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ゴム女というのが一部で話題になっている。
一部といってもどのあたりの一部分なのかは判然とせず、つまりは噂の域を出ない話ということだが。
なんでもそのゴム女、その名の示す通り顔を含めた全身を黒いゴム素材の衣服で包みこんでいるらしく、特別自分は何某であると名乗らないため便宜上ついた、いわば通り名であるようだ。
ゴム女はあるビルの地下テナントで占いの真似事をしている。見料は初回千円、以降五百円と格安で、その上案外願いが叶うと評判らしい。
案外、とはまた微妙ないいまわしだが。
その噂の店を訪れた者曰く、地下の室内は薄暗く、ゴム女の存在は匂いと音で知れるとのこと。その闇の中客は椅子に座り、願い事や悩み事をいう。それだけだ。その後どうなるのか、そのあたりのことはどうにも曖昧である。
結局憶測こそ様々に飛び交っているが、もとを質せば友達の友達がといったていの話。実際は誰もゴム女の託宣を目の前で聞いた者などおらぬ。
そして噂とはそうしたものである。
しかし、そんな噂話に悲壮な思いを抱えて縋る者もいる。
おのれの持っている様々な力をありったけ駆使し、それでも尚事態の好転が見られない時、疲れ果てた人はきっとその霞のようなその女の存在を求めるものと思われる。
その所在はほとんど明らかになっていないというのに。
娘を信じ難き形で失った男、雨居憲和は万策尽き果て、精も根も使い果たして、それでも一切眠ることもできず、且つまた心安らぐこともない日々を送っていた。
職を辞し、精神に異常を来した妻を病院に預けて、今日も夜の町を当て所もなく徘徊し続ける。噂の女を求めて。
それほど大きくない町とはいえ、この石動にも地階にテナントを有しているビルなどごまんとある。今の彼にできるのはそのひとつひとつを虱潰しに当たっていくことだけだ。
裏の世界の横のつながりを少しでも知っていれば、比較的早い段階で彼の求めているものは見つけられたかもしれぬ。しかし、雨居の人生は真っ当過ぎた。今までずっと陽の当たる道しか歩んでこなかった。
明るい光の下年老いていくのだと、なんの疑いもなく今まで生きてきた。花の咲かぬ場所などないと半ば本気で信じてもいた。
汗みどろの額を袖口で拭い、もう何度目かもわからぬため息を落とす。
シャツも背広もよれよれである。
家に帰ってもそのままソファに横になるだけで風呂にもここ何日か入っていない。しかし今はそれでいいと思っている。身を引き裂かれるような苦痛を少しでも忘れるには、今はすべてを擲って何かに気を奪われているほうが。
雨居の愛娘は殺害された。
刃物で全身めった刺し。
警察病院に到着し、一応確認のためにと通された部屋のベッドに横たわった長女の顔には、鼻と、片眼と、そして舌の先がなかった。
きい、と妻はひと声叫んでどこかへ走り去り、遅れてやってきた次女は変わり果てた姉の姿を一目見て気を失ってしまった。その時雨居がその場に立っていられたのは、父親である自分が人事不省に陥るということはあってはならないと、それだけのもので気を留めておくことができ、しかし一方で自分も妻や次女のように振る舞えたらいっそ楽だろうにとも思っていた。
猟奇殺人事件として警察の捜査は大々的に行われた。
捜査がはじまってすぐ、どうも長女はストーカーに悩まされていたことが判明した。
雨居は次々に明らかになる事実に驚いて見せた。
長女は隣県の盛り場のキャバクラで働いていた。ストーカーとはその店に数回訪れていた客のようだ。
警察はそのストーカーを重要参考人として捜索したが、その行方は杳として知れなかった。
雨居は父としての自身が揺らいでいた。
父娘関係は非常にうまくいっていると、勝手に思い込んでいた。
すべて幻想だった。
良き父。それはどうやら雨居ひとりの思い込みだったようだ。
「違う」
いや、世間の親子関係にも秘密などいくらでもあろう。そう思い込もうとするのは卑怯だろうか。
どうして。どうしてと、思う。
自分にしても長女にしても、特別悪いことなどしていないではないか。因果律がどうのと曖昧なことをいうつもりは毛頭ないが、これではあまりにも…。
娘はなんと不幸な子だろうか。
