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自分の迷いは他人に不幸を喚び込む。
そうでなくとも過去、自分と関わってきた者は大なり小なり通常社会では考え得ぬ目に遭っている。中には、今では生死の別も定かでない者もいる。一度はそれでも責任を取ろうかと思ったこともある。ただその責任の取り方だが、リョウの偏向した知識の中をいくらまさぐってmみたところでぴたりと嵌まる解決策はてんで見つかりはしなかった。
ヒトに仇なす存在を滅却せんと今まで来たが、はたして消されるべきは自分のほうではないのか。それは未だに思っている。反面、身体の芯に熾火の如く燻っている一念は、矢張り今一度タミコに会わねばならないという思いであった。
望まぬまま超絶な力を手に入れた彼の女と、話を。
タミコは人を燃す力を持っている。
その力をどのような経緯で入手したのかはリョウなどにはわからない。ただその力が、到底常識的な方法で抗え得る類いのものではないということだけは十分承知していた。幸か不幸か今のところは、タミコはその力を無闇に行使することはなく、リョウに関わりを持った、それも悪行と呼べる行いを犯した者だけに向けられてはいた。
それがまたリョウを惑わす。
過去に関わった者のひとり、タミコがただ闇雲に人間を焼殺するだけの存在になり果てていたほうが、今のリョウの煩悶は軽減されていたかもしれぬ。
タミコの意思がどこにあるかはリョウには測れない。
タミコに正義はあるのだろうか。
生きているだけで害が生じる、そんな存在は在るだろう。自分がそうではないことを信じ、且つその横道は何故だかとても蠱惑的な匂いをもってリョウを誘う。
無根拠であろうとも自分は真っ当だと信じ、常に歯を喰いしばってこの穢土にしっかと両足を踏ん張っていないと息を継ぐ間もなく持って行かれる。だからリョウは、自分は正義であると常々自分にいい聞かせる。
足下に寝ていた猛者がむくりと顔を上げた。
リョウは露出していた左腕を隠すため上着を羽織った。
リョウの左腕には無数の目玉がくっ付いている。
本来あるべき顔面には赤黒い肉の露出した穴がふたあつ穿たれているのみ。
ぎい、と扉が開いた。
「お久しぶり」
リョウは眼球の嵌まっていない顔面のふたつの瞼を細め、薄く開いた扉の隙間から顔を覗かせた女を見た。実際女の姿を捉えているのは左腕に溢れんばかりに在る眼球群の幾つかであるが。
リョウは足下の赤犬の様子を窺った。
猛者は警戒はしていないまでも彼女の、どうやら後方を気にしていた。
「後ろに居るのは」
リョウは久し振りに訪れた(一応は)アルバイトの少女のような女にそう尋ねた。
「え? あ、えと、駅前で、この店に用があるっていうから。ついでだし」
「なにいいてえのかわかんねえよ」
悪態を吐きつつリョウは来訪した白ちっちゃい女の名前を思い出そうとしていた。
アツとかムツとかいったか。
蜜は日本人離れした雪のような白い肌に赤い頬を貼りつかせて、何か飲み物あるかとリョウに尋ねた。
蜜の後ろに隠れるようにして立っていた青年は酷く怖ず怖ずとしており、用事がある割には店の中に入ろうともしない。ただリョウにしても、そんな何処の誰とも知らぬ者に払う気遣いはない。本当に用があるなら厭でも口を開くであろう。
案の定青年は、やや蜜に促される格好で口を開き、先ず餌場木公平といいますと姓名を名乗った。知らない名前だったが、どうやら青年のほうはリョウを知っているようだった。
「どこかで会ったか?」
多分自分と同じくらいか、少し上くらいだろうか。どうでもいいことであるのに、どうして他人の年齢を気にしなくてはならないのか。リョウは不図自分に問う。普通の人間もそういうものなのだるか、と。
まるで一般的な社会性というものを身につける機会のなかったリョウは、おのれの発する言葉に気を遣う。気を遣うが所詮語彙が少ない上、大概会話の途中でその気遣いが億劫になってくるので自然とぶっきらぼうな粗雑な口調になることが多かった。特異に過ぎる風貌に加え、受け答えがそれでは相手に脅威を抱かれるのは明明白白である。
実際公平は少し戦いているようだ。
「ちょっと、コーラもなんもないじゃん」
冷蔵庫を覗いていた蜜が不機嫌そうな声を上げた。リョウは特別なにも返さない。
