11
長身の、毒気のない笑顔をした男だった。
リョウは何かを感じ、スツールからぶら下がっていた両足を床に付けた。
対峙するとリョウより頭ひとつ大きい。身体の幅こそ変わらないものの、矢鱈に姿勢がいいせいか実際の身長よりも高く感じられる。リョウの足元で寝ていた赤犬、猛者の目つきもやや鋭さを帯びている。
顔つきこそ聖人のごとくだがこいつは…リョウは身構えた。
「あんたは」
「申し遅れました、私駒場祐一郎と申します」
リョウにはまるで覚えのない名前だった。一方の駒場は、リョウの左腕を見ても眉ひとつ動かさないでいる。それだけで通常の来訪者でないことは知れた。
「用件は」
「ある女性を探しています」
「女?」
「潤目民子。ご存じでしょう?」
リョウはどきりとする。しかしその動揺は表層に出る前に騒がしい音にかき消された。派手に扉を開けて蜜が戻ってきたのだ。
「な、なによ。忘れ物とりに…」
誰も何も問うていないのにいい訳をする蜜を、駒場は半目になって見つめている。
「失礼ですが、貴女は?」
なんとも柔らかな耳触りのいい声音でそう問う駒場の手元がそろそろと動くのをリョウは見逃さない。
「雨居蜜だ」
蜜に代わってリョウが答える。
「アマイミツ。そう、なんですか?」
先ほどまで自分も居た空間の、この変わり様はなんなのだろう。空気が少し重たい。そんなことを考えながら蜜は一度リョウを見、そして長身の男を見た。
作り物のような顔をしている男だと思った。
好みの顔ではない。
「誰? リョウの知り合い?」
駒場は手に握った紙片の幾つかを指に挟んだ。
「私は彼を知っていますが」
蜜が感じた不穏な空気はどうやら眼前の男から発せられているのは間違いないようだ。蜜は再びリョウを見た。
「用が済んだらとっとと帰れ」
それは蜜に向けられた言葉。もとより蜜もそのつもりだったが、そのいい方がいかにも横柄だったものだから蜜もついつい意地を張る。
「帰りたくなったら帰るから。ほっといて」
すると駒場までもが、
「お帰りになられたほうが善い」
などというものだから蜜はますます意固地になって、リョウの席に置いてあった煙草をひったくると一服点けて見せた。噎せることこそなかったが見る間に顔が青褪めていく。リョウはちらとその様子を見ただけで特別声は掛けず、駒場の動きに神経を払い続けている。
「ウルメタミコの所在はご存じない?」
「ふん。こっちが教えてもらいてえ」
「そうですか。残念です」
いいながら駒場は音もなく横移動を開始した。
「余計な動きはすんな。黙って出て行け」
「残念ながら命令される覚えはない。ヒトであるならまだしも、妖怪である貴方に」
一枚、もう一枚と手に持った紙を床に落とす。まるで何かの儀式のようだ。その動きにいったいどのような意味があるのかリョウにも蜜にもわからない。ただ猛者のみが背中の筋肉を盛り上げ低く唸っている。
十四と十六。漢数字の書かれた人形の紙片。
咒いか。
「私はね、陵霊。件のウルメタミコに愛しい者を燃やされたんです」
リョウは実に静かに言葉を呑んだ。
蜜には駒場のいっている意味がわからない。ウルメタミコは放火犯で、などといった想像は多分見当外れのような気がしたのですぐに打ち消した。
「タミコに燃やされたってことは、それなりのなにかをやっちまったってことだろ」
日常会話でありえない内容はしかし、対峙するふたりの男の間で成り立っている。
そう。今やヒトではない件の女、ウルメタミコはおのれの善悪の基準のみを憑拠に悪を燃やす存在となり果てていた。
「なにか? なにかとは? いったいヒトがヒトを焼殺してもいいなにかとはいったい何だと仰られるのです?」
駒場は俄かに興奮しはじめている。彼の足もとのヒトガタは風もないのに揺れている。
「そんなもん知るか。だから俺は奴を探してる」
嘘だ。リョウはただタミコと会いたいだけだ。とはいえ実際、それほどまで積極的に探しているわけでもない。今のリョウは豪く中途半端で、何もかも少しだけ投げやりだった。
「探している? 待っているの間違いでしょう」
「どっちでもいいぜ、そんなもん」
リョウは蜜の手から煙草をもぎ取ると火を点け深くひと吸いして、ぽいと駒場の足もとの二枚に向け放った。
矢張り風もないのに紙片はゆらりと舞い、火種から逃げたようにリョウには見えた。
「呉々も妙なことはするな」