もし仮に、殺人者が初犯であるとするなら、仮に改悛の情が見られるとしたなら、娘を惨殺した鬼畜はいったいどれだけの罰を受けるというのだろう。
日を追うごとに雨居の思考は偏向していく。
警察が捕まえる前に自分の手で。
殺さねばならない。法の裁きなどに委ねてしまってはならない。雨居は強くそう思う。
だから雨居は夜の町をさまよっていた。
ゴム女を探して。
ゴム女を見つけ出し、真偽はどうでも、その力でなんとか犯人を見つけ出させるのだ。
先生と呼ばれる仕事を退職し、徒手空拳となった五十路の男にできることといえばそれくらいだった。結局自分など肩書きがなくなれば何の力もない。いや、それも世間皆同じだろうか。雨居には最早わからなくなっている。
ごりごりと脳味噌の軋む音がする。それでも頭は妙に冴えていた。だからここ最近雨居は外界の音がよく聞こえる。世の中の者たちはこんなにも声を出していたのかと驚くくらいだ。
しかし時には余計な声も混じって聞こえる。
全部投げ出してしまいなよ楽になろうよ
そんな声は幻聴だ。それぐらいは疲弊しきった雨居にもわかる。その声はきっと自分の弱い部分から漏れ聞こえる、本当は弱い弱い自分の声だ。
捕まえて、殺すんだ
殺せ
殺せ
「いわれるまでもない!」
思わず雨居は大声で怒鳴っていた。
汚物でも見るような顔で振り返った奴らを、雨居は藪睨みに見返した。
意思は強いほうである。しかし背中を焼かれるがごとき苦痛は徐々に雨居の精神を蝕んでいった。
ゴム女を探しはじめて一週間目、ついに雨居は噂の人物にたどり着くことができた。
雨宿りをした花屋の軒先から見えた、地下への入り口。
最早惰性でふらふらと歩み寄り、コンクリートの階段を下りていくと、まるでボイラー室のような無味乾燥な扉があった。雨居はこれも惰性でなにも考えることなくドアを開けた。
室内もやはりボイラー室のようだった。
天井からぶら下がるいくつかの照明。明度はあまりなく遍く見渡すことはできないが、どうやら普通ではない雰囲気を有していることだけは疲弊しきった中年男にも理解できた。
雨居は無性に煙草が吸いたくなり、ごそごそとポケットをまさぐると、ぐしゃぐしゃに潰れたマイルドセブンのソフトケースが出てきた。しかし生憎火が切れていた。
どこかから足元を震わせるような振動音が響いている。
「ご予約の方ですか?」
突然後ろからそう声を投げられ、雨居は不覚にも引き付けを起こしそうなほど驚いた。
振り向くと今風の長髪に顎鬚を蓄えた、蛇のような男が立っていた。
男は雨居の目をじっと見たままゆっくりと黙礼した。
雨居も怖ず怖ずと会釈する。
「あの…」
「ご予約は?」
「いえ、あの、そうしたものは…」
「それではどなたかからのご紹介で?」
蛇男は高くも低くもない、男か女かわからぬ声音で雨居に尋ねる。黒目が小さい。
「紹介…」
雨居は言葉に詰まる。しかしながら元来聡い人間である。とある、占いに目のない政治家の顔が瞬時に浮かび上がった。
ここまで来てただで帰れるか。
「腰川先生から紹介されまして」
名刺も持っている。雨居は透かさず懐から名刺入れを取り出し、かなりもたもたと端の折れた一枚の名刺を取り出して見せた。
男は、そうですか腰川先生のご紹介ですかとちらりと雨居の肩越しの向こうに目をやった。
それから雨居の目をじっと見る。
雨居は何故か目が逸らせない。
それから男二人は向き合ったまままんじりともせず、徒に時間だけが流れていった。
さすがに業を煮やした雨居は、相手の情に訴えようと言葉を替えてみた。
「あ…あの…先日私はむ…娘をコロ」
ぴたり、と手のひらを差し出して男は雨居の言葉を止めた。
「ああ、申し遅れました。わたくし端神と申します」
「はあ、ハシガミさん。あ、雨居です」
端神はやや上を見てなにやら思索を重ね、
「もしかすると、先日娘さんを亡くされた?」
雨居は返事をするかわりに酷く深く頷いた。
「それでしたら一も二もなくお通しします、どうぞ」
端神はするりと雨居の横を抜け、迷路のごとき地下室をぐるぐると先導しだした。雨居は無言で従うのみだ。
呼吸が苦しい。
目の端がちかちかする。
米噛みが熱い。
吐き気が…
「こちらです」
端神が指示したのは、入口よりも更に貧相なドアだった。
「どうぞ」
闇だ。
