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瞑目するたび、抹香と読経が耳鼻に蘇る。
実姉の葬儀以来、蜜は夜中でも電灯を煌々と点けていなければ眠られぬようになってしまった。
あまり姉妹仲が良くなかったとはいえ、姉の死はそれは哀しかった。
有り得ない形で姉を喪い、蜜は通夜の夜から初七日を過ぎても延々泣き続けたものだ。此の世にこれほど辛いことがあるのかと寝ても覚めても嗚咽を漏らし、無闇に父を詰り、常態から逸れてしまった母を恨んだ。しかし、そんな哀しみも話に聞くように、本当に時間の経過と共に薄れていった。それがまた未だ幼い精神を多分に有している蜜には信じられなかった。なんとおのれの薄情なことかと、姉のことを考えぬ時間が増すたびに蜜はそう思ったものだ。
しかし。
人間の感情など所詮社会生活の中の僅かな振幅でしかない。そうでなくては人の営みは停止してしまう。しかしその、どちらかといえば動物的に近い感覚に年若い蜜などが戸惑うのも無理からぬことではあろう。
近親者は勿論のこと、葬儀というもの自体に初めて参列した蜜の小さな心の器は、姉の遺体が火葬される段に至り明らかに変調を来した。結果それは蜜の精神に僅かとはいえぬ瑕疵となり、哀しみが薄らぐのと同時に今度は悪夢に苛まれるようになってしまった。
顔の見えぬ何者かに襲われ助けを乞う姉を傍観する蜜。
どうにかしなくてはと思いつつも何故だか身体は動かない。
携帯電話が震える。蜜は着信を無視する。
気付くと姉は血塗れで絶命している。
やっと身体が動く。
一歩、また一歩と姉に近寄る。
近寄る。
そこで夢の中の蜜は必ず瞬きをし、
目を開けた時、眼前にはいつもの姉が立って居、
蜜に何かをいおうと口を開けたその時、姉の喉の奥からめろりと炎が
目からも、耳からも、そのうち姉の前身は炎に包まれ、そのまま蜜に迫ってくる。
いつもそこで目覚め、蜜は耐え難き恐怖感に苛まれる。
姉はきっと自分を恨んでいるのだと蜜は毎夜思った。自然睡眠を遠ざけ、仮に床に入っていたのだとしても電灯を消せなくなったのもいたしかたないことといえよう。
それでも眠らなければならない。
精神的なダメージは多分に受けているが、身体はいたって健全であるが為ある程度の活動限界を超えると眠くなる。眠りたくはないと我が睡魔に強く抗うが、所詮そんなものは無駄な足掻きに終わる。
そして眠れば必ず夢を見た。
燃える姉。
汗みずくで目覚める蜜。
この繰り返しだ。
ただでさえ手酷い打撃を受けている蜜の精神はこの重ねられた衝撃で崩壊するかと、それは蜜自身も思った。が、蜜は自分が思い感じるほど弱い人間ではなかったようで、煩悶を数日経てその辛い現実をなんとか自力で是正しようとする方向に顔は向いた。
姉を殺した犯人を捜す。
とりあえずは姉の暮らしていた町へと行ってみるかと、うろ覚えの住所を頼りに蜜は部屋を出、駅へと向かい電車に乗った。
警察も、そしてどうやら父も日夜殺人犯を捜してはいるが、その行方は杳として知れない、その犯人をである。なんの力も持たぬ小娘がうろうろ動き回って、どうにかなるとは流石に思わないまでも、そうすることが生前ほとんど没交渉だった実妹からの手向けになるような気がした。
それに。
時間的に考えてもおそらく姉が殺される前に送信したであろう蜜宛ての不可解なメール。姉は何を自分に伝えたかったのか。
平仮名二文字、「い」と「わ」
蜜が想像するに、珍しく妹に用があってメールを作成している最中に犯人に襲われたのだろうと思う。それ故前述のような意味のわからないメールを送信してしまったのだ。まさに殺される寸前だったのだ、理路整然とした文章を送り付けられるほうがおかしい。
「てかお姉ちゃん、警察でも電話すれば良かったのよ。電話手に持ってたんだから…」
一抹の寂しさを抱えながらまるで文句を垂れるように独り言をいう。
蜜が携帯電話の画面から顔を上げると、車内は俄かに混んでいた。
ふ、と線香の匂い。
「…え?」
なんだろう、この黒い集団は。
葬式だろうか。
皆一様に暗い顔をし、俯き加減で立っている。空席もちらほらあるようだが座っている者は誰もいない。その異様な集団は皆喪服に身を包んでいた。
「…え。ちょっと…」
再度驚く。
奥に立つ、頬のこけた青白い顔の髪の長い女がその薄い胸に遺影を抱えて立っている。
葬儀の途中?
