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此の世に何も為さぬまま、人知れず其の生涯を閉じるのだ。
駒場祐一郎は自分の行為が世の中を変えるほどの力があるとは微塵も思っていない。
単純に目の前の怪異を消し去りたい。それだけだ。
生まれも育ちも平凡で、好きな時に好きなことをするそれだけで十分な、ずっとそんな人間だった。
あの瞬間までは。
ほんのりとした幸福感に包まれながら、その日駒場は人待ちをしていた。
人並みの未来を頭に描きつつ。
駒場はにこにこしながら、なんの記念日でもなかったが購入した贈り物を携え佇む。
こうして自分は年老いていく。
それでいい。
心から愛しく想う者と一緒にいられるのならそれだけで。
出会いは大学構内。
駒場の読んでいた本を覗きこみ、一言趣味が合うねと。
そのまま横の席に腰掛けた。駒場は少し戸惑いながらも言葉を返した。
綺麗な顔をしている。
駒場の第一印象はそんなもの。
それでもその後、何度か大学内でお互いを見かけるうちに二人の距離は近くなって、どちらともなく手を繋ぐようになって。
音楽の趣味も、好きな食べ物も、休日の過ごし方もまるで違ったけれども、ただ初めてお互いに会った日に確かめ合ったようにお互いの一番好きな本だけは同じだった。
それだけで二人はずっと話をしたものだ。
なんとも思春期過ぎの中学生のようで甚だ青臭いが、その時間は駒場にとってなにものにも替え難い貴重な時間だった。
目を閉じ、その瞬間を想起するだけで、その時味わっていた幸福感が蘇り涙する。
その瞬間はもう二度と駒場に訪れることはないのだから。
あの日。
激しい雨と雷の中、石動の駅近くの駐車場。そこに停めた車の中で、これから食事でもするかと話をしていた。
とりあえず雷雨が止むまでは駐車場を出ないでおこう。
それにしても酷い雨だ。
恋人が煙草を吸う。
メンソールのアメリカ煙草だ。駒場は中途でそれを奪い、自分の口に銜えた。
その時の恋人の表情を、駒場は一生忘れない。
駒場は恋人の手によって車から突き飛ばされ、状況を理解する前に。
轟音。
アスファルトに顔面を打ちつけた、その痛みを感じる前に、瞬間的に暗くなった視界に駒場はまず恋人の姿を探した。
酷い砂煙に目も開けていられない。
その名前を呼ぼうにも息も吸えなかった。
酷く咳き込み、涙が止まらない。
その時の苦しさを、駒場は今でも覚えている。そしてその苦しさなど所詮は。
一陣の風。
砂煙が少し薄れ。
瓦礫。
瓦礫。瓦礫。瓦礫。
なんだこれはと駒場は呟く、叫ぶ。
駐車場の横にあった古いビルが倒壊していた。
雨は上がっている。
駒場は車のあった方を見た。
車のあった位置。二人の乗っていたフォルクス・ワーゲン以上に大きなコンクリートの塊がかわりに視界に入ってきた。
喉から血が出んばかりに絶叫した。
実際口の中はいたる所が切れており、鼻からも血が出ていた。
なんなのだろう。
なんなんだこれは?
その時の強烈な憤怒はそのまま、その時駒場の網膜に灼き付いた光景と繋がっている。
影。
少年。
裸の女。
比較的理性的に今までを生きてきた駒場でも、かけらほども冷静に考えることができない。
少しずつ、狂う。
気づけば駒場はまだ叫んでいた。
最早肺臓に酸素はなく、喉の奥から嗚咽にも似た音がか細く漏れていた。
気づけばコンクリートを掻いていた。
とても持ち上がるものではない。だから駒場はコンクリート塊を手で掘って恋人を助け出そうと。
見る間に爪は割れ、血が噴き出す。
泣くも笑うもない。
ただただ、もう一度顔が見たくて。
生きるも死ぬもない。
自分の目の前から消えた現実を受け入れられない。
あたりはどうやら騒然としている。
遠くにサイレンが聞こえる。
ああ誰か呼んでいると駒場が一瞬その場を離れた、その瞬間車のあった地盤が崩れ落ちた。
まるで噴水のように水が空高く吹き上がった。
全身を濡らし、駒場は沈んだ場所へとふらふらと再び歩み寄る。
助けにきた何者かに羽交い絞めされていることにも気づいていない。
足だけは前に行こうとしていた。
一塊に辛い、有り得ない経験。
ひと月近い捜索もなんら実を結ばず、結局駒場の恋人は行方不明者として処理された。
おそらくはあの場所の地下に埋まったままなのだろう。
それを考えると今でも駒場の心は引き千切られそうになる。
何度も現場に侵入して地面を掘っては捕まった。