部屋の真ん中に蝋燭が一本灯っている。
「そちらにお掛けになってお待ちください」
端神はそういうとドアを閉め、足音もなく立ち去っていった。
そちらも何もこう暗くてはどこになにがあるのかさっぱりわからない。雨居は手探りでどうにか椅子らしき物を見つけ、倒れるように座った。
ぜいぜいと暗闇に自分の荒い呼吸だけが響く。
どれくらい待っただろう、軽い達成感にいくらかの満足を得、雨居が久方振りにまどろんでいると、どこかから乾いた靴音が聞こえてきた。
ぎゅうぎゅうと耳慣れぬ音も混じっている。
音はまるで反響していて、いったいどこから聞こえてくるものか。雨居は何故だかとても慌てて、それは忙しなく周囲を見回した。
しかし彼の霞んだまなこには闇色しか見えなかった。
こつこつこつ、
ぎゅうぎゅう。
靴音はわかるとして、合間に聞こえる音はなんなのだろう。望みの一段目が叶ったというのに雨居はそんな瑣末なことを酷く気にした。
「アマイノリカズさんですね」
突然名を呼ばれ、雨居は返事に詰まった。
気づけば闇と同色の黒い女が真ん前に立っていた。
「は…はい」
「そう緊張なさらずに。本日はようこそいらっしゃいました」
口調は丁寧だが声音は鞭のようにしなやかである。ただ矢鱈にこもった声ではあった。
雨居は固唾を呑んだ。
「あの」
「わかっております」
そういって、どうやら女は腰かけた。
雨居の鼻腔にゴム特有のなんともいえぬ匂いが届いた。
「娘さんを殺した犯人の行方を知りたい」
「はい、その通りです」
すっかり場の雰囲気と女の奇妙さに呑まれてしまっている雨居は、最早返事をするのも危ういほど不安定だ。
そんな雨居を知ってか知らずか、女は矢張りこもった声で続けた。
「娘さんを殺した者」
口を何かで覆っているのだろうか。
雨居は返事をするかわりに大袈裟に頷いて見せた。はたして女に見えたものか。
しかし女は端から何もかもお見通しといったていで、
「殺した者を捜すのに必要なものがあります。今日は持参されましたか?」
と尋ねてきた。
「は…あ、いや。必要なもの、ですか?」
「ワタクシは、他人の人生にほんの少しだけ瑕をつくることができるのです」
「…あの、仰っている意味がわかりません」
「そうですか、残念です」
そういって女は黙った。
どこかから水滴が落ちている。
ぎゅう、とゴムが鳴った。どうやら女が脚を組み替えたようだ。
「あの…それで」
「疵をつけたい相手。雨居さんであるならば、犯人ですね。その、犯人の私物なり体の一部なりなんでもいいのです。とにかく対象と関わりのあるものがあれば」
「それは知りませんでした…」
当然雨居は何も持ってきていない。その前に犯人の目星すら付いていないから苦労してこの場にいる。
「娘に付き纏っていたというストーカーが犯人ではないんですか?」
「さあ。ワタクシにはわかりかねます」
「だってアナタ、占えるんでしょう?」
「占いなど一切しません」
所詮は噂。雨居は暗闇の中で更に暗い世界へと落ち込んでいくような気持ちになる。
ゴム女は薄く笑った。スキューバダイビングをするときに装着するレギュレーターをはめているような声だ。
それにしても、
「何を」
笑う。
「また今度いらしてください。疵をつけたい相手の何かを持って」
「ど、どうにかならないですか」
「どうにもなりません。街の噂はあくまで噂」
たっぷりと間を置いて、やがて雨居は喘ぐようにいった。
「…き、近日中に必ず何か持参します」
その前にはまず犯人を見つけ出さなくてはならない。
しかし。と思う。
キズとはなんだろう。
実際に女が切ったり殴ったりするのではないらしいことぐらいしかわからない。
女はゴムを鳴らして立ち上がり、ヒールの音も高らかに退場した。
いつまでもぼんやりしている雨居に、後ろから端神が声を掛け退室を促した。
外に出てやっと一服点け、雨居は思う。
もしかすると下手に手を出さずに、放っておくのが一番なのかもしれないと。しかしそれほど図太くはなれない雨居は、多分明日から犯人に関わるものを探すことだろう。多分それは、犯人そのものを捜すことよりも簡単な気がしている。
翌日。
長女の勤務していたキャバクラに行くと、どうも数か月前から娘は、妙な男に付き纏いを受けていたらしい事実が判明した。