第1話 幽霊聖女は名も棄てられる
「遅いわよ、この愚図!」
父伯爵の書斎に呼ばれていけば、入った途端に異母妹ラシャータの怒声にレティーシャは耳が少しキンッとした。次いでインク壺が飛んでくる。わざわざこれを選ぶ趣味のよさに苦笑しながら、レティーシャは動かずその場にいた。
ラシャータは物を投げるのが下手だ。
案の定、レティーシャからかなりはなれた壁にぶつかった。インクの壺はガラス製。割れた壺からインクが飛び出た。
あちこちに飛び散るインク。
足の長い絨毯にこんこんと沁みていくインク。
ガラスがあたったら痛いが、インクの後始末をするのは自分だと思うと当たればよかったかとレティーシャはしばし悩んだ。
(後始末が困るものばかりを選んでいる気がするわ)
今回はインクでこれで、前回はドーナツ。ドーナツのときは壁に丸い形をした油染みができて、床板の隙間に入り込んだ粉砂糖に蟻が群がってしまったためもうひと騒ぎ起きてしまった。
「ラシャータ、それに構う必要も時間もない」
「はあい、お父様」
父伯爵はラシャータに向けていた優しい目から一転して、冷徹な目を『それ』扱いのレティーシャに向ける。
何かしただろうか。
いや、何もしていない。
いつもこんな目つきかもしれない。
(多分そうでしょうね)
娘に向ける目とは思えないが、慣れているレティーシャには何でもない。相変わらずだから気にもしない。
「手紙がきた」
(どうしてそれを私に? 自分には手紙をくれる友だちがいるって自慢をなさりたい、とか?)
「はい」
レティーシャに許されているのは『はい』か『いいえ』のみ。
そしてこの状況で正しいのは『はい』。手紙は目の前にあるのだから、否定しても始まらない。
「国王陛下からだ」
「はい」
「ウィンスロープ公爵家に直ちに嫁ぎ、当主アレックスを治癒せよとのお達しだ。王命だ、逆らえない」
「はい」
ウィンスロープ公爵家は武家の名門で王からも信頼されており、歴代の当主は『王の槍』と呼ばれて王国騎士団の騎士団長を務めている。
(治癒……)
半年前に起きた魔物の大流出で、当代の『王の槍』であり騎士団長のアレックスは多くの騎士を率いて魔物の掃討戦に向かった。魔物は掃討されたが、その作戦中に彼は重傷を負ったとレティーシャは聞いていた。
(新聞には『順調に回復している』とありましたけれど……やはり嘘でしたのね)
アレックスは国にとって槍であると同時に盾でもあり、国民の安寧のために順調に回復していなければならない。しかし負傷から半年、姿を見せないアレックスに『回復』を疑う声が出はじめている。新聞記事はコントロールできても、何千何万もの人の口はコントロールできやしない。
(嘘なのは薄々分かってはいましたけれど……)
レティーシャは目線だけラシャータに向けた。
ラシャータはアレックスと婚約している。神が贔屓したと言われるほどの容姿を持つアレックスをラシャータはいつも自慢したがった。茶会や夜会に一緒にいければ貴族のご令嬢たちに自慢してまわっただろうが、いつもラシャータの誘いは多忙なアレックスに断られていた。そうなると自慢の先はレティーシャとなり、「アレク様が」「アレク様と」と事実と願望をごちゃまぜにした話をたくさん聞かされた。
(そう言えば最近聞かされていなかったわ)
最近、レティーシャの「アレク様が」「アレク様と」を聞くことはなかった。
ラシャータがアレックスに茶会や夜会のエスコートを頼んだこともない。ラシャータ自身が屋敷に籠もって出かけていないわけではない。むしろ、元気だなとレティーシャが感心してしまうくらい毎日どこかに出かけている。
ケガの療養中だから誘っていないのでは、と一般的な理由はラシャータには通用しない。会えないなら誠意をみせてほしいと言って宝石やドレスを強請る。それがラシャータだ。
(公爵家からお詫びの品も届いていないわ。お手紙も……私の知る限りありませんでしたわ)
手紙がきたら自慢されていたはず。
(……そういえば、なぜこれを私に話しているのかしら?)
