第9話 執事グレイブは主たちを支える
ここにいる『ラシャータ』は、もしかしたら……。
そんな空気が屋敷に漂い始めたのはいつの頃からだろうかと、今日も甲斐甲斐しくアレックスの世話をする彼女を見ながらグレイブは思う。
そう思っているのはグレイブだけではない。
それは顔を見れば分かるが、誰も「もしかしたら……」の先を口にはしない。自分たちは咎人だから。死の恐怖から逃げるため、かつて一人の女性に全ての背負わせ我慢を強いたのだ。
「奥さん、暇だから何か話をしてくれ」
(旦那様も奥様の呼び名を変えた……何か気づかれたのだろうか)
「何かと言われましても……」
「なんでもいい」
「なんでもいいは困るのですが……」
困った顔をする彼女に、アレックスは甘く蕩けそうな顔を向ける。ラシャータに一度も向けなかったその表情を見れば、自然と「もしかしたら……」と思う使用人は増えていく。
変化魔法で変えられるのは色のみ。色を変えれば雰囲気は変わるがそれだけで、ラシャータと同じにはできない。そしてラシャータと同じ顔立ちで、ラシャータではないのに治癒魔法を使えるのしたら一人しかいない。
―― じい、僕のお嫁さんはピンクの目をした可愛い子なんだ。
(生きておられた)
「寝ているのにも飽きたな。執事長、何か仕事はないか?」
(……人が感動しているというのに、この坊ちゃまは)
忠誠を誓った先代公爵の忘れ形見。生まれた頃から面倒を見て、汚物のついたおむつさえ替えてきたアレックスが暇だからと仕事を強請る。
ここまで回復し、本当に嬉しい。
何しろ公爵邸に運び込まれたときのアレックスは王家の医者も匙を投げるほどの瀕死の重傷。藁にもすがる気持ちで頭を下げた聖女には「こんな怪物なんてごめんよ」と悪態をつかれ、必死に追い縋るところを聖女付きの騎士たちに打ち据えられて諦めざるを得なかったのだ。
王の槍として、そして紅蓮の悪魔とアレックスを利用しておいてこの仕打ちかと、何もしてくれない国を恨んだ。ウィンスロープ公爵家の伝手を駆使して手に入れた高価な回復薬を打ち、グレイブたちはアレックスの命の灯を守り続けた。
聖女の力しかない。
回復薬を使っても徐々に悪化していくアレックスの症状。グレイブは毎日のように国王に嘆願書を送り、半年たってようやく王命が出た。ようやく聖女がくると聞いたときは喜んだが、心の何処かで「今さらか」とも思った。このときのアレックスは体のあちこちが腐り、回復薬をまぶしかけて手足が離れないようにしていた。呼吸は浅く、呻く力もないのか時折もぞもぞと動くくらいで、正直手遅れだとグレイブは思っていた。
(旦那様の死に水をとる覚悟もしていたのに……暇を訴えるほど元気になられるとは)
しかし目はまだ見えないもののそれ以外の異常はなく、生来活発なアレックスはジッとしていることに耐えられないのか「何かしたい」と煩い。女性をそんな目で見られる大人の男になったかと感慨深く思った矢先にこの振る舞い。まだまだお坊ちゃまだなとグレイブは思う。
(暇は罰です。お坊ちゃまには『無茶しないこと』をきちんと理解していただかなくては。このようなことがまた起きては堪りませんからな)
「公爵家の仕事は書類を見るものが多いのですから、目が見えない閣下にできることはないのではありませんわ」
ふんわりと優しい彼女の声だが、内容は『無理を言うな』とズバッと諫めるもの。もっと言ってやってくれとグレイブは応援する。
「それなら侍女の仕事を手伝う」
アレックスの言ったことにソフィアの頬がぴくっと動くのが見えた。
「旦那……」
「それならと軽くおっしゃいましたが、何をなさるおつもりですか?」
彼女を見れば、反射的にグレイブの背筋がひゅっと伸びた。優しい声は罠でしかない。
「タオルを畳む、とか?」
(旦那様! 奥様の顔、顔……って、目が見えないんだった! 坊ちゃまのおバカ!)
「目が見えないのだからタオルの端を合わせることはできないですよね」
「それなら、洗濯?」
「洗濯を舐めていらっしゃるのですか? 小麦一粒ほどの汚れでも残したら、それはもうネチネチとイヤミを込めて注意をされる大変な仕事なのですよ?」
(……そうでしたっけ?)
「……すまない。そんなこととは……洗濯を軽んじたわけではない」
「分かりますわ。暇だとおっしゃられましたが、ただ手伝いたいだけですわよね」
「手伝い……そうか、手伝いたかったのか。そうだな。よく考えればタオルやシーツの汚れを落としてくれるのも彼女たちだからな……何かしたかったのか」
「それでしたら、洗濯係のお給金を上げてみてはいかがですか? 他との兼ね合いもあるので執事長様と相談しながら決めて、指示を出すことはできるではありませんか」
思わずソフィアと並んでグレイブは拍手をする。
(うまく美化されましたが、坊ちゃまの性格上ただ暇だっただけだと思うますよ……でも、ひとつ懸念事項が片付きましたね)
仕方がないことだと洗濯係の下女たちは不満を言わないが、洗濯は重労働だし、その仕事が激増しているとなれば『今まで通り』は気にかかる。グレイブは彼女たちの給金を上げることを考えていたが、どう言えばアレックスが自分のせいだと思わずにできるかとグレイブは悩んでいたのだ。
(給金を改めたら、今夜も『反省会』だな)
彼女の正体について想像がついているものの 「もしかして……」の先を口にできない使用人たちは、嫁いできた頃の彼女に対して不敬を働いたという反省をするため飲み会を開催している。特にアレックスの乳母でもあったソフィアは「坊ちゃまに近づくな」と邪険な態度をとってしまったと、己の所業を恥じながら毎回大量の酒を消費している。
グレイブが参加しているのは主に幹部職の飲み会だが、メンツを変えて品を変えた様々な飲み会が屋敷内で開催されているのでたまに違う会に呼ばれたりする。
先日呼ばれた会では、「もしかして……」の先を口にできないためは使用人たちは「奥様を洗脳してくれてありがとう」と魔物に乾杯していた。笑いを堪えるのが大変だった。
(仕える主が魔物に洗脳されたことを喜んではいけないだろう)
以前アレックスと立てた仮説があちこちで定説と化していた。グレイブとしては笑うしかない。
―― 人間を洗脳する魔物がいるって本当ですの?
どこで聞いたか彼女に尋ねれば、「言えない」と。「叱られてしまうかもしれないでしょう? もちろん私も誰にもいいませんわ、機密事項ですものね」というレティーシャの言葉にグレイブは首傾げた。
誰が洗脳されたと思っているのかと尋ねればアレックスだと言われた。これは笑いを堪えるのが大変だった。
この様子を見ていた者が幾人もいたようで、悪ノリした使用人が控室に洗脳した魔物(架空)を祭る祭壇を作り、菓子や花などの供物を捧げているらしい。一応この件をグレイブはアレックスに報告した。アレックスは「その様子が目に見えるようだ」と笑えない冗句をかましながら大爆笑していた。
内容はさておき、十七歳で家督を継いでから重圧に耐えるため笑うことがめっきり減ったアレックスの笑い声に古参の使用人たちは感涙した。もちろん、その夜の『反省会』は大変賑わった。
(これが永遠に続くことを願いましょう)
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