餌に恋した蜘蛛の話
とある鬱蒼とした森の奥の奥。
そこには、大きくて不気味な色の蜘蛛が糸を張って巣くっていた。その蜘蛛は毎日、糸にくっついた虫や小鳥などを食べて生活していた。
そんなある日のこと。蜘蛛が巣のまん中でうとうととしていると、糸になにか引っ掛かったのか、大きな蜘蛛の糸がぐらぐらと揺れた。
「おっ、餌がかかったか?丁度腹が減ってたからよかったわい」
そう言いながら蜘蛛は、何かがじたばたと暴れている巣の端に向かった。そこには…
「おお、これは…」
蜘蛛は糸に絡まった餌を見て、息を飲んだ。
大きくてくりっとした、艶やかな漆黒色の瞳。見た目は純白一色なのに、ぱたぱたとはためかせる度にうっすら七色に煌めく、美しい羽。見たことないほどの美しい蝶が、蜘蛛の巣に絡まっていたのだ。
「イヤっ!助けて!食べられたくないっ!」
蝶は体を捩らせ、絡まる糸をほどこうとしていた。蜘蛛はその様子をぽーっと見つめていた。
「ねえ…私、食べられちゃうの?嫌だよ…?逃がして下さい…お願いします」
蝶は疲れたのか暴れるのをやめると、今度は涙目で蜘蛛に懇願した。漆黒色の瞳が涙でさらに艶やかに煌めき、美しい。蜘蛛は瞳を見つめながら、ドキッとした。
「…ダメだ、逃がさん。そうだな…お前にわざとメシをくれて太らせてから食ってやろう」
「ヤダ!お願いします!見逃してください!」
「ダメなものはダメだ!」
「そんな…」
蜘蛛がそう言うと、蝶は体から力が抜けたようにくたっとさせ、大人しくなった。
◦◦◦
暫くすると、蜘蛛の糸に獲物が絡まった。トンボだ。
「ほら、メシだ。食え」
蜘蛛は捕らえたトンボを糸でぐるぐる巻きにし、それを蝶に与えようとした。
「…なにこれ?」
「見てわからんか?トンボだ。今さっきこの巣に引っ掛かったんだ」
「…あなた最低ね。生き物を殺して食べるなんて」
「はあ?じゃあ普段お前は何食ってるんだ?」
「…花の蜜とか樹液とかよ」
「何だそりゃ?そんなもん腹の足しになるか!ほら、これ食え!」
そう言いながら蜘蛛は、糸でぐるぐる巻きにしたトンボを蝶の口に押し付けた。
「イヤ!やめてっ!…っ、あんたなんて大っ嫌い!!」
と、蝶が大声で言うと、蜘蛛は蝶にトンボを押し付けるのをやめた。
「…悪かったよ。わかった、他のメシを用意する」
「ご飯なんていらない!そんなことよりこのトンボさんを逃がしてあげて。このままじゃ死んじゃう!」
蜘蛛はぐるぐる巻きにしたトンボに目をやりながら、ぐう~っと腹を鳴らした。蜘蛛はとても腹が減っていたのだ。だが、蝶に言われて蜘蛛は。
「…わかった。逃がしてやるよ」
そう言うと蜘蛛は、ぐるぐるに巻いていた糸をほどき、トンボを逃がした。
「ああ…貴重なメシが…」
「トンボさんを逃がしたのなら、私のことも逃がしてよ!」
「お前はダメだ!逃がさん!」
「どうしてよ!?」
「それは…」
蜘蛛は蝶のことを見つめた。蝶の涙で濡れた漆黒色の瞳が綺麗で、蜘蛛はドキドキしていた。
…餌なのに。蜘蛛はその蝶のことを食べようとは思わなかった。むしろ、ずっと傍にいてほしいと思っていた。
だか、蜘蛛にはこの気持ちが何なのかよくわからなかった。とにかく蝶の傍にいると、蜘蛛は胸のドキドキが鳴り止まなかった。
◦◦◦
それから蜘蛛は蝶のために、毎日花の蜜や樹液を取りに行った。蝶は、太らされ食われるのが嫌だからと、最初は蜘蛛が持ってきた食事を食べようとしなかった。けど空腹に耐えきれず、蝶は渋々、蜘蛛が持ってきた食事を食べるようになった。
ただ…
「…ねえ、あんたは食べないの?」
「ん?」
「あんた、朝露しか飲んでないでしょ?」
蜘蛛は蝶が糸に引っ掛かって以来、何日も朝露以外のものを口にしていなかった。蝶に『最低』と言われたことを気にして、生き物を食べることをやめたのだ。
「俺のことはいいんだよ。気にするな」
「いや、気にするわよ。あんたが死んだら、身動きできない私も死んじゃうんだもの。だから、あんたも何か食べなさいよ!」
「…」