「『ラシャータ』としてお前がウィンスロープ公爵家に行け」
「無理ですわ!」
無茶を通り越して無謀な話に、レティーシャは反射的に無理だと言っていた。
パアンッ
視界がグルっと回って、壁が見えた。頬がジンッと熱くなる。
「口答えをするんじゃないわよ」
痛みに滲む視界を正面に戻せば、ラシャータがまた手を振り上げていた。また叩かれる。レティーシャは目を瞑って、痛みに耐えるため体を強張らせた。ラシャータに叩かれることには慣れているが、痛いものは痛い。
「それにケガをさせるな」
「……お父様?」
父伯爵に止められたラシャータの声は不満気だ。
「新床で聖女に傷があると騒がれたら厄介だ」
父伯爵の言葉にラシャータはキャハハッと嗤う。
「新床なんてあり得ないわ。だって新郎は腐りかけてベッドから起き上がれもしないのよ?」
「腐り、かけ……?」
自分の婚約者が、ラシャータの言うことが本当なら『腐りかけている』のに、それのどこに愉快さが、嗤う要素があるのか。嗤うラシャータに不快さを隠せずレティーシャの眉間に皺が寄ってしまった。幸いラシャータはそれを恐怖と誤解したため、顔を愉悦に歪めるだけだったが。
「アレク様は魔物に呪われてしまったの」
「そんな……どうして……」
どうしてそうなるまで放っておいたのか。
「醜かったの」
「……え?」
「アレク様に呼ばれてお屋敷にいったとき、見ちゃったの。全身真っ黒で、臭くて、臭くて、近寄りたくもなかった。あれはもうアレク様じゃない、怪物よ。怪物と結婚するなんて絶対に嫌」
「それじゃあ治癒は……「するわけないじゃない、気持ち悪い!」……そんな……」
(……でも、それならどうして? 陛下が『治癒』を命じるなら分かるわ。でもなぜ『結婚』する必要が?)
「んもう、お父様が陛下に変なことを言うから」
「仕方がない。お前が治癒を拒んだなどと言えるわけがない」
「だからって、治癒力を最大限に発揮するには結婚して『伴侶』になる必要があるなんて普通言う?」
「これでお前がようやくウィンスロープ公爵夫人になれる好機だと思ったから」
「それはアレク様が怪物になる前の話。おっそいのよ、お父様は」
(……なるほど)
アレックスが怪我をするまで、結婚を望んでいたのはラシャータのほうだった。それをアレックスは多忙を理由に拒否していた。
「お前だって、閣下は口もきけなかったと言っていたではないか」
「そうよ。ずっと呻いているだけだったわ。あの状態で結婚に同意なんて絶対にできないのに、あ、王様がズルしたのね」
(だから陛下は『王命』を使われたのね)
本来なら結婚には二人の同意の言葉が必要である。だから話ができないアレックスには無理。
これが父伯爵とラシャータの言い分なのだが、二人とも『王命』という無敵のカードを忘れている。
王は命じることができる。王命は承諾するしかない。断ってもいいが、その場合は首から上が胴体から離れることになる。
当代の王はこれまで一度も王命を使ったことがない。
人の意思を奪う醜い道具だと嫌悪しているというのは周知の事実で、それを使わざるを得ない事態なのがレティーシャには分かった。
それだけ、アレックス・ウィンスロープという男は国にとって唯一無二の存在ということだ。
(この二人は、なぜそれが分からないのかしら)
ただ騒ぐだけの父伯爵とラシャータのレティーシャは呆れてしまった。
「だからお前が『ラシャータ』として嫁にいけ」
(だからと仰られても……)
ラシャータが嫌がっているから、代わりに『ラシャータ』としてレティーシャを嫁にいかせる。父伯爵の考えていることの半分はレティーシャも理解できる。
レティーシャとラシャータは異母姉妹だが2人とも父方の祖母によく似たため、同じ年齢ということもあって一卵性双生児のようだ。だから、見た目だけなら成功する。
(でも騙せるのは第一印象まで。雰囲気とか所作とかは全く違いますのに)
ラシャータの行動はいつも見ている。どうやって振舞えばそれらしく見えるかは、性に合わない点を省けばレティーシャにもなんとなく分かる。
問題は所作だ。
貴族令嬢の教育を受けたラシャータと教育を受けていないレティーシャでは所作が違う。正確には幼い頃は教育を受けていたようだが覚えておらず、見様見真似でウィンスロープ公爵家の使用人や、ましてや婚約者を騙せるとはレティーシャには思えなかった。
「私がラシャータ様ではないと露見してしまったら……」
「バレるわけないわ。だって治癒力が使えるのは『聖女ラシャータ』だけだもの。多少違和感があったとしても治癒力を使えば誰も何も言えないわ」
(ああ、そうですわね……)
レティーシャがラシャータの振りをするなんて、こんな奇想天外なことが成功すると2人が考えた理由ををレティーシャは察した。
治癒力は初代聖女であるスフィア伯爵家の開祖が神様から得た特別な力。死んでさえいなければ助けることができる神がかった力。
その力はスフィア伯爵家の直系女児のみが受け継いでいる。
雰囲気が違かろうが、貴族令嬢のマナーが何もできなかろうが、治癒力を使えば誰一人として『ラシャータ』だと疑わない。治癒力を使えるのはスフィア伯爵家の一人娘『聖女ラシャータ』のみ。
あくまでも表向きは。
(だって私は……)
「だってあんたは幽霊。『聖女レティーシャ』はとっくの昔に死んでるんだから」
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