表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

3

 私はその時、石畳で無為な時間を過ごしていた。


 一応営業はしているものの所詮いわくつきの店、開店休業状態は毎度のことであるようだ。

 ただ、私の雇い主は泰然としている。

 特にお金に不自由していないのか、もともと儲けるつもりはないらしい。というより、客がいない方がいいのではないかといった印象を受ける。いったいどういった腹積もりで営業しているものか。尋ねたところで明快な答えが返ってくるようにも思えないので、私はそのへんのことは早々に諦めてしまっていた。

 結局は捨て難いもの。執着の為せる業か。

 そうはなりたくないものだと、私は頬杖にくわえ煙草で新聞を読む店主を盗み見た。


 やっぱり見えてんじゃん?


 両目がないのは紛れもない事実だが、そう思う。

 読んでいるのも点字新聞ではないようだ。また仮に点字新聞だとしても、紙面を指でなぞらなくては情報は読み取れないはずで、リョウにそのような動きは見られない。

 ただ、どうにもそうしたことはここではとても些細なことであるようだ。

 そして、見えるとか見えないとか生きているとか死んでいるとか、事の大小にかかわらず曖昧な空間は、今の私には少し居心地がいい。

 やれやれだ。

 後ろ向きだ。

 現実逃避だ。

 ほとんど何も知らないリョウに対して過去の影を見るのも、ただの幻影だ。

 そんなことはわかっている。

 わかっていて尚、もう少しだけ現実から目を背けていたい。

「ねえ、なんかすることない?」

 リョウはふう、と細長い煙を吐き出して、ねえなと短く返答した。

「皿とかコップとか洗おうか? て、洗う物もないか」

 店内には相変わらずごく小さな音量で曲が掛っていた。どうやらそれはリョウの趣味というわけではなく、この店の前店主が置いたままにしていった物らしい。

 私には珍しい、レコード盤。

 私はなんとか会話を続けようと話題を探す。

「この曲なんていったっけ?」

 さあと矢張り短い返答。

「さあって。知らないで掛けてるの?」

「知らなくても耳がありゃ聴ける」

「それはそうだけどさ。もう少し、なんていうかな。…会話しようよ」

 私のそんなぼやきに、リョウは両の鼻の穴から盛大に煙を出し、

「友達ンとこ行け」

 極めて素気ない。

 しかしそれはしようがない。

「それができるならとっくにそうしてるし」

 自分で話を振っておいて、私も何をかいわんやである。しかし、筋の通らないことをいっているのは重々承知で、それでも今いる空間を少しでもましなものにしたいと願うのは決して間違いではないと思う。

 リョウがため息をつきそうな顔をしていたので、先に大きなため息をついてやった。

「だってお客こないしさ。暇だよ」

 といってもここは一応酒を飲む店だ。

 小柄で色白、赤い頬をした私などがいては来た客は少し驚くことだろう。いっそのことメイドみたいな恰好してやろうか。いや、さすがにそこまでやるとリョウに追い出されるか。

 それだけは避けねばなるまい。

 私はリョウに興味がある。あの人と似てる似てないは別として、リョウの為してきたことに興味がある。

 真偽の別は今は考えない。

 とにかく私にはまだ、現実逃避が必要なのだ。

 曰く、逃げるな。そんな言葉は私には届かない。

 前を見ろ。

 下を向くな。

 振り返るな。

 目を背けるな。

 全部糞喰らえ。

 人ひとり生きていくのに、いったいどれくらいのパワーがいると思ってる。

 常に前向きでいるということはそんな貴重な力を発散し続けるということではないか。

 自分の殻に閉じこもる時間が必要な人間もこの世には存外多いということを知ってほしい。

 倒されてから再び立ち上がるのに掛かる時間は、ひとりひとり違う。その時間を見守っていてほしいなどと甘えたことはいわない。ただ、放っておいてほしいだけだ。


 私はリョウの横顔を見た。

 リョウは空ろの両目を中空に漂わせ、時折ぶつぶつと独り言をいっていた。

「リョウ。あの。ここで自殺したっていう」

「好きだなその話」

「好きっていうか、何度聞いても詳しく話してくれないから」

「知ってることは全部話したつもりだ」

 リョウは過去、自ら命を絶った女性を復活させた。

 その女性の自殺があった当時、死んだ女がうろうろしていただの、テレビに映っただの、妙な噂が立っていたのは事実で、当時高校生だった私も冗談半分で耳にして楽しんでいた。

