第13話 騎士公爵は初恋に蕩ける
ピンク色の瞳から涙が零れるのを止められないことにアレックスは悩んでいた。
慰めるには触れなければいけない。しかし、幼い頃に受けた貴族教育により「女性に許可なく触れてはいけません」と叩き込まれている。アレックスにほいほい許可を出す女性が多いせいで忘れいていたが、貴族社会のルールはこれである。
―― 法律で認められた妻なんだから触れるくらいいいじゃないか。
これはアレックスの中の欲深い悪魔の発言。
―― 法律で認めたのは『ラシャータ』であって、彼女はラシャータじゃないでしょう。
これはアレックスの中の理性的な天使の発言。
(泣いているから、慰めるだけだ)
これはアレックス自身の言い訳。
(いや、だって、泣いている女性を放っておくなど紳士の風上にも置けないだろう?)
これは泣きながら愛を求めてくる女性たちに塩対応してきた過去をすっかり忘れたアレックスの理由付け。紳士の嗜みだと思いながら、アレックスはレティーシャを抱き寄せた。
「もう泣くな」
泣いている女性を慰めた経験値がほぼゼロのせいで、アレックスのボキャブラリーは貧困だ。しかし頼りないのは言葉だけ。アレックス本人は本人は公爵という地位や騎士という立場から生じる義務感ではなく、一人の男として愛しい女性を思う熱い気持ちであることを自覚している。
自覚。
これは恋愛に重要なはじめの一歩。
しかもアレックスという男は、女性に触れることや果ては同衾などに対しての免疫力はある。だから「魔力暴走で冷える体を温めるだけ」なんて定番といえば定番な言い訳をさっと思いついて、アレックスはレティーシャを抱きかかえてベッドにそのまま横になった。『閣下、一割ですよ!』と天使たちに交じってソフィアが叫んだ感じがしたが、アレックスは聞こえないふりをしてレティーシャを抱きしめ続けた。どうせ怒られるならちゃんと堪能しておこうと開き直っていたともいう。
それに……。
「お母様、私も連れていって」
死んだ母親にかける言葉が『連れていって』。『死なないで』や『置いていかないで』でもなく。
(『死にたい』と言われて……放っておけるか)
アレックスは体を離して腕を伸ばし、掛け布団を引っ張っり上げてレティーシャの体を包む。人間が死にたいと感じる要因として『寒さ』と『飢え』は大きい。飢えはないだろうと思って温めてみたが、レティーシャの涙は止まらない。
「もう寝てしまえ」
寝ぐずりする赤子をあやすようにアレックスがレティーシャの背中を一定のリズムで叩くと、ずっと動かなかったレティーシャの体がもそりと動いて、レティーシャはアレックスの胸に顔をうずめてきた。
(……母親と思っているのか?)
母親と間違えられていようと、甘えられればグッとくる。
(可愛い……)
抱き寄せる腕に力がこもると、頭の中で『一割!』とソフィアの叱る声がする。腕の力を緩めようとしたが、スリスリと胸元に頬をすり寄せられる。
(おいおいおいおい……レティーシャは俺だと分かっていて甘えているのだろうか?)
一瞬そんな甘い期待が浮かんだ。次の瞬間、グレイブの呆れた声で『そんなわけないでしょう』と突っ込まれた。アレックスは必死に理性をつなぎとめる必要があった。
「さて、これからどうするかだな」
目が見えなかったため姿を現すことはなかったが、グレイブの手を借りて書類に直筆のサインをし、使用人に噂させて「紅蓮の悪魔が健在であること」をアピールしている。これによりきな臭かった国境地帯は安定した。視力が戻ったことを報告すれば、直ちに登城命令がでて国はアレックスの健在な姿を国内外にアピールする。
(スフィア伯爵たちがどう出るか)
アレックスが知っているドルマンとラシャータなら、ラシャータとレティーシャを入れ替えて、ラシャータは何ごともなかったように『ウィンスロープ公爵夫人』になり、ドルマンはまたレティーシャを隠し続けるだろう。
ドルマンがレティーシャが隠した理由は、聖女を自分の意のままに使い治癒力を求める者から金だ何だとむしり取るため。
スフィア伯爵家は聖女が生まれる家系として、聖女信仰の強い貴族たちは寄進するように金や数々の贈り物をしている。だからスフィア伯爵家は裕福だ。しかしグレイブに調べさせてみると、伯爵個人の資産は「寄進」では説明がつかないくらい桁違いに多い。
何か莫大な稼ぎがある。
その事実にレティーシャが生きていたことが合わされば、ドルマンがレティーシャの治癒力を使って莫大な利益を得ていたことは分かる。そのドルマンが金を産むレティーシャを手放すわけがない。
(聖女を隠す……)
誰も知らない秘密の聖女を作る。
自分をドルマンだと仮定してみれば、アレックスなら誰にも知られないように愛人を囲って彼女に子を産ませる。記録を見れば聖女は妻以外の女性からも生まれている。
(むしろレティーシャを隠そうとは思わない)
サフィニアがレティーシャと心中を図って、何らかの理由でレティーシャが助かって、都合よく「秘密の聖女を手に入れられる」と思ったとしてもだ。レティーシャは国をあげて聖女としてお披露目された存在。それを隠すことは、実際にドルマンはやってのけたが、面倒なことだ。その面倒をあのドルマンがやったということが、アレックスには納得がいかない。
(レティーシャを隠すしかなくなった?)
