第26話 幽霊聖女、笑顔を見るたび胸が詰まる
「奥様、旦那様がお帰りになります」
「分かりました」
ロシェットに軽く化粧を直してもらって、レティーシャは玄関ホールに急ぐ。
並ぶ使用人の間を抜けてグレイブの前に立ちながら、レティーシャはこうしてアレックスを出迎えることにも慣れてきたと思った。
「おかえりなさいませ」
「ただいま。ケヴィンとオリヴィアは?」
「お二人ともお部屋にいらっしゃいます。呼んでまいりますか?」
レティーシャの言葉にアレックスは首を横に振る。
アレックスと共に行動しているロイがまだ来ないからか、開いたままの玄関扉から見える空はまだ明るい。
(今日はいつもよりお帰りが早いですね)
外を見ていたことに気づいたのか、「どうかしたか?」と尋ねるアレックスにレティーシャは夕焼けがきれいだと答える。
「奥さん、夕飯まで庭を散歩しないか?」
「よろしいのですか?」
レティーシャは詳しいことを知らないが、最近ウィンスロープ公爵邸内は物々しい雰囲気で、レダや侍女たちが緊張でピリピリしていることをレティーシャは肌で感じていた。
「いろいろ察して朝の日課の散歩を控えてくれているだろう? 俺がいれば大丈夫だから」
「それでしたらお散歩したいです」
レティーシャの返事にアレックスは笑顔を見せたものの、庭に出るまでに一悶着あったせいか庭を歩き始めるときはアレックスは顔に疲れをみせていた。
「まったく、庭に出るだけだというのに」
散歩なら着替えましょう。
あら、新しい靴では靴擦れができる恐れがありますね。
過保護な侍女たちにより、レティーシャが庭に出られるようになった時には日が暮れていた。
「きれいな茜空だったというのに」
「私は夜目もきくほうなので十分楽しいですわ」
レティーシャの言葉に「それは良かった」とアレックスは微笑む。
甘いと感じる笑みに、優しさの滲む低くて心地のよい声。
胸がグッと押される感じがして、レティーシャは息をのむ。
(ダメ、また伯爵が……)
血溜まりに横たわる黒い犬とアレックスの黒い髪が重なり、ゾクッと体に悪寒が走る。
「寒いか?」
そう聞かれると同時にアレックスの上着がレティーシャの肩にかけられた。
上着のズシリとした重さと大きさに、レティーシャは不意に伯爵を未だに怖がっている自分が滑稽に思えた。
(アレックス様に伯爵が適うものは何一つありませんのに)
「どうし……」
「お義姉様、どうなさったの? とても楽しそうに微笑んでいらっしゃるわ」
アレックスの言葉を遮って、後ろをケヴィンと歩いていたオリヴィアが尋ねてくる。
「オリー……そもそも、何でお前たちが散歩についてくる?」
アレックスは後ろを歩くオリヴィアとケヴィンを睨む。
数歩離れて歩いている点には気遣いを感じるが、宵始めで群青色に染まるロマンチックな夫婦の散歩において弟妹は邪魔者である。
「私もお義姉様と散歩したかったからに決まっていますわ」
「嬉しいですわ」
レティーシャの言葉にオリヴィアは嬉しそうに微笑み、そんなオリヴィアをアレックスはケヴィンと共に「仕方がないな」と優しい目で見る。
(仲の良いご兄弟だわ)
レティーシャにとってラシャータは「伯爵の娘」であって異母妹ではなく、ラシャータにとってレティーシャは自分に逆らわない玩具というところだろう。
(主従ですらない、一方的に命令だけされる関係だったのですね)
それはラシャータに限ってのことではなく、伯爵もそうだった。
(いまなら伯爵やっていた『あのこと』は国王への背信行為だと分かります)
レティーシャは伯爵邸から出ることを許されなかったが、伯爵に連れられて月に一回外出をした。
いつも月のない夜、外出中は絶対に分厚いだけが特徴の粗末なマントを羽織り、フードで顔を隠すように厳命された。
(伯爵は私のピンク色の瞳を徹底的に隠させていました)