しかしそれにしても何故霊柩車にも乗らず、移動するにしても葬儀屋の準備したバスなりがあるはずだ。蜜は混乱した。
ゴトン、ゴトン、
ゴトン、ゴトン、
矢鱈に振動が背骨に響く。
蜜は居た堪れなくなって視線を車窓の向こうに投げた。その瞬間トンネルへと入り視界は更に黒に染まった。
「ひ!」
窓硝子に映った喪服の集団が一様に蜜を見ている。白目の多い、そのくせ黄味がかった眼で凝視している。
蜜は振り返ることができない。
その視線の真意を問い質すこともできず、見返そうにも数十人からいる葬列のいったい誰に目を合わせていいものか。
途端明度が上がった。トンネルを抜けたのだ。
蜜が恐る恐る顔を車内に向けると誰一人彼女を見ている者はいなかった。喪服の一団は皆無感動な眼差しで外を見ていた。蜜は酷く強張っていた。音が漏れないように口吻を尖らせてするすると息を抜く。
線香の匂いが先ほどよりも濃く感じられる。
なにかがヤバイ。そう感じた蜜は取りあえず次の駅で降車することに決め、とにかく俯いてこの場をやり過ごすことにした。
ゴトン、ゴトン、ガガッ、
物凄い音を立てて電車は鉄橋に差し掛かった。
鉄橋?
蜜は下を向いたままちらりと外を見る。確かに大きな川を渡っており、そしてその向こうに欝蒼とした森が見えた。
蜜は声に出さず戸惑う。姉の住んでいた土地へと向かう途中に、こんな大きな川などあったろうか。確かに数えるほどしかこの電車には乗ったことはないが、渡河橋の存在などまるで記憶にない。
そして思う。
いったい前の駅を出てから何分経っている?
次の駅に到着する気配はなく、車内アナウンスも一切ない。間違えて特急にでも乗ってしまったのだろうか。そんなことは多分ないのだとわかっていながらも、何とかこの状況を自分の理解し得るレベルにまで持っていきたい。
しかし幾ら考えたところで不可解なものは不可解でしかなかった。
流石に蜜の背筋に冷たいものが走った。
たとえ何かの都合で葬列の群れと共に電車に乗っているのだとしても。
この人数がいて皆が皆無言なのは流石におかしいだろう。
鉄橋を越えた。
深い森。
森の木々はトンネルのごとく密生している。
次の駅は見えない。
電車の走る音以外、無音。
ゴトン、ゴトン、
どこかで鈴の音がした。
「蜜。あんたのせいだからね」
身体をびくりと震わせて蜜は跳ね起きた。
隣に座っていた会社員風の中年男が怪訝そうな顔で蜜を見ている。
いつの間にか電車で眠ってしまっていた。細かいところまでは覚えていないがとても不快な夢を見たと、蜜は額に浮いた汗の玉を拭った。背中もじんわりと汗ばんでいる。
あの遺影には、もしかすると姉が写っていたのかもしれぬ。するとそれを抱えていたのは自分だろうか。
気付けば携帯電話を握っていた手は汗でぐっしょりと濡れていた。動悸も荒くなっている。まさか日中の何気ない時間帯にまで悪夢に侵食されるとは思っていなかった蜜は、恐怖と苛立ちの綯い交ぜになった厭な感覚に溜め息を立て続けにみっつ落とした。
そこで姉の住んでいた町に到着した。
蜜はふらふらとした足取りで電車を降りると、駅のホームでもう一度大きく息を吐いた。
電車が動き出す。
車内は夢とは違い、豪くがらがらだった。
「…もう、ヤダ」
一番後ろの車両に遺影を抱えた青白い女が立っていた。濡れそぼったような長髪から覗く顔は、明らかな歯がみをして蜜を睨み付けながら電車と共に去って行く。
寝不足なのだから、幻覚も見よう。
ただこの何日か自分の周辺の世界で何かズレが生じているように思う。そしてそのズレはとても危険な感じが蜜にはした。
どうも今日は姉の部屋に行くのは控えたほうがよさそうだ。
蜜は駅のロータリーでタクシーを拾うととんぼ返りで石動の駅前に引き返した。
石動駅はなんだかわさわさしていた。
何かあったものか。いや違うこんなものだいつもと、蜜は頭の芯の疼痛を振り払うように二度三度と首を振った。
そこで声を掛けられた。若い男の声だった。
「はい…?」
蜜は内面の動揺を米噛を伝う一筋の汗ひとつで落とし、幾分上気した顔を男に向けた。案の定蜜とそれほど年齢の変わらなそうな、少しにやけた雰囲気の若い男が立っていた。
「あ。えっと」
若い男は明らかに蜜の容貌を見て、戸惑っているようだ。
男の方は長身ではないが、それでも蜜より頭ひとつ分大きい。自分の胸の位置に若干上目遣いでこちらを見る、少女のような女。否、少女か。男は正直、自分はどうしてこの女性に話し掛けてしまったのだろうかと思っている。
まるでどぎまぎしてしまって会話にならない。
蜜はただでさえ大きな瞳をさらに大きくして若い男を見た。表情には出ないが、ナンパならナンパで早く何かいえよと思っている。なんだか苛立ちが治まらないのでけちょんけちょんにいい返してやろうと腹の底で企みながら。
ところが若い男は、
「このへんに石畳ってバーありませんか?」
と、まさにこれから蜜が行こうと思っていた店について尋ねてきたのだ。
「石畳」
少し下膨れ気味の頬を軽くふくらませ、蜜は私もこれから行くんだけど一緒に行きますかと軽い微笑みをもって言葉を返した。
若い男はちらちらと蜜を見ながら、
エバキコウヘイです。
といった。