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 夜。

 外から聞こえる赤ん坊の泣き声に、もう夏も近いのだなと思い知る。

 日中の強い日差しに散々灼かれた土のにおい、日なたのにおいが緩い風に乗って仰向けに本を読む私の鼻に届く。

 本はもう何度目かも忘れた推理小説。

 筋立てだのトリックだのはあまり好きではなかったが、細かい設定がなんとなく気に入っていた。


 そろそろ復学の手続きをしたほうがいいのだろうか。

 半年ほど前に精神的に痛手を負い、とても無気力になってからほとんどの時間を家の中で過ごしてきた。

 友達からはメールをもらったり電話をもらったりするものの、何も、息をするのも億劫なまま今に至っている。

 親などはこのままうつ病になるんじゃないかと心配しているようだが、私本人は案外楽天的で、いつかどうにかなるぐらいにしか思っていなかった。実際いい加減引きこもり生活にも飽きがきていて、外に出たくなってきているし、欲しい物もちらほらあるからアルバイトもしなくてはなるまい。


 いや…まあウン。


 なんにしても部屋を、外に出るかと、私は立ち上がった。

 父の自慢のウォークインクローゼットから、去年の秋物のワンピースをひっぱり出してきて袖を通してみると、ただでさえ細かった体がさらに細くなっていた。

 姿見に映る自分の姿。

 天然の赤毛に白い肌、色素の薄い瞳、桜色の唇、小柄な体格。なんというか、北欧圏の中学生みたいだ。そばかすでもあれば完ぺきである。

 自他共に認める可愛い顔…鼻で笑う。しかし実際、私は学校でももてるのだけど、そんなもの結局私のお気に入りの男子に見初められなければ意味はないのだ。


 蜜が好きになる男って特殊じゃんとは友達の弁。

 ちなみに私は雨居蜜アマイミツという冗談のような名前の十八才だ。

 それはいいとして、特殊とはどういうことだろうか。

 私は確かに見た目であまり好き嫌いを判断することは少なく、なんというか、うまく説明はできないのだけど、その人の持ってる雰囲気を重視するところがある。ただその、雰囲気重視で好きになった男子を友達が否定しなかったことはない。

 選ぶ男の顔面偏差値が低い、と。

 どうしてあんなの好きになるの、と。

 蜜ならもっと上狙えるじゃん、と。

 上とはどういうことだろうか。

 いってる意味はわからなく、それでも私のことを気遣っている感じは伝わるから、私はその都度へらへらと笑って誤魔化すばかりだ。


 どうにも世の中平等社会を標榜してはいるけれど、目に見えないヒエラルキーは多々あるようだし、且つまた価値基準は人それぞれだ。格差があるのはある意味しようがないし、私はそれは必要悪だと思う。でも価値基準の場合、そんなものはみんな個人的なものに留めておくべきではないだろうか。他人に押し付けてはいけない。


 シルバーの指輪を何気なくいじる。

 私は半年前に辛い失恋を経験した。

 相手は大学の教授で犯罪心理学のエキスパート。本も何冊か出版してるくらいのインテリ。年齢はよく知らないけど上なのは確実で、白髪だったし禿げてもいた。煙草とコーヒー、それと革装丁の分厚い本だけで生きているような人だった。

 私は彼を闇雲に愛した。

 彼もまた、私を愛してくれたと確信している。

 私の人生でもっとも甘い、それこそ蜜のような数週間が過ぎ、そして、彼が死病に侵されていることが発覚した。

 私がその事実を聞き及んだ時点ですでに余命ひと月だったらしい。

 彼は大学を辞め、生まれ故郷に帰った。何度も何度も泣いて連れて行ってくれるよう懇願したが、どうしてもそれは受け入れられなかった。

 私は今も、彼の故郷がどこにあるのか知らない。

 結局はなんの力もないただの小娘であることをいいだけ痛感した出来事だった。

 そして昨日、友達からの連絡で彼が逝ったことを知らされた。余命ひと月からずいぶんと頑張ったものだ。不思議と涙は出ず、漠然とした不安と補いようのない寂寥感と、私の半分を失ったような喪失感に苛まれた。

 はっきりと別れを告げられてはいないだけに、そうした気持ちになったのだと思う。


 ふと顔を上げると、鏡のなかの私は泣いていた。

 ああ、ひとはこのような顔をして泣くのだなと他人事のように思いながら見つめていると、後から後からとめどなく涙があふれてきて、やがては私は、顔を覆い膝を折って声を殺していいだけ泣いていた。

 やっぱり無理矢理でも一緒に行けば良かった、とそう思う。

 生まれ故郷とはいえ、あの人は寂しく逝ってしまったのではないか。それを思うと胸の奥から次から次へと哀しみが溢れてくる。

 死者の気持ちなど死者にしかわからないというのに。

 いいだけ泣いて立ち上がって、私は羽織る物だけ持って家の外に出た。

 眼は痛かったが宵闇をわたる風は程よく乾いていてとても頬に気持ち良かった。どうせ今日は父も母も戻らない。隣県で一人暮らしをしている姉もこの二週間ほど顔を見せていない。つまりは私は今日、出歩こうが何しようが誰も気に留めないのだ。

 なんにしても、久しぶりに夜の町を徘徊するのも悪くない。

 最近は私の住む石動町も治安が悪くなりつつあるそうだが、それでもたかが知れてる。せいぜい中高生がコンビニの前でお酒を飲んで騒いだというくらいだろう。

 但し、数年前に駅前で起こった原因不明の爆発事故は怖かった。

 まだ赤ん坊が泣いている。

 はたしてどこの家だろう。

 近所にそんな若い夫婦はいただろうか。

 私の住んでいるのは昔からの住宅地で、隣近所皆顔見知りだ。だいたいがウチと似たり寄ったりの家族構成と年齢だったと思う。もしかすると出産で里帰りしている娘さんがいるのかもしれない。つらつらとそんなことを考える。

 子供はまだ欲しくないけど、なんかそういうのっていいなと思う。

 次第に遠ざかる赤ん坊の声を聞きながら、私は当て所もなく歩いた。

 今の時間では駅近くのカフェも閉まってるだろう。

 とりあえずは人通りを求めて商店街のほうへ足を向けた。

 と、後ろから物音した。

 少し神経を向けると、すぐにそれは自転車だと知れた。気持ち路肩に寄り、顔の向きをやや道路側にし、自転車の様子を横目で確認した。半年ほど世の中と関わりを絶っていたが、流石にその程度の警戒心は残っている。

 自転車に乗っていたのはシーズーみたいな顔をしたおばさんだった。とりあえずは警戒を解く。刃物を隠し持っているかもしれないなどといった、そんな低い可能性までは考えない。なんとも中途半端な警戒である。

 シーズーおばさんは何か空中に毒づきながら颯爽と私の横を通り抜けて行った。残り香がトイレの芳香剤を想起させた。


 あの人は通り魔の心理を熱心に研究していた。

 人が人を殺す理由を延々と。

 小娘の私にはあまり興味のあるテーマではなかったけど、その考察を熱っぽく語る彼の口元が大好きだったから、私は彼によく研究の話をせがんだものだ。


 月は明るい。

 雲の流れが速い。

 このままどんどんと夏になっていくのだろう。

 随分とゆっくり歩いているつもりだったが、