その受け容れられぬ現実を、なんとか自分に認めさせるために、駒場はその後自分なりにあの事故(結局ガス爆発事故で処理された)のことを調べはじめた。しかし調べれば調べるほど謎は妙なかたちに歪むばかりで、微塵も納得のできる事実が現出することはなかった。ただひとつ、この世にはどうやら人とは別の何者かが存在していることだけはわかった。
その何者かとは、あの場所にいた三人に他ならぬ。
あの状況、とても奇異な三人だった。
人でないのなら、あの惨事はその三人がきっかけなのではないか。
おのれひとりではとても抱え切れない感情を何かにぶつけねば息をするのも儘ならぬ当時の駒場が、その三人に対して無根拠に悪感情を抱くのも無理からぬことなのかもしれない。そして最初こそ無根拠であったが、結果としてそれは間違いではなかった。
あの事故には確かにその三人が深く関わっていたのだ。
そしてその三人は確かに人外だった。
生来生真面目な駒場は、その後自分なりに学び、励み、やがて独学独力ながらもおぼろげな技術を得るに至った。
悪霊、厭鬼、妖物、その祓いの術を。
すべては恋人の仇をとるため。
それ以外になにもない。
それに必要ならばどんなことでも受け容れる。
我が身を清める意味で敢えて着慣れぬ服を着、髪の毛はあの日以来切っていない。
過去がもう辛いものでしかなくなった。すると不思議にも、心の伴わない笑顔が勝手に形作られるようになった。
こうして、超常現象祓い(スーパーナチュラルバスター)駒場祐一郎が誕生した。
世の怪異の悉くを滅却し、やがては。
影の行方はわからないまま。
女も同様。
しかし少年は、どうやらミササギリョウという名前と知れた。
だから駒場は場当たり的に悪霊などを祓いつつ、今日もリョウの情報を得ようとする。
心に在るのは常に二度と掻き抱くことの出来ぬ恋人のことであり、だから駒場は決して正義の人ではない。しかし彼の為す行為に依って救われている者がいるのも事実で、その行為のみは正義といえる。
精神性はどうでもいいのかもしれない。
行為のみを評価するとすれば、頭で何を考えていようと。
頭の中は結局、個人の空間なのだ。
だから他人を批判をするなら、その行為のみに対してどうこういうべきで、決して心の裡まであれこれ意見してはならない。
駒場は正義の人である。
ミササギ霊。
最近はどうやら石動駅近辺のとあるバーに出入りしているらしい。
駒場は害意を持った人間外のモノをこの世から消し去ることを決意してから、まずおのれの目を鍛えることをはじめた。
曰くそれは多く、かそけき存在であると耳にするからだ。しかし鍛えるといってもまるで見当がつかなかった。だから駒場は、暗中模索する暗の部分をまず模索することからはじめねばならなかった。
結果としては、素養があったのだと思う。
おそらく努力でできることには限界のある業界(?)だとは思うのだ。似非以外は。
見えて次は本題に入る。
シテ如何様に祓い除ける可?
駒場は図書館に通い詰め、やがて四国へ発った。
決して明らかな確信があっての旅ではなかった。また、行ってどうにかなるような宛ても一切なかった。ただそれでも、空港に降り立ち、バスに乗り、やがて見えてきた奥深い山々に、少しだけ回復の兆しを自分の中に見つけた。そして、現地にいる祓いを生業にしている者に会うことも出来た。だが、弟子入りだのましてや修行だのは、やんわりとした口調で、そうしたものではないからと断られてしまった。
ただそれでも。
そうした、普通は目に見えない世界を緩やかに享受する場所が現代の日本にも存在したという事実。それだけでも、駒場にとっては掛け替えのない経験だった。
まるで諦めることなど考えてなかった駒場は、祓いが行われている現場を駆け回り、まさに門前の小僧習わぬ経を読む状態でその秘された技術を吸収していった。それしかろくな方法が思い浮かばなかったのだ、致し方あるまい。
繰り返すが、確かに駒場には素養があったのだろう。
本来どれくらいの修行でものになるのかは知らぬが、潜伏して半年、見様見真似でそれなりの仕上がりになったのだから。
ただし、飽くまで見様見真似。雑多ないい方をすればパチモンである。
パチモンは人型に切り取った紙を道具として使う。
紙に念を込め、紙に命を吹き込み、護法神として使役する。おそらく本格的に修行したならさぞかし頼もしい護法神を現出させることが可能であろう。なにせ駒場は、盗み見た情報のみで、(ひとりひとりはそれほどの力がないが)一度に十一人もの式を打つことができるのだから。
ミササギ霊。
駒場祐一郎は菩薩のような薄笑みでバー石畳の扉を開けた。