 リョウにいわせると、その噂のあった頃その女が死んでいたのは事実であり、そして死んだ後に動き回っていたというのも、冗談ではなく事実であるそうだ。

 ただし、その出来事が生き返り云々とイコールであるかどうかは明言しない。

 死んで後再び動くことは、厳密にいうと生き返ったわけではないというのだ。

 その理屈は、まあわかる。

 そして今の私には、死んだ人間と今一度コミュニケーションをはかれるようになる(かも知れぬ)というだけで十分だった。

 冷静な分析も、科学的な検証も一切要らない。

 嘘でもいい、作り話でも何でもかまわない。

 所詮現実逃避なのだから。

 ただ、大雑把な妄想よりは、細部まで作り込んだ作り話のほうが逃避するにもうまくいくというだけだ。そしてリョウの話は、(リョウ当人の語り口調がざっくりしてはいものの)それなりに私の痛みを和らげる一助になっている。


 結局のところ、私がこんな場所にいる理由はそれだろう。


 …けど。


 本当に生き返るのなら全人生捧げるのも悪くない。


 気づくとリョウは料理をしていた。

 料理といってもどうせインスタントラーメンに刻みネギを入れただけのものだが、不思議と私が作るよりおいしい。どうしてだろう。見えないのに案外小器用になんでもこなす。

 そしてリョウはいつも、尋ねもせずに私の分まで作る。

「なんか手伝う?」

「間に合ってる」

「…でも、手、切ってるよ」

 リョウの左手に赤い血が滲んでいた。

 リョウは洗い流しもせず、じっと傷口を見つめ、

「これぐらいの傷、昔はすぐに塞がったんだがな」

 といった。

「え? なんか病気の話?」

 その問いに、応えはなかった。


 携帯電話が鳴った。

 母からだった。

 金切り声で今どこにいると喚いている。曖昧に説明するも、どうやらまるで耳に入っていないようだった。

 夜になっても帰らないくらいでそんなにパニックにならないでよとぼやくようにいうと、電話は父に変わった。

「…え?」

 血の気がひくというのは本当にあるのだな。

 血の気がひいて、眼球から血が失せて、視神経が機能低下して、だから目の前が真っ暗に


「…お姉ちゃんが殺されたって、何いってるの!?」


 私はありったけの声を上げて、電話に怒鳴った。

 切れ切れに、いつもは必要以上に冷静な父の、息切れだらけの言葉が耳に届く。


 …警察…


 …首…


 …腹…


 …失血…


 …男…


 …キャバクラ…


「こ…誰に…」

 私の問いに、父はまず質問をしてきた。

 蜜はお姉ちゃんが水商売をしていたのを知っていたのか?

 私は知っていた。知っていたが何だかとても怖くなって言葉を濁した。

「キャバの客に殺されたの? ねえ? そうなの、パパ!」

 電話の向こうで父は、苦悶に満ちた嘆息を漏らした。

 混乱は増すばかりで、とにかく私は電話の向こうの父に質問を浴びせ続けた。

 そのひとつひとつを丁寧に答えて後、父は短く早く来いといった。

 私は素直にそれに従った。


 リョウからはひと声もなかった。



 *


 駒場と名乗った菩薩顔の男は公平の部屋の窓際に立ち、ガラスに残った子供の手の跡を暫時眺めた後、

「深夜ゴム毬で遊んでいた子供が、今度は一軒一軒ノックして探して回っているのでしたね。ほかならぬ、」

 貴方を、と公平を指差す。

 公平は一瞬むっとするが、今や依るべきものは眼前の男しかいないのだ、露骨に厭な顔もできなかった。

 矢鱈と骨格のしっかりした、筋肉質の男だ。開いているのか閉じているのかわからない目のせいか常に笑っているように見え、そのせいだろうか奇妙な安心感を与えてくれはする。