「しかし貴方は、ヒトには危害は加えないとそう決めてるのでしょう?」
どうなさるおつもりでと、駒場は少し大仰な仕草で空笑いをして見せた。
「私がどうしようもない悪党で、もしこの店を破壊しに来たのだとしたら?」
リョウはむっつりと答えない。そんなものは過去何度も自分自身に問うてきた問題であるからだ。そして未だに明確な指針は得られていないままだ。
「どうなさるのです?」
「仮定の話をする気はねえ」
「そうですか。まあ確かに、私はこの店を壊しに来たわけではない。貴方に深い関わりのあるウルメタミコに激しい恨みを抱いているといえども、それなりに分別もあるつもりです。しかしそうした態度でいられると、流石に私も」
駒場は伏し目勝ちの目で蜜を見た。
「俺の態度が気にいらねえなら、俺ンとこに来い」
今にも亀裂が入りそうなほど空気が張り詰める。
蜜は身動きが取れない。
かさかさと紙のヒトガタが明らかに動いている。
「はは。ご安心を。私もヒトは襲わない」
「そうかい。それはいいことだ」
「ですが」
かさ。
「私の扱うモノは、時折私の抑制が利かなくなることがあります」
そのモノとは駒場の足元で先から不穏な動きを見せる二枚の紙きれのことだろう。リョウは勿論、猛者もそれに意識を向けたままだ。
「それは脅しか? あ?」
駒場の悠揚とした話し方が既に鼻につきはじめているリョウは、若干の怒気を孕んだ声音で言葉を吐く。その様子を更に泰然とした態度で眺めて後、駒場は矢張りゆったりとした口調でこういった。
「私は未だ修業の身。恋人を奪われたショックから力を得ることばかりに腐心し、力のコントロールは二の次にしてしまったんですね。これは脅しではなく、警告です」
警告。リョウはそうぼそりと呟いて、ばきりと奥歯を噛んだ。
「ナニサマだてえんだ、てめえ」
そのリョウの静かな激昂を、駒場は薄い瞼の動きひとつで制した。
「聞け陵霊。私はウルメタミコをこの世から消す」
「恋人の敵だからか?」
「邪魔はしないでもらいたい」
「させねえよ」
素直に聞き入れて貰えるとは思ってませんと、続けて駒場は口中何かを呟いた。
十四と十六のヒトガタが一度宙に舞い、猛者の周りを旋回しはじめた。
猛者は唸り声を発しながらその二枚を眼で追い続けるも、あまりに高速に執拗に廻るものだから、一瞬、ほんの一瞬だけ眼球がついていかなくなり、
「おい!」
リョウは床を蹴った。
ほんの一歩半ほどの距離だったが。
猛者の体はふわりと浮き、そして。
蜜のひきつけのような悲鳴。
リョウの全身が猛者の血飛沫でしとどに濡れた。リョウは一瞬にしてできた血溜まりに足を取られてもんどり打って地べたに転がった。
猛者の体は跡形もなく消し飛んでいた。
どうした方法を使ったのかはわからないが、二枚の紙片がそっと駒場の手の中に戻っていったのをリョウは見逃さなかった。
「てめえ」
「可愛がっておられたわけではないでしょう? あれは魔物だ」
魔物とは無論赤犬猛者のことであろう。
蜜が息を吸いながら酷いと呟いた。
「私は魔物を消すことに些かの躊躇もない」
蜜が半泣きの顔でいう。
「酷いよ! もさちゃん、いい子なのに!」
「いい子ですか」
「いい子よッ。マモノだろうとなんだろうと、あんたに命を奪う権利はない!」
「権利など無用。説明も釈明も一切する気はありません。特に貴女のような小娘には」
「なっ…」
駒場は細長い指の付いた手のひらを我が胸に宛て、まるで演じるがごとくに朗々とした声でいった。
「私は私の為すべきことを為すために存在している」
そしてやはり演劇のような仕草でリョウを指差すと、
「邪魔をすれば陵霊、貴方もこうなる」
リョウから血溜まりへ指を下げる。その間、一切蜜は顧みない。駒場には何の興味もない存在だからだろう。
「リョウ!」
リョウは血塗れのまま立ち尽くしていた。
「リョウ! どうにかしなよ! このままじゃもさちゃんが…可哀想」
駒場は手元に戻った紙の二枚をそっとしまうと、くるりと踵を返した。
「リョウ!」
「警告はしましたよ」
「リョオォッ!」
駒場は音もなく出て行った。
蜜は大きな瞳に涙を溜めて、
「馬鹿」
とだけ残して、やはり店を後にした。
ひとり残されたリョウは血塗れの顔を拭うこともせず、
「俺の迷いは多分…」
血溜まりの中から大きな牙をひとつ拾い上げた。