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 なにかを見つめていたとする。

 その目線をすっと別の箇所に動かした際、違和感を感じたことはないだろうか。


 視界の隅になにか見えたような。


 影とも物とも知れぬ。

 何と問われても明言できぬ。

 いいようのない異物感のみが網膜に残る、そんな感覚。

 振り返って見直してみるが勿論なにもない。

 ただそれだけの、一瞬だけの気の迷い。


 本当に気の迷いだろうか?


 いや。

 気の迷い。

 深く考える必要など微塵もない。


 本当にそうだろうか。


 見れば何もない。

 見る必要もない。

 気のせいだ。


 本当にそうだろうか?


 気にしだすとキリがない。

 なぜなら胡乱な隙間など其処彼処に穿たれている。


 ああ。

 今見てはいけない。

 今この瞬間にのみ、


 なにかいるかもしれない。


 ああ。


 見なければ見ないで、


 そのなにかが這い出してくるかもしれない。



 閉まりきっていないドア


 箪笥の裏


 カーテンの合わせ目


 椅子の下

 ベッドの下


 確認しなくてはいけない隙間はどこにでもある。


 眼だけを忙しなく動かしても、真後ろに立っているかもしれない。


 あるいは足もとにいて、足首を掴まれるかもしれない。


 いや、気のせいだ。

 いや、気のせいか?


 気配という言葉がある。

 気配というものが本当に存在するならば。

 その影とも知れぬ曖昧なモノもまた存在するのではないか?

 把握していないだけで存外その存在に悩まされている人は多いのではないか?



 不意に誰かに呼ばれたような気がして振り向く。


 ああ、今は部屋にひとりだった。


 本当にひとりだよな?


 気の迷い、気の迷い、気の迷い。


 そう。


 あの、書架と書架のわずかな隙間からこちらを覗いている何者かもきっと気の迷い。



 *


 高いヒールの靴が好きな女だ。

 コンクリートを音を鳴らし、颯爽と歩く。

 すれ違う人間の視線を浴び、彼女の人一倍強い自己顕示欲求が充足されていく。

 普段している仕事が人目とは無縁であるので、レイコは時折こうして胸の奥に澱のように溜まっているものを浄化せんがため街に出る。必要以上に目立つ格好をして。

 季節は夏。

 背中の大きく開いた服とタイトなミニスカート。

 今の仕事を始める前はこうした格好をよくしていたものだ。

 髪も今より長く、なにより自信に満ちていた。

 容姿が他人よりも優れていた。

 どこへ行っても持て囃され、自然なんとも高慢ちきな女に仕上がった。

 今でも根本は変わらない。だが、以前と比べ少しだけ我慢をすることを覚えた。それというのもレイコは以前、自身の傲慢さがもとで死に掛けたのだ。あり得ないかたちの事故に巻き込まれ、レイコの呼吸は停止した。骨折もし、内臓も傷ついた。命こそ取り留めたものの左目の視力と左腕の自由、そしてアルコールを摂る楽しみを奪われてしまった。

 事後もしばらく、自分がどうしてそんな目(実際自分に降りかかった災難がどのようなものであったかもわかってはいないが)に遭ったのかわからなかった。

 しかし今ならばわかる。

 その時レイコは仕事仲間に酷く怨みを買っており、その意趣返しに或る人物から特異な攻撃をされたようなのだ。

 その人物とはその日に知り合い、今はどこにいるかも知らない。

 そしてそれがわかったところで今の段階ではどうすることもできない。もっともレイコは、今更どうこうしようとも思っていなかった。後遺症はあとを引き摺っているが、レイコはどこか異常なほど乾いている部分があるのだ。怨みといった湿った感情も言葉上の理解しかできないほどに。おそらくは生涯、怨恨というものに対して感情レベルの理解はできないのではないだろうか。

 怨みに限らず、レイコには物事や人間に対しての執着もない。病的なほどに。

 たとえば。

 夢にまで見た大好きな男と会う約束をしていたのだとしても、雨が降ってきたらやめてしまう。雨が嫌いだからだ。濡れるのが嫌なのではなく、雨に濡れたアスファルトのにおいが嫌いなのだ。特に夏は最悪である。そしてそんなふざけた言い訳を特別隠さずそのまま相手に伝える。もちろんそれで終わりになることは多いが、レイコとしては自分のすべてを笑顔で受け容れられないような狭量な男など端から願い下げなのである。

 話は逸れたが、いずれにせよ世の人には執着心があり、それが他人を羨んだり怨んだりする感情へとシフトするのだろうとレイコは思う。しかしやはり、理屈だけはわかるがピンとは来ない。ピンと来ないまでも、他人に悪感情を抱かれ結果半死半生の経験をしたのはまぎれもない事実である。

 他人に必要以上に嫌われるのもあまりいい気はしないので、少しは他人の気持ちを考えようかと流石のレイコも思ったわけである。

 なんのことはない、自己防衛だ。


 角を曲がる。出会い頭に顔の長い身体の長い男とぶつかりそうになった。男は半歩身を引いたが、レイコは軽く眉間に皺を寄せ、相手が横にどけるまで当然の顔で待った。

 長い男はどんよりとした眼差しでレイコの胸のあたりを見つめた後、するりとレイコをかわして歩き去っていった。

 服のセンスはいまいちだが香水の趣味は悪くない。レイコはそんなことを思う。


 レイコが今の仕事をはじめたきっかけはスカウトである。

 前述の事故で死に掛けて以来身についた異能に、方法はわからないまでも今の担当者が気がついたそうなのだ。

 破格のギャラで交渉を持ち掛けられ、そして担当の男がレイコ好みだったから、レイコはふたつ返事で契約書にサインした。

 昔も今も行動の軽薄さだけは治らない。

 仕事自体は、多少苦しいが短時間で済む。その上、たった一度の仕事で前職のひと月分の報酬が振り込まれる。

 短時間で高額。これほど旨い仕事が他にあるだろうか。しかしレイコは、もう少し貯蓄ができたら辞めてやろうと思っている。闇の中延々と他人の暗部を覗く商売である、流石に最近はやや食傷気味だった。

