。

 よろめく左足。


 重心は失われ、体が重力に引っ張られる。 

 チヒロは着地に失敗し、ステージの上で盛大に転倒した。


 意識を一点に集中し過ぎていた。

 全身に力が篭もり過ぎていた。


 精神が常軌を逸し、体が思ったように動かせなかった。

 チヒロは、あっけなく教祖の殺害に失敗した。


 地に伏し、視界が真横に傾いたチヒロは、打ち付けた顔の痛みで我に返る。

 拍手がピタリと止んでおり、客席からはざわつく声が聞こえる。


「お兄ちゃん、大丈夫?」


 チヒロが見上げると、ヒカリが心配そうに自分を見下ろしていた。

 少し離れた所から、教祖が怪訝な顔で自分を見下ろしていた。


 客席からは、信者が不審顔で自分を見下ろしていた。

 最前列の席からは、チヨコが冷たい目で自分を見下していた。


 緊張の糸が切れ、別の新たな緊張がチヒロの中に生まれる。

 手足は震え、大量の脂汗をかく。


「……すっ、すみません! ごめんなさい! 大丈夫です!」


 床に手をつき辛うじて上体を起こしたチヒロは、無意識のうちに頭を下げて謝っていた。


「ちょっと緊張してまして! ほんと! 大丈夫ですから!」


 ホール内の誰しもに聞こえるよう、チヒロは大声で弁明しながら立ち上がる。

 変な体制で転んだせいか、体の節々に痛みが走った。


「ご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ありませんでした!」


 客席側に向かって深々と頭を下げるチヒロ。

 何の音も、誰の声も聞こえない中、しばらく頭を下げ続けた。


 床を見つめていると、ぽたりと血が滴り落ちる。

 どうやら鼻血が出ているらしい。


 しかし、大きな負傷はしていないであろうことを感覚的に自認したチヒロは頭を上げ、片足を引きずるようにして歩き、ステージを降りる。

 急いで自分の席に戻ると、チヨコはかつて無いほどの剣幕でチヒロを睨みつけた。


「……すみません。ごめんなさい」


 チヒロは小さな声で、改めてチヨコに謝罪する。

 チヨコは露骨に大きな溜め息を吐くと、視線をステージに戻し、ヒカリに拍手を送る。


 チヨコにつられて客席の信者もヒカリに拍手を送る。

 チヒロも右に習い、ヒカリに向かって最大限の拍手を送った。


 情けない。

 情けなさ過ぎる。


 自分で自分に嫌気が差したチヒロは、悔し涙と鼻血を流しながらヒカリに拍手を送り続けた。

Beethoven / Symphony No.7, 2nd movement

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