もさはちらちらと公平を気にしてはいるが、どうやら害なしと見たかふんと鼻から息を漏らして再び寝に入った。
公平はリョウの顔を正視することができず、天井や壁にいたずらに視線を飛ばしながら、
「こ、この店のことについて聞きたいのですが」
と、酷く小さな声でいった。
「悪いな、俺もそんなに詳しくねえんだ」
リョウは矢張りぶっきらぼうに返す。
「そうなんですか…いや、あの。むかしこの店の常連だった男なんですが」
と、公平はその常連客とやらの名前を挙げた。それは彼が個人的に調べた、あの子供を虐待死させた可能性のある男の名前だった。とはいっても一切何の確証もない。公平は自分のマンションの周辺の、病死も事故死も含めた、あの子供の霊と年齢の似ている男児の死亡記録を具に調べ上げ、自作のリストの上から順に虱潰しに当たっているだけだ。
今調べている男も過去、公平のマンションの周辺に暮らしており且つ年格好の似た子供を亡くしている。記録には病死とあった。
リョウは再び知らぬと答えた。
公平は怖れながらも対話者の様子を観察した。
なんとも胃の腑の重くなるような独特な存在感を放っているものの年齢は自分とそう変わらぬようだ、と。
「…あなたはこの店の?」
「あ?」
「…いや、あの…」
言葉尻を濁したのに意味はない。しかしリョウには伝わらなかったようだ。
リョウは煙草を吸った。
公平は何故か、そのリョウの煙草を吸う様に視線を送る蜜の様子が気になった。
「なんでその男のこと調べてる?」
「…え? いや。まあ、ウン」
またも公平は言葉を濁す。その裏には、いっても信じてもらえぬだろうという諦観が多分に含まれていた。そしてそれ以上に、他人に奇異な目で見られるのが厭だった。たとえこの先再会することのない人間であったとしても、公平にとって他人に好奇の眼差しを向けられることは何物にも替え難い苦痛なのだ。
「…ええと、あの。知り合いの…ってもそんなよく知った知り合いではないんですけど…」
「前置きはいいよ」
「…或る男の子がですね、どうも親に虐待されて亡くなったというか殺されたというか」
虐待死。それとて何等確証のない話。しかし公平の中では既に過去の事実として確定しているようだ。
「僕はまあ、その子を殺した犯人を探しているんです」
蜜は床に目を落としている。なんとも様子がおかしかったが、それを気に懸けてやるほどリョウは蜜のことを知らなかった。
「その犯人とやらがこの店の常連だったと」
「そ、その可能性があるっていう、その程度のものです」
のべつはっきりしないものいいに、リョウは少し苛立ちを覚えはじめていた。
「そうかい」
然して興味もなさそうにリョウは下唇を突き出して煙を吐きだした。手の指にできたささくれを毟る。
蜜はその不毛なやり取りをやや湿り気を帯びた目で眺めつつ、大きな溜め息を落とした。上着に隠れた、リョウの左腕の際立って大きなひとつがその姿を捉える。
公平はこれ以上居ても無駄と判断したかほぼ無声音でどうやら謝意を述べ、首だけで会釈して後ろ手に扉を開け静かに出ていった。
「なんであんなの連れてきた」
「あんなのって。だってこのお店のこと聞かれたし。別に危ない人じゃないじゃん」
「ふん」
蜜のいう危ないがどういったものなのかはリョウにはわからない。ただリョウには、公平のどんよりと濁った目がとてもまともには見えなかった。
なにか良くないモノを背負っている。しかし自分には関係のないことだと、リョウは煙草を揉み消した。
「…ねえ。前から聞きたかったんだけど、」
蜜は無意味に公平の出ていった扉に目をやり、リョウってさ目、見えてるよね?」
何故今このタイミングでその質問をするのだろう。あまり生身の女と交渉のないリョウは若干その脈絡のなさに戸惑う。
「見えてるでしょ?」
一方の蜜は無邪気なものである。くだらない質問をするということは、姉を亡くした傷は癒えたのだろうか。リョウは答える替わりにそんなことを思った。
「ねえってば。聞いてる?」
リョウの返答がまるでないのに業を煮やしたのか、蜜は半歩身を寄せた。
この娘、おそらく普通の感覚よりも対人結界の幅が狭い。リョウのような赤の他人でもそうなのだから、この娘の周辺にいる男友達などはことごとく勘違いすることだろう。
