016
電話越しだけど、杏那は驚くほど緊張していた。
割と強く言うけど、本当はかなり怖がりなのかもしれない。
俺は心理学者でもなければ、彼女のことはよくわからないがそこに彼女の本音のような一面を見た気がした。
杏那のこういうところは、我が妹の祈里に通じるところがある。
自宅で、電話機のそばでじっと立っていた。
俺は磯貝の言葉を、じっと待っていた。
「守りたい」
「何を?」
「あたしは家族を守りたい」
単語の主語が、いきなり重い。
「家族を守るって?」
「あたしの家、離婚の危機にあるの」
「そうなんだ」
「パパとママは喧嘩して、離婚しそう。
パパとママは別居して、このままだと離婚するの」
「それはいいが、あのゲームとはどういう関係だ?」
「パパは実は『GASO』のプログラマーなの」
「『GASO』?あっ!」
『GASO』とはゲーム会社、『リアルファイター』シリーズを開発している会社だ。
販売元は違うが、オープニングデモ画面でも最初の方に会社の名前が出てくる。
つまりは、大手企業の下請け会社ということらしい。
「ちょっとだけ理解したけど、でもやっぱりゲームを上手くなる理由にならないな」
「パパと約束したの」
「約束?」
「パパが開発会社枠で、『リアルファイター』の県大会に参加するわ。
そこでパパに勝ったら、ママと和解してくれるって約束させた」
「そうか……長野の県大会?」
「うん」杏那が頷いた。
家庭のために、ゲームを強くしないといけない。
ただ、俺はひとつ気にしていたことがあった。
「それって、秋の県大会?」
「そうよ」
「本気か、それは……結構厳しいな。秋の県大会は確か九月三十日だったな。
だけど、それまでにやらないことはかなり多い」
俺の言葉に、杏那は「うん」と小さく頷いた。
「だから、あたしは県大会に行ったことのある和成に頼んだのよ。もしかしたら……」
「今日は九月一日で……って一ヶ月か。きついな……」
「無理よね、やっぱり。あたしは……」
諦めにも似た杏那の声が、電話から漏れた。
ガッカリしたようなその声が、俺の耳に伝わってきた。
磯貝 杏那は確かに、格闘ゲーム自体初心者だ。
何もわからないし、何もできない。
普通に考えても予選を勝ち上がること自体、極めて難しい。
ゲーセンのゲームは、お金があれば強くなるのは早いだろうけど。
杏那がすごい金持ちって言う風には、全然見えなかった。
無理だと承知して杏那のパパが、要求を呑んだとしか思えない。
だけど、それでも少し教えた杏那のことは見捨てられなかった。
「なあ、杏那。金はそんなに余裕なないよな?」
「うん、ごめん。全部で一万円ぐらい……あと、バイトとかするから、それで……」
「いや、そんなことしなくていい。これはかなり難しいし、極めて困難だ。
でも、俺はお前に勝たせる。いや勝たせたくなった」
「そうよね、あたしに勝たせる……えっ?」
「勝たせる、杏那は勝ちたいんだろ?」
「うん」そこに迷いがない。それが俺の救いでもあった。
「だったら俺の言うことはちゃんと聞けよ、必ず勝たせるから」
「本当に、いいの?」
「まあどういう経緯であっても、俺がこうして弟子入りを認めたからな。
とりあえず、明日は日曜日で学校休みだろう。だから俺の家に来いよ。
できれば午前中に、時間もないだろうし……」
「え?」電話口で、杏那の困った声が聞こえた。
「言ったとおりだ、そういえば杏那は松本市街のほうか?自転車もなかったけど」
「そうだけど……」
「じゃあ、バスで来るのがいいかな。今から俺の家の住所を教えるから、ちゃんとメモしろよ」
そう言いながら、俺は迷いもためらいもなく杏那に自分の家の住所を教えていた。