ドルマンには子どもを作る機能がないという噂がある。レティーシャたちはドルマンの実子なので正確には「衰えた」だが、その噂の原因はドルマンの子どもが二人しかいないことだ。夫人が子を孕めなくなった可能性もあるが、当時からいまに至るまでドルマンが囲った愛人たちの誰も聖女どころか子も孕むことがなかったからドルマンの体に原因がある可能性のほうが高い。ちなみにまだ男性機能が衰える年齢ではないため、一部では『聖女レティーシャの呪い』とも言われている。
(自分が子どもを作れなくなったことをもっと昔に、サフィニア夫人が死ぬ前から知っていたとしたら?)
レティーシャとラシャータのどちらかを秘密の聖女にするしかない。そうなると……。
(サフィニア夫人は本当に自殺したのか?)
あまりにドルマンにとって都合のいいタイミングでサフィニア夫人は自殺したことにならないか?
(もしかしてサフィニア夫人は……いや、それならばなぜサフィニア夫人を?)
サフィニアは建国の十家の一つであるフレマン侯爵家の令嬢。サフィニアを害せばフレマン侯爵家が黙っていない。
フレマン侯爵家は優秀な文官を輩出してきた家柄だが、フレマン侯爵家を知る者に話を聞けば「ペンは剣より強し」を体現するかのように知略と謀略で武力蜂起すらさせない怖い一族だったらしい。あの家門を敵に回すなど莫迦のやることで、殺害するなら後ろ盾のない平民の第一夫人のほうを選ぶだろう。
(伯爵が信じられないほど大莫迦だとか? それもあり得るからな……)
なんといってもこのレティーシャにあのラシャータの真似事ができると思うなど、信じられないほどの大莫迦である。黙っていればバレないと思ったのかもしれないが、ラシャータの場合は黙っていること自体がおかしいのだからバレる。何したってバレる。そのくらい違う。
(レティーシャはこの身一つで、フレマンの証と治癒力があるんだから小一時間でレティーシャ・スフィアだと証明できるんだぞ? それをホイホイと屋敷の外に……王命が出たけどあのラシャータが化け物になった俺の嫁にはなりたくないとか騒いで、それならレティーシャに嫁にいかせようと思ったんだろうけどな)
大当たり。流石、十年以上も婚約者をしていれば大嫌いでも思考は読める。
(もうひとつおかしいことがある、どうして俺との結婚が王命なんだ? 聖女の伴侶うんぬんという証拠のない伯爵の言葉を信じたというのか? あの王が?)
アレックスの治癒をさせるための交換条件が、ラシャータが嫌がるに違いないアレックスとの結婚というのがまずおかしい。しかし、おかしくても事実その王命が出た。
王命は法律も倫理も無視して相手を従わせる、従わない者には問答無用で死罪を与える慈悲なき命令。従わなければ死。でも、ラシャータは嫌なことを我慢してやる女ではない。従わなければ死だとしても「冗談でしょ」と言って気にすることのない無知な女。
確かにラシャータは殺されないかもしれない。だって聖女だから。でもドルマンは?
ドルマンの命綱は「聖女を作ることができる体」だが、その機能がないとしたらドルマンに強気の姿勢が取れるわけがない。
(そうなったら――)
秘密の聖女であるレティーシャが出てくる。
レティーシャの存在はずっと隠匿されていたが、レティーシャ本人が隠れていたと考えられる。そうでなければ、ウィンスロープが気づいていたはずだ。どうしてかまでは分からないが、レティーシャが出てくるにはドルマンがそう命じなければならない。
おそらくここまで読まれて作られたシナリオ。
そして、このシナリオを書けるのは王命を出せる国王しかいない。
(なぜこんなことをした?)