「聞いてるの?」
どうでもいい質問だろうに蜜は食い下がった。リョウはしばらく顔を下方に向けていたが、
「百目って知ってるか?」
「ヒャクメ?」
蜜は桜色の薄い唇をアヒルの嘴のように曲げた。どうやらそれが何らかの意思表示であるようだが、無論リョウには伝わらない。
リョウは鼻から息を漏らす。
そう。別に隠しているわけではないのだ。無用な面倒事や煩雑な説明を忌避する為に人目に曝さないようにしているだけで…
リョウは羽織っていた上着を脱いだ。
蜜の息を吸い込む音が聞こえる。
「…え? …目?」
目。目。目。目目目目目目目。目。
「そ、それは生まれつき? …病気じゃないよね」
「俺はヒトじゃねえんだ」
「どういうこと?」
「妖怪」
「…妖怪?」
正直蜜はどう返答していいかわからないのだろう。明らかに当惑している。しかしその目はしっかとリョウの左腕に注がれていた。作り物ではない、しっとりと潤いを含んだリョウの眼球群も蜜のあどけない顔を捉えている。
いいだけ無音の時間が流れ、薄暗い天井付近に一度蜜の空唾を嚥下する音が上がった。
「…で」
「…で? なにがだ」
「私にどうしろって?」
「どうもこうもねえよ。見えてるかどうか聞かれたから答えただけだ」
「そう、よね」
一見落ち着いた受け答えをしている蜜だが、実際は許容量を大きく上回っている故の、混乱を極めた故の冷静な対応である。血の気が引いてまともな思考回路が機能していないともいえる。
蜜は米噛みのあたりに浮いた汗の玉を手の甲でそっと拭った。
「妖怪って、人間に悪さするんだっけ?」
とても大雑把な質問である。しかしそれは漠然と正義を標榜するリョウの決意とそう違いがないのかも知れなかった。リョウは思わず笑ってしまった。
「なにがおかしいの?」
「いや。別にな」
「私は真剣に聞いてるのに」
「悪ぃ」
妙に居心地の悪い空気が漂う。リョウはそれを払うようにまた煙草に火を点けた。別に何かを待っているわけでも期待しているわけでもない。
蜜は床の一点を見つめながら、なにやら必死に考えている様子。
ややあって、
「さっきの人。エバキ? 私もあの人と同じ」
そう前に落とすようにいった。
「私もお姉ちゃんを殺した奴を見つけたい。見つけて…」
「殺したいか?」
蜜はこっくりと頷いた。
「殺して姉ちゃんが帰ってくるわけじゃねえだろ」
そういいつつリョウには、蜜の思いはすんなり理解できる。なにかを壊さなくては治まらぬ衝動というのはあるものだ。いいことではない。結局破壊欲求など、どんな世の中だろうと悪でしかない。只理解できるだけだ。
「やめとけ。多分もっと傷つく」
自分でもやや上滑りしている言葉を吐いていると感じている。リョウはそれを誤魔化すかのようにまた煙草に火を点けた。しかし火を点けただけで吸うでもなく、ゆるゆると立ち上る煙を見るともなしに眺めるばかりだ。
「私が傷ついたって、リョウには関係ないでしょ」
「そうだな」
「いわれなくってもわかってる。なにやったってお姉ちゃんは帰ってこないし、私の後悔だって癒されない。それでも…だからこそなんかしてないとどうにかなりそうなのよ」
「そうか」
「…なによその達観した感じ。ムカつく」
「ふん、達観だと?」
まるで程遠いとリョウは腹の底で、未練がましく諦めも悪く優柔不断な自分を笑った。自分で自分をどう思っていようと他人の目には別物に映るらしい。悩み続け、未だ煩悶と後悔と苦悩の日々を送っていても、おそらく他人の目には何事にも動じない虚像がリョウの実として存在しているのだろう。世の中どうやらそんなものであるらしいことはこのところわかりかけている。そして、それならばその虚の部分を巧く利用してやろうという強かさと計算高さをリョウは徐々に身につけつつあった。
蜜は酷く激昂して、
「わかったわよ! ひとりで探す!」
と叫んで出ていった。リョウは無論追いはしない。蜜がどうなろうと知ったことではない。リョウにはリョウのやらねばならぬことがある。
もさがリョウを見つめている。その黒い瞳はなんだかリョウを蔑んでいるように見えた。しかしそれはリョウの思い込みで、結局は自分の後ろ暗さを犬の目に投影しているに過ぎない。
扉が開いた。
リョウはてっきり蜜が戻ってきたものだと思ったが、それは違った。
「陵霊」