1章 天音の日常
「ねぇ、どこにいるの?どうして来てくれないの?」
目の前に広がるのは、澄んだ空に白い雲、青々と生い茂る草木、清らかで淀みを知らない水。この世とは思えないほど色鮮やかで綺麗な景色。
ずっとあの人が来るのを待っている。ここでひたすら待ち続けている。あれ?なんで待ってるんだっけ。あの人って誰だっけ。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ、ガタンッ!
けたたましいアラーム音でハッと現実に引き戻された。時計の針は縦一直線を指している。
「遅刻!?……ではないか」
普段ならアラームが鳴るより先に目を覚ますので慌ててしまったが、目覚まし時計は登校時間までかなり余裕を持って設定されている。これは6人家族の次女である天音が朝の喧騒から逃れるためのライフハックなのだ。
「今日も早いね。もう行くの?」
「あいつが起きたら厄介だもん。お姉ちゃんも早起きすれば良いのに」
「ほっとけなくてさ、これでも家族だから」
「まるで私が悪いみたいに言う」
「そんなことないよ。ほら、そろそろ。いってらっしゃい」
「うん、いってきます」
パタンと玄関のドアを閉じた瞬間、怒声が聞こえてきた。
「おい、いつまでそこに突っ立ってんだ!早くどけ!」
「は?先に使ってたの俺だけど?ギリギリまで寝てんのが悪いだろ。歯磨きは洗面所じゃなくてもできるし、親父があっち行けよ」
「親に向かってその口のきき方はなんだ!身の程知らずが生意気なこと言いやがって!」
また始まった。毎朝この調子だから近所迷惑になっていると思うけれど、今まで我が家に苦情が届いたことはない。それもそうか。一般的な人ならこんな家庭と関わろうとしたところで煩わしいことに巻き込まれると考えるに違いない。
そもそもこんな狭い家で6人暮らしを成立させようってのが無謀なのよ。どう足掻いても誰かの邪魔になる。きっと今頃、弟は布団の中に隠れて知らん顔して、姉が父をなだめてるんだろな。そんな光景が目に浮かぶ。こういう時、母は当てにならない。仕事のせいと言ってしまえばそれまでだが、だいたい朝は二日酔いで潰れている。
そんなこんなで家にいたってろくなことが無い。あれこれ考えながら歩いていると学校に着いた。そして、溜息をついた。
「上靴が無い……ほんと懲りない奴……」
犯人に心当たりがある。気の強いクラスのボス的な存在がいて、私は特に何かした覚えが無いのだが、小学生の頃から中学生になった今でもずっと因縁をつけられている。
「暇人なのかな……もっと他にすることあるでしょ……」
家も家だが学校も学校なのだ。私は慣れた手つきで『来客用』と書かれた下駄箱からスリッパを取り出し、職員室に向かった。
窓から見えるのは、どんよりとした空に灰色の雲、枯れた草が目立つだだっ広い田畑、緑がかった溝川。何度も見た夢とは大違いな景色。あの世界なら、私を必要としてくれる人がいるのかな。
「この世は地獄だ」
ねぇ、神様。前世の私はそんなに悪い子でしたか?