蜘蛛は、手に持っている樹液の雫を見てぐうぅっと腹を鳴らした。できることなら、樹液でもいいから腹に入れたかった。けど…
「おっ、俺はいらん!とにかくお前はしっかり食え!」
そう言って蜘蛛は、蝶の口元に樹液の雫を近づけた。蝶は怪訝な顔で蜘蛛を見つめると、雫を静かに飲み始めた。
蜘蛛は今まで、巣にくっついた虫や小鳥を食べて生きてきた。だから、花の蜜や樹液の探し方や取り方を知らなかった。毎日必死に花の蜜や樹液を探すが、1日かけて蝶の食事分ほどしか取れなかった。
◦◦◦
そんな生活が続き、二週間が経った頃だった。
「…あんた、顔色わるいわよ。大丈夫なの?」
「…これくらい、何ともないさ。じゃ、メシ探してくるか…ら……っ」
蜘蛛が蜜を探しに行こうとした時だった。蜘蛛は蝶の目の前で倒れたのだ。
「ちょ!全然大丈夫じゃないじゃない!ほらも~…ご飯食べないからよ!」
「う……」
八つの目がぼやける。蝶の声がくぐもっててはっきり聞こえない。体に…力が入らない。蜘蛛は自身の『死』を覚悟した。
すると蜘蛛は、よろよろと体を起こしそして─
「…え?ちょっ…」
手を震えさせながら、蝶に絡まる糸をほどいた。
「…行け」
「…え?」
「…俺はもう、長くない。だからもう、お前のことを逃がす」
「…いいの?」
蜘蛛は「ああ…」と、こくりと静かに頷いた。
「…すまなかった、怖い思いをさせて。すまなかった…こんなところに、お前を─…君のことを長く縛りつけてしまって」
蜘蛛は、虫の息でそう言った。
「…ねえ、何で私のことを食べないの?お腹空いてるんでしょ?だったら食べればいいじゃない!何で…何で?」
蝶はそう言いながら、横たわる蜘蛛の傍に座りそして─…ぽろぽろと涙を溢した。
蜘蛛を見下ろす蝶。美しい漆黒色の瞳からぽろぽろと零れる雫が、蜘蛛の頬にいくつも伝った。蜘蛛は、蝶が自身のために泣いてくれてるんだと思うと…とても嬉しかった。
「恥ずかしい話…俺さ、どうやら君に…恋…したみたいでさ。だから、君のことをどうにかしてでも傍に置いていたくて…それで…」
蜘蛛は手を震えさせながら伸ばし、蝶の頬に手を添えた。蝶は頬に触れたその蜘蛛の手に、そっと触れた。
「…行ってくれ。俺のことは忘れて、幸せになってくれ」
「…嫌だ」
「っ…いいから…行けっ!こ、心変わりして、今からき…お前のことを食うかもしれないぞ!だから…行け…」
ずるっと。蝶の頬から、蜘蛛の手が力無く巣の上に落ちた。
─…霞んで行く意識の中。
蝶が羽ばたいていく姿が、ぼんやりと蜘蛛の視界に見えた。
「…さようなら、美しい君よ。幸せに…なってく……─」
蜘蛛は、八つの目蓋をゆっくりと閉じた───…
遠い、意識の中。
あったかいものが、唇に触れる。
あまいものが、唇から体内に流れ込んでくる。
なんどもなんども、そのあまくてあったかいものは、蜘蛛の唇から体内に流れ込んできた。
────…なんか…気持ちいい。なんだっけ?死んだら『虫の楽園』とかってところに行けるって、昔誰かが言ってたっけ?もしかして、そこに来たのか?
そう思いながら、蜘蛛は瞼を開いた。そこには──
「─…え?なんで…」
美しい漆黒色の瞳が蜘蛛を覗き込む。あの美しい蝶だ。蝶は花の蜜や樹液を口に含み、蜘蛛の口になんどもなんども流し込んでいた。
「どうして…?やはりここは楽園か?幸せな幻を見ているのか…?」
「…幻じゃないわ、本物の私よ。何でだろうね、あなたに食べられそうになったのに。あんなに、怖くて憎かったのに…あなたが死ぬかもしれないと思うと、ひどく胸が苦しくて悲しいの。私もどうやら…あなたに恋…しちゃったみたいね。だから…死なないで」
蝶は泣きながらそう言い、蜘蛛のことを見つめた。
蜘蛛は蝶のその言葉が嬉しくて嬉しくて…八つの目から涙を溢した。
「…わかった、死なないよ。ありがとう、ありがとう…」
蜘蛛は蝶の頬に触れながら、蝶の唇にやさしくキスした。
その後蜘蛛は一命を取り留め、蜘蛛と蝶は森の奥で幸せに暮らしたとさ。