第1話 幽霊聖女、妹の身代わりで嫁ぐ
「遅いわよ、この屑!」
伯爵様の書斎に入ると同時にラシャータ様の罵声が飛んでくる。
次いでインク壺が飛んできたが、避ける必要なく少し離れた壁にぶつかる。
ガラス製の壺が当たったら痛かったかもしれない。
しかし壁から滴って床にたまるインクを掃除することを思うと当たったほうがよかったなと思う。
ラシャータ様は癇癪を起されるといつも物を投げる。
コントロールが悪いのか毎回当たらないので怪我をすることはないのだけれど、後片付けが大変なものばかり投げられることには困っている。
「ラシャータ、それに構う時間などない」
「はあい、お父様」
父伯爵はラシャータに向けていたものと比べものにならない冷たい視線をレティーシャに向けると、憎々しげに一通の手紙を見せる。
手紙に押された封蝋は皇帝の印章。
一気に物々しさを増した手紙にレティーシャは体を強張らせた。
「ウィンスロープ公爵家に嫁ぎ、当主アレックスを聖女の力で治癒せよとのお達しだ。王命だ、逆らえない」
ウィンスロープ公爵アレックス。
王家の槍と言われるウィンスロープ公爵家は代々優秀な騎士たちを輩出してきた武家の名門。
現当主アレックスも騎士団長を務めている。
半年前に起きた魔物の大流出で彼は騎士団を率いて魔物の掃討戦に向かった。
そこで彼が酷いけがを負ったことは平民でも知っている有名な話だ。
(ただなぜ治癒だけでなく結婚も命じるの?)
アレックスはラシャータの婚約者だ。
文武に優れ、容姿端麗な婚約者をラシャータはことあるごとに自慢していた。
今回の王命ではそのラシャータにアレックスとの結婚を命じている。
ラシャータは早く結婚したがっているが、アレックスのほうが忙しくて無理だと屋敷の侍女たちの噂話でレティーシャは聞いていた。
レティーシャにはもう一つ「なぜ」がある。
それはなぜそれをレティーシャに話すのか。
(どうしてかしら、心臓がドキドキするわ)
これから語られることにレティーシャは緊張していた。
「お前はラシャータとしてウィンスロープ公爵家に嫁げ」
「無理です!」
無茶を通り越して無謀な話である。
そのため反射的に反論したが、次の瞬間にレティーシャの頬は熱くなった。
「口答えをするんじゃないわよ」
痛みに滲むレティーシャの視界の中でとラシャータが頬を張った手を振っていた。
「それにケガをさせるな。新床で聖女に傷があると騒がれたら厄介だ」
「お父様、新床なんてないわよ。だって新郎は腐りかけてベッドから起き上がれもしないのよ」
いまの話のどこに愉快さがあったのか。
声を上げて笑うラシャータに不快さを隠せずレティーシャは眉間に皺を寄せたが、ラシャータはそれを恐怖と誤解して満足そうに顔を愉悦に歪める。
「アレク様は魔物に呪われてしまったの」
「そんな……どうして……」
どうしてそうなるまで放っておいたのか。
そう聞く前にラシャータは「だってね」と話す。
「最初の頃にお見舞いに行ったんだけど最悪よ。全身真っ黒で、臭いし、汚いし。あんな怪物と結婚するなんて絶対に嫌、アレク様はもう私に相応しくないわ」
「ですが、国王陛下が下した王命です。逆らうことは……そもそもなぜ結婚が話に出るのです。治癒すれば結婚する必要はないではありませんか」
レティーシャの質問に父伯爵とラシャータは不快気に顔を歪める。
「変な噂が流れているのだ」
「噂?」
「アレク様が結婚を拒むから私が拗ねて治さないというのよ。本当に迷惑。あんな怪物との結婚、私のほうがお断りだというのに」
王が噂を鵜呑みにして王命を出したと考えてもおかしくないとレティーシャは思った。
アレックスはこの国になくてはならない人物。
アレックスはその存在だけで周辺国や蛮族からの侵略を防いでいるのだ。
その彼を失わないための王命。
それを理解せず騒ぐ二人にレティーシャは心底呆れた。
「お前がラシャータに代わって嫁ぐ理由は分かったな?」
「伯爵様、私にはラシャータ様の代わりは務まりません」
レティーシャとラシャータは異母姉妹だが、同じ年齢でどちらも父方の祖母に似たため顔立ちは一卵性双生児のように似ている。
しかし雰囲気や所作は異なる。
自分のそれで公爵家ましてや婚約者を騙せるとはレティーシャに思えなかった。
「大丈夫よ、だって聖女の力が使えるのはラシャータだけだもの。違和感があっても聖女の力を使えば誰も何も言わないわ」
聖女の力は初代聖女に与えられた家門スフィア伯爵家の女が代々継いできた力。
死んでさえいなければなんでも治癒できる、神様に授けられた聖女の力。
その力をいま使えるのはスフィア伯爵家の一人娘のラシャータだけとなっている。
(だって私は……)
「あんたは幽霊。聖女レティーシャはとっくに死んでいるんだから」