レティーシャを隠すことにおいて伯爵は病的なほど神経質だった。
「万が一見られた場合、見た者の命は無い」とレティーシャ脅し、誰かに見られたときは容赦なくその脅しを実行した。
幼子の過ちで許されることはなく、騎士たちに引き摺られていく使用人の姿にレティーシャが泣いて助命を請うても、伯爵はそれを逆手に取って「お前の所為だ」とレティーシャを責め立て自分に隷属させた。
自分のせいで一人の人間が死んだことに恐怖して山小屋から外に出なくなったレティーシャを元乳母を含めた三人の侍女たちは心配した。
彼女たちは自分たちがいつかレティーシャの傍にいられなくなることを分かっていたのだろう。
彼女たちはレティーシャが一人で生きいけるよう、門から出られなくても邸内での自由を得られるようにレティーシャに変化魔法を教えてくれた。
(そう言えばあのケーキを教えてくれたのも彼女たちでしたね)
レティーシャの料理は見様見真似だが、唯一つしっかり作り方を教えてもらったのがキャロットケーキだ。
(いつかあなたも好きな人に作ってあげて、と……あら? あれは誰の言葉だったかしら)
あの侍女たちはレティーシャを「あなた」とは呼ばない。
そんな親しげな、愛情深い声は誰のものだったのか。
「旦那様」
駆けてくるグレイブに気づいて、アレックスと共に足を留める。
どうやら急ぎの手紙らしい。
「どうなさったのですか?」
いつものレティーシャならばアレックスのことに口を出さないが、一瞬で読み終えた短い手紙を畳んで封筒に戻すアレックスの顔が強張っていたためレティーシャは思わず尋ねてしまった。
「ケヴィン、オリヴィア」
「分かった。義姉さん、兄貴を頼むね」
ケヴィンはそれだけ言うとオリヴィアと一緒に屋敷のほうに戻り、気づけばグレイブもおらずレティーシャはアレックスと二人きりになっていた。
「奥さん、触れてもいいかな」
そう言ったときにはアレックスの手はレティーシャの手を握っていて、遅れながら許可を取るアレックスのうっかりにレティーシャは笑って「はい」と許可を出す。
だから、アレックスに抱きしめられるとは思わなかった。
「……アレックス様?」
「明日……城に行ってくるよ」
城で働いているから登城は珍しくない、それどころか今日もさっきまで城にいたのに。
「王妃陛下に呼ばれたんだ」
マリアローゼット王妃はあまり表舞台には立たず、国王を陰で支える穏やかな性格だとオリヴィアから聞いて知っている。
だからアレックスの緊張の理由はレティーシャには分からなかったが、いまレティーシャは無性にキャロットケーキを作りたくなった。
「アレックス様、キャロットケーキはお好きですか?」
「どうして突然そんなことを聞くか分からないが、キャロット……人参、か」
アレックスの戸惑う声にレティーシャは「あれ?」っと思う。
「人参、お嫌いですか?」
「まあ……あれを好きな奴はいるのか? 国王陛下だって嫌いなんだぞ?」
「栄養があります」
「ほら、好きな奴がいないから栄養があるって言うんだろ? 美味しいなら美味しいですむんだからな」
抱きしめる体は大きな男の人のものなのに、触れた体から響いてくるのは小さな男の子のような言い草。
おかしくって、レティーシャは絶対にキャロットケーキが食べてもらわなきゃと思った。
(だって、言っていたもの)
―――人参を嫌いな……でも美味しそうに食べてくれたのよ。
「アレックス様」
「ん?」
レティーシャが呼び掛けると、「人参、人参はなぁ、人参かぁ」とブツブツ言っていたアレックスがレティーシャに目を向ける。
その目はとても優しくて、レティーシャは胸がつかえることを嬉しく思いながら微笑み返す。
「いってらっしゃいませ。キャロットケーキを焼きながら、帰ってくるのをお待ちしております」
ストックが切れました。しばらく更新は不定期になります。