素直に考えるなら、増長する貴族派(聖女派)の権勢を弱めようとするもの。スフィア伯爵家を筆頭とした聖女派の横行は聖女がラシャータだけになってから一層酷くなったから。
多くの貴族が聖女の力を欲してスフィア伯爵家を媚び諂い、貴族議会は聖女派優勢で彼らの利益になる法律ばかりが決められてる。この状態を改善しようと国王と国王派は四苦八苦しているのだ。
(これが王のシナリオだとしたら、陛下はレティーシャのことを知っていた? ……いや、それはないな。王は影で限界を感じてウィンスロープにスフィア伯爵家を探ってほしいと言ってきた。だから俺が知らないことを王が知っているとは思えない……分からないな)
まだ判断材料が足りない。推察の多い仮定は理論を破綻させる原因だ。
(よし、考えるのをやめよう)
アレックスは別の問題に頭を切り替えることにした。
問題、レティーシャとの結婚。
いや、結婚はしている。
結婚はしているが、いつ無効や離婚になってもおかしくない結婚なのだ。
(レティーシャがこのまま公爵夫人でいることを問題視する者はいないだろう)
むしろ大歓迎に違いないとアレックスは頷く。ウィンスロープにこれ以上の権力はいらないので、レティーシャが社交は嫌なら必要最低限で構わないし、当主の妻としての仕事をしたくないなら代理人を立てればいい。他人の粗探しが大好物の一部貴族たちが騒ぐ可能性もあったが、そんなものは潰せばいい。以上、環境に問題はない。
問題はレティーシャの気持ちが分からないこと。
この国にはサフィニアとレティーシャに対して負い目がある。誰をどう納得させても、レティーシャ本人がこの結婚を嫌がれば国王は王命を発令してでもアレックスにレティーシャと離縁させる。つまり、この結婚を続けるかどうかはレティーシャ次第。
「俺を選んで、レティーシャ……お願いだ」
この目に映る男は自分だけでありたいと思いながらアレックスが涙の残る目元に指で触れると、レティーシャの目が薄っすら開いた。現れたピンク色に、アレックスの心が蕩けそうになる。
ぼんやりとしていたピンクの目が、とろんと蕩ける。その甘ったるい目に、アレックスの心臓がドックンバックンボックンとすごい異音を立てる。
「レティ……え?」
レティーシャの腕に頭を包まれ、レティーシャの胸に頭を抱え込まれる。頬に触れる柔らかいものの感触。アレックスの顔が真っ赤になった。
「え? ちょっと、ええ⁉」
アレックスの動揺などお構いなし。レティーシャは頭をぎゅっと抱え込み、その華奢な指がアレックスの髪の毛を梳く。
その感触が心地よくてアレックスが思わず犬のように鼻を擦りつけると、顔をレティーシャの両手で優しく持ち上げられて、そのままアレックスとレティーシャは至近距離で見つめ合う。瞳はいまも甘いまま。レティーシャはそのまま両手を大胆にアレックスの黒髪の中に潜らせた。
(せ、積極的だな)
アレックスの唇はレティーシャの唇のすぐ傍。薄っすら開く艶やかな唇にアレックスが見とれていると、その唇はゆっくりと動いた。その扇情的な光景にアレックスは口の中に湧いた唾をのみ込む。
(こんな魅力的なお誘いは一度だって……)
「……ウィン」
「え?」
戸惑うアレックスを無視して、レティーシャはまたアレックスの頭を抱きしめる。
「ウィン……」
(聞き間違いではなかった……『ウィン』? 誰だ?)
知らない男の名前。
アレックスの胸がジリッと焦げる。
レティーシャのこんな声をアレックスは初めて聞いた。甘えるような、縋るような、泣きたくなるような切なげな声。
「愛してる」
(この可能性だって考えていた……)
アレックスは目を瞑った。でも、耳はふさいでいない。
「愛しているわ……ずっと。私のウィンストン」
ウィンストン。
(……聞きたくなかった)
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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第12話を読み飛ばした方に補足説明をするなら、この「ウィンストン」は犬です。
アレックスの髪と同じ黒い毛をした犬で、この犬はレティーシャを服従させようとする父伯爵によって殺されてしまっています。