 公平は何か飲みますかと訊いた後、自分は煙草に火を点けた。

 駒場は柔らかい口調でお構いなくといい、尚も窓とそこから窺える外を凝視していた。

 時刻は夜の十時。

 実は公平は見たいテレビドラマがあったのだが、流石にテレビを点けるのは憚られた。とはいっても決して余裕があるわけではない。実際は今すぐにでも逃げ出したかった。ただ、駒場の持つ妙な存在感に呑み込まれるように依頼をしてしまった手前動けずにいるだけだ。

「どうして貴方なのです? 何かそのお子と因縁でもお有りで?」

「インネンて。そんなの知らないっすよ」

「まるで思い当たるところがない?」

「…いや、ううん。強いていうなら、毬突きをしてんのに気づいて何日目かな。俺、酔っ払ってて。よくは覚えてないすけど、遊んでやろうかとか何とかいったような気がします」

 本当に思い当たる節はそれくらいしかない。そしてそれとて、原因を必死に考え、無理矢理ひねり出した話だ。そんな、お愛想のような一言でここまでの思いをしなくてはならないのなら、公平はきっとこの先一生言葉を発さなくなることだろう。

 駒場は成程といって、窓の桟に片手を掛けた。

 かなり身長が高い。

 しかし物腰や表情が柔らかいせいか威圧的な印象はあまり受けなかった。

 公平はかぶりを振った。

 恐怖に慄く自分は常に中心に居座っていてそれはとても不快だ。

 俺はもっと揺るぎのない男なのだと、この期に及んで思おうとしている。本当の餌場木公平は、ただの不可解な音に戦々恐々としている小心な男だというのに。


「本当に助けてくれるんですよね?」

 無料で。

 公平は窓際に佇む男の背に声を投げた。

 駒場は振り向くことなく勿論といい、

「私は本物ですから」

 と意味深長な言葉をつなげた。


 それから二時間、小さな部屋で男二人は無言で過ごした。

 公平が沈黙に苦痛を覚え、箱に残った最後の一本に火を点けようとしたその時


 どん!


 凄まじい音。

 最早ノックなどではなく、丸太か何かで突き破ろうとしているような


 どん!


 がたがたと家具が揺れる。

 公平は下唇に煙草を貼り付けたまま、駒場を見た。

 駒場は穏やかな相好を崩すことなく、懐から矢立を取り出した。

 さらさらと紙に何か書いている。

 見ればそれは漢数字だった。

「餌場木さん」

「はい」

「鰯の頭も信心からなどというでしょう」

「は?」

 駒場は漢数字で廿一と記した紙を公平に寄越し、

「これは気端の利くモノです、持っていて下さい」

 なにをのんびりと珍妙なことをいっているのだ。

 そうしている間にもドアからは怖ろしい音が響いている。


 がちゃ! がちゃがちゃ!


