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世の中とは思い通りにならないものだと実感している。
それでも、歩けば歩いたなりの、それなりの収穫はあったが、あくまでもそれはそれなりで確信を得るほどのものではなかった。
このところ友人宅を泊まり歩いている。友達といえどそれなりに気を遣うタイプである故、安息はあまり得られず、つまりは疲労が溜まっていた。
公平はここ数日、あの得体の知れぬ子供の正体を探ろうとしている。
無論誰に頼まれたわけでもない。しかし好きでやっているわけでもない。
あの夜、菩薩顔の男が退治したはずの毬をつく子供は、その後それほど日を置かずに再び公平の部屋を訪れた。
深更、激しくドアを叩く音に飛び起きた公平は魚眼レンズから廊下を覗き見て戦慄した。
消えたはずの子供がいる。
唸っているのか吠えているのか喉の奥底から耳触りの悪い声を延々と発して、まるで無表情にドアを叩き続けていた。
公平はどうしていいかわからず、ドア越しに帰ってくれ勘弁してくれと繰り返したものだ。
そもそもがどうして自分が狙われるのかがわからない。本当にあの時の何気ない一言が原因なのだろうか。
なにもかもが公平の理解の範疇を超えている。だからその後すぐ、二階だというのにベランダから飛び降り、何も持たずに遁走したのも無理からぬことだろう。
とにかく怖かった。
菩薩男のいない状況で、あの怖ろしい子供と対峙したならばいったいどんな目に遭わされることか。
どれだけ走っても、公平の部屋の鉄扉を叩く音は耳に届いた。
いったい何故。
離れたことによる安堵感から公平は気づく。いったい何故あれほど大きな騒音が出ているというのに誰も起きてこないのだろう。疾走しつつ振り返ったアパートは公平の部屋のみに明かりが点いているばかりで、あとの部屋は真っ暗だったのだ。
隣室の若夫婦はいったい?
知らぬうちに引っ越したのだろうか。
公平はぞくりと身震いした。
子供の再訪を受けた翌日の正午過ぎ、管理人に適当ないい訳をして部屋を開けてもらい、とりあえず必要な物を持ち出してこっち、あのアパートには戻っていない。その段に及び、公平は初めて自分の居住するアパートの管理人の顔を見た。どうしてか真夜中の騒音について尋ねる気にはなれなかった。なんのことはない、変な目で見られるのが厭だったのだ。
どうにかしなくては。
どうにか問題を解決しなくてはなるまい。
他の者ならばさっさと居を替えて終わらせるところか。しかし公平は、部屋を引き払うにしても、とりあえずはあの子供をどうにかしなくてはならないだろうと思っている。その思い込みは多分不要である。決して好奇心や、その他の陽性の思考によってそう思っているのではなく、強いていうなら気になっている。
それを憑かれているというのなら、確かに公平は取り憑かれているのだろう。
幽霊。
亡霊。
怨霊。
その区分すら公平にはわからない。ただ生きていないのだけは確かなのだ。あのような出現の仕方で、あのように一度消し去られ、且つまた出現した、そんな子供がいるとしたなら幽霊の存在云々よりも大事件だ。
そういえば。
公平は以前テレビ業界に籍を置いていたことがある。とはいっても身になる経験を積む前に挫折してしまい、今では合コンの話題のひとつになり下がっているほどの過去だ。
挫折の理由は公平自体に落ち度があったわけではない。
数年前の或る日、公平の眼前で人に雷が落ちた。
公平自身には怪我はなかったが、目の前で人が焼けるのを見てしまった衝撃は酷く、その後しばらく軽いパニック障害になった。結果としてその精神障害の発症が、公平が仕事をやめるきっかけとなった。
しかし問題はそこではない。
公平は怪我人に付き添って救急車に乗ったため、その後の信じ難き光景を直接目撃していないのだが。
常夜灯のみとなった総合病院のロビーにて。
鎮静剤の影響で霞む目で見た、現場に残ったスタッフと演者が撮影したその後の状況。
実に理解不能な光景だった。
影と少年と女。画角の定まらぬ映像に捉えられた正体不明の三人。少年と影が戦っているようにも見えるが、果たして。
影に顔がなかった、だの。少年に目がなかった、だの。女はあの時点で既に死んでいた、だのと実に失笑してしまうような話題が飛び交ったものだ。しかしそれよりも大騒ぎとなったのはその後に起こった爆発とビルの崩壊だった。そんな不可解で派手な事件でも死人が一人も出ていないせいか、数年経った現在ではその事件を取り立てて口にする者もなく、爆発と崩落のあったビルも、今はとても近代的な高層ビルに替わっている。
結局なにをいいたいのかというと、公平が今まで経験した不思議な体験といえばそれぐらいのものだったということ。
随分と濃度の濃い今回の事態に簡単に霞んでしまい、今まで微かにも思い出さなかった数年前の過去の話だ。
早足で歩いていた足を止めた。
今日の目的にしていたひとつ目に到着したのだ。
看板には「TRUEBLUE」とある。