 苦しいのももう厭だった。


 レイコは呼吸が苦しくなると他人の意識に僅かばかりの傷を付けることができる。

 傷について少し詳しく説明するなら、傷をつけたい対象に関連する物品から意識を対象に飛ばし、対象の思考を垣間見、そしてその思考に恣意的に彼女の意思を差し挟むことが可能なのだ。レイコはそれを瑕疵を与えると客に説明する。それは偏に、客の求める差し挟む意思が大概が悪意に満ちているからだ。

 この異能の面倒なところは、我が意識で止めたのでは意識を飛ばすことをできない点であろう。だからレイコは、全身を一部の隙もないゴム素材の衣服で包み、あまつさえ呼吸弁に細工を施したガスマスクを顔面に装着しなくてはならない。その時点で軽い眩暈を催すほど息苦しいのだが、更に最終的には呼吸弁を完全に閉止しなくてはならない。大抵の場合レイコは気を失うが、死ぬようなことはない。レイコの傍にはいつもスカウトした男、端神がいるからだ。

 レイコは今では端神を甚く気に入っている。

 だから自らの能力を使い、どうにかものにできないかと試そうと思ったことが何度かある。思うだけで、危険が伴う故実行はしない。


 煙草をやめてからというもの(勝手にレイコは端神は煙草を吸う女は嫌いそうだと思っている)、コーヒーの量が増えた。ブラックは飲めないので最近は微糖ばかりを飲んでいる。おかげで舌先や口の端が荒れている。


 そして思いだす、何日か前に訪れた若い男の件。

 どこでどう繋ぎをつけたのか、且つまた、どうして端神が通したのかわからぬほど安っぽい今時の男だった。

 口調こそまともだったが目が血走っていた。

 手に握り締めた土塊をレイコの眼前に突き出し、殺された子供がいる、殺した奴を捜してほしいと何度も何度も繰り返した。

 男の説明では、どうやら親に虐待されて死んだ子供らしい。

 どうしてその親を捜したいのか、子供とどういう関係なのか、レイコは何度も尋ねたが男の返答はまるで要領を得ず、その子供と出会った場所をいい、ただただなんとかしてくれ、捜してくれを繰り返す。

 小学校低学年くらいの男の子。

 男の言葉の継ぎ目継ぎ目に子供の特徴を聞いていき、やがてレイコは別の意味で息が止まりそうになった。

 思い当たる節がある。

 思い出したくもない過去だ。

 レイコは昔、男と同棲していた。

 その男には子供がおり、どうやらそれは逃げた女房との間にできた子供のようだった。

 レイコは男にのみ用があったわけで当初子供には興味はなかった。しかし男は、男なりに子供を愛していたようなので、それに合わせてレイコも子供に気に入られようと努力した。なにより男に嫌われたくなかったからだ。

 五才の男の子だった。


 あの日。

 そうだ。レイコははっきりと思い出す。

 秋に入った頃だった。

 インフルエンザに因る臨時休校でいつもの時間より早く男の家に行くと、家には見知らぬ女がいた。

 子供が今まで見たこともない笑顔を見せていた。

 男も苦笑いのような照れ笑いのような曖昧な笑顔を見せていた。その男の顔もレイコは見たことがなかった。

 男と女はレイコの顔を見て動きを止めた。

 高校一年のレイコは、それでも瞬時に理解した。逃げた女房が戻ってきたのだ。

 そこからはどうにも記憶が曖昧だった。

 ただ最初に、靴箱の上に置いてあったガラスの花瓶を手に取ったことだけは覚えている。

 手当たり次第に殴りつけた。制止の声と泣き叫ぶ声と子供の悲鳴。

 喚いて、暴れて、気づけば川縁を歩いていた。

 制服のスカーフとローファーが一足なくなっていた。

 その時のレイコの右手にはありありと頭蓋の潰れる感覚が残っていた。


 努めて忘れようと心掛けていた事実。

 自分は子供を殺したかもしれない。

 思うにその後騒ぎになった記憶はなく、それほど大事ではなかったのかもしれないと思う反面、誰かの頭に花瓶を叩きつけた感触だけは今もレイコの右手に有る。そしてその感触を思い出すのと同時に、男の子供の名前を連呼する声が耳に蘇るのだ。


 若い男の語る場所と、おそらくはこの世のモノではない子供の年格好。レイコの記憶の風景と符号の多いその情報に、レイコが戦慄を覚えるのも無理からぬこと。

 どういう理由からはわからないが、若い男はおそらく自分を捜している。

 そしてやはり、あの時の子供は死んでいたのだ。


 だからその時、レイコ、いやゴム女は事実を隠し、嘘の託宣を述べた。

 本来的にその場でのレイコの仕事は探し人ではないのだから(それと勘違いして訪れる客は存外多い上、見つけられることも多々あるのだが)、それに対しての罪の意識はまるでない。


 背後で見守る端神だけは、どうやらそれに気づいていたようだが。

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