 ドアノブを回す音。

 怖ろしい。

 公平は震える手で警察に連絡しようとする。

「何をなさっているのです」

「何をって、警察呼ぶんですよ、こんな夜中にドアを開けようとしてる!」

「おやめになったほうがいい、恥を掻くだけです」

「恥?」

「確かに今、ドアから物音がしています。ですがそれも時が過ぐればその事実の有無もあやふやとなる。例えば」

 公平の手に持った廿一番の紙が意思でもあるかのように動き出した。

 公平は短い悲鳴を上げてそれを手放した。

「この事実。一夜明くれば眼前にした貴方ですら夢かうつつか区別がつかなくなるでしょう。それほどに怪異とは有りも無しも境の曖昧なるもの」

 つかつかと駒場は玄関まで歩いて行き、

「見らず想像する故苛まれる!」

 派手に鉄の扉を開け放った。

 公平はぺたりとその場にへたり込み、ああと嘆息を漏らした。


「みーぃっけ」


 膝の皿が矢鱈に突き出た、ざんばら髪の子供。

 短パンのポケットにはたくさんの枯れ葉。

 脇に黄色いゴム毬を抱えている。

「何を怖れることがあります。ただの子供ですよ、餌場木さん」

「た、ただの子供がこんな時間にいるわけないじゃないですか…」

 しかし子供です。

 まるで動じたところのない駒場は先と同じように紙に何かを書きながら子供に近寄ると、

「見たならば固定する。これは子供です。それ以外の何物でもない。貴方のように幽霊であるとか、」

「幽霊だなんて、俺は一言も…」

「あまつさえ妖怪であるとか。それは妄想と切り捨てなされるがいい。そんなモノはこの世に存在してはならない!」

 その線引きをいったいどこですればいい。そんな弱々しい公平の思いをよそに、駒場は更に子供に近寄った。

 子供は、


「お前に用はない!」


 怒鳴った。

 昨晩と同じ声音だ。


 駒場は変わらず動じない。

 薄い笑顔を湛えたままだ。


 かさり。


 枯れ葉が一枚落ちた。


 よくよく見れば足も手も顔も血の固まったような黒い傷だらけだ。着ている衣服は泥だらけである。

 そして公平は、現実からの逃避行動か余計なことに頭を使う。

 もしや目の前の子供は虐待され、そして殺されたのではないか。

「そうだよ」

「ひ!」

 目の前に子供の顔があった。目といわず鼻といわず口といわず、子供の顔中のあらゆる穴から土がこぼれ落ちている。

 公平は仰け反る間もなく息だけが詰まった。


 なんだこの現実!?


 子供の手が伸びてくる。

 その手の汚いこと。

 爪の中は土で黒く、甲といわず平といわず煙草を押し付けたような火傷の痕が。水膨れが。


 ああ不味い。

 掴まれたら終わりだと、公平はそう思った。とその時、何かが公平と子供の間をすり抜けて行った。子供の注意がそちらに向けられる。するとまたもうひとつ違う何かが現れ、子供の襟首を掴むとコンクリートの床に思い切り叩きつけた。

 公平は思わず目を背けた。


 恐る恐る目を開けると、床にはなにもなく、先ほど駒場が数字を記した紙が二枚落ちているばかりだった。

「こ…駒場さん、いったい何が」

 そう問う公平はなにもしていないのに肩で息をしていた。

「貴方の悩みの種は消え去りました」

 駒場はもう笑ってはいなかった。

 ただ異常に伸びた背筋が、不健康を常としている公平にはとても異質なものに見えた。

「ど、どうやって…」

「貴方は悩みが取り払われた事実をこそ重視すれば良い」

「それは…でも、あの子供、」

 虐待じゃないですかね、あれ。

 それは何の証拠もない、公平の想像に過ぎない。

 幽霊とか怨霊とか自縛霊だとか公平はそうした区分をあまりよく知らないが、もし仮にあの子供が殺されていて、何かを訴えたくて現われていたのだとしたら、

「親か誰かはわからないけど。虐待されて殺されて、それで山にでも埋められたんじゃ?」

 そんなことを真剣に話す自分も公平には信じられない。

 しかし、目の前に子供の死体が転がっているでもなく、目に見えていたはずの泥も枯れ葉も何もない。

 駒場は床に落ちた紙二枚を拾い上げ、

「何を拾い、何を捨てるか、それは貴方次第」

 といった。

 公平は言葉の意味がわからないことを眉間の皺で示した。

「大切なのはあったかどうかも曖昧な出来事ではなく、今後の貴方自身に必要なものがなんであるのかということです。その、虐待云々の子供の話が、はたして今後の貴方に真実必要であるのか。選ぶのは貴方です」

「そ…それはそうだけど。でも、駒場さん、あの子供もしかすると可哀そうな子供なんじゃ」

「それはまた別な話」

「別?」

「私には私の役目が有り、この世の存在理由が有りましょう。以上を求めれば無理が生じ、以下に安んじれば不要となる。私はただ消す者です。仮にあのお子が本当に虐待を受けていたのであれば、それをどうかするのはそれこそ警察の役目でありましょう。私が手を出す問題ではない」

「そ…」

 そうなのかも知れず、違うようにも思える。

 正直公平の混乱は頂点を突き抜けていて、一切まとまった思考が結べずにいた。

 とにかく不格好な礼を駒場にして、公平は斜めになりながら部屋に戻った。


 本当にこれで良かったのだろうか。


 あの子供は誰かに助けを求めていたのではないだろうか。


 それを駒場はなんの躊躇もなく消し去ってしまった。妙な技を使って。


 公平は駒場に縋った自分の存在を忘れ、軽い憤りを覚えている。

 無責任で自分勝手な思いだが、眼差しだけはやけに真摯だ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