外観は高級そうに設えてあるが、なんのことはないどこにでもあるキャバクラだ。
公平は暫時看板と入口とを交互に見ていたが、やがて意を決したように中に入った。店に入るなり如何にもヤンキー上がりといった風情のボーイが出てきて、いくつかの接客常套句を早口に並べ立てた。公平は半分聞き流しながらいい加減に頷き、薄暗い店内を隅々まで見渡し、
「この店に唯ってコがいると思うんだけど」
と訊いた。
「ああ、唯ちゃん? いますよ。どうぞ」
「いや。あ。呼び出してもらえます?」
公平がそういうとボーイは露骨に目の色を変え、あんたナニモンと返した。
「…え。あ、まあ。人捜し?」
必要以上にしどろもどろになりながら、公平は小声で答えた。一瞬にして全身が汗ばむ。結局は気が小さいのだ。
ボーイは何だソレとぶつくさいって、
「どうすんの? 客じゃないんだろ」
といった。
公平は一度ちらりとボーイの目尻のあたりを見、出直しますといってそそくさと店をあとにした。端から計画性のある行動ではない、手持ちの金などほとんどなかった。しかし、諦めることもまたできなかった。何故なら、公平が独自で調べた結果、この店で働いている唯という女性が過去、公平のアパートの近辺にいたという話があり、加えてその女性の周囲に五、六才の男の子もいたようなのだ。
なんら確証のある話ではない。素人なりに聞き込みをした結果である。
結局店の外で待つことにした。
店を出てくる女の子に片っ端から声を掛けていく。
大半は怪訝な顔をされ、何人かに声を掛けた段階で店からあのボーイが出てきて、公平は殴り飛ばされた。
公平は更に場所を替え、辛うじて店の見える位置まで移動する。
この際何日掛けてでも唯という女を見つけてやろうと、そう思っている。出てくる女、ひとりひとりを追跡したっていいとまで。妙な持続性だけは旺盛だ。それに繁華な町に埋もれることで、随分と恐怖は和らぐ。
そんなことを考えながらただ佇んで、二時間くらい経ったろうか。
ひとり、遠目にも香水のきつい匂いが届いてきそうな若い女が店から出てきた。と、店の奥から大声で唯ちゃんと声を投げられ、振り返り、なにやら笑顔で返している。
ほらな。努力は報われるんだよと公平は腹中ほくそ笑んだ。
あのボーイが出てきてもつまらないので、遠くから尾行する。
唯はどうやら駅に向かっているようだ。ぎりぎり終電に間に合うくらいか。
珍しい色のハイヒールを目印に、公平は静かに追跡した。
なんとか電車に乗る前に声を掛けねばと、そう思っていたが、自動改札で引っ掛かってしまった公平は結局目的地もわからぬまま電車に乗る羽目になった。
逃がしてはなるまい。
あの子供と繋がりがあるのかどうか、それを確かめねば公平は眠ることすらできぬまでに追い込まれつつある。
だが。
唯が降車した駅は案外人が多く、結局公平は唯を見失ってしまったのだ。彼なりに細心の注意を払ってやっていたつもりだったのにと臍を噛む思いだった。だから公平は、今度はその駅に河岸を替え、張り込みを続けることとした。顔はよく記憶できなかったが、少し独特のファッションセンスのある女であったので、再度現れればわかるだろうと、そう思って。
なけなしの金で煙草を買い、日がな一日駅を眺める。
まるでドラマに見る刑事だなと、ありきたりのことを考えながら。
翌夕方。
唯は現われた。
昨晩と同じ色のハイヒール。時間帯を考えてもこれから店に出勤するのだろう。
公平は底の見えた財布と相談して、そのまま駅で唯の帰りを待つことにした。
そうした地味な行動を繰り返して、公平は思い当たる人間ひとりひとりの身辺調査を繰り返している。
唯という女。
本名は雨居直というらしいことがわかった。
公平は何度か直接子供の件を訊ねようと接触を試みたが逃げられてしまった。それはそうだろう、誰がどう見ても公平は怪しい。
「これじゃストーカーじゃないか」
そんな気持ちの悪いものと勘違いされたくないものだと思いながらも、公平には他の手段が思い浮かばない。事実その当時、唯こと、直は店の仕事仲間に最近ストーカーに付き纏われてと苦っぽく語っている。
そしてそこまでのことをしておいて、公平は仮に子供を虐待死させた親(それ自体が公平の想像であるが)を見つけ出して後、どうするかを決めてはいない。
責任をとれとか、罪を償えとか、社会倫理に照らせば確かにそれはそうだろう。その手の気持ちも僅かながら内在してはいるのだが、それはおそらく、公平などが強弁するようなことではない。どちらかといえばただ単純に、自分の味わった恐怖を、発端を起こしたであろう誰かにも味わわせてやりたいと、そうした感情のほうが大きかった。
あの子供は酷いことをされ、怖い思いをして死んでいったに違いない。
ならばその行為を為した何者かも、それと同等の、否それ以上の恐怖を味わって然るべきだろう。
その思い込みは危険である。
公平は自らの行動を正当化しようとしている節がある。
自己偏愛の強い、独善的な性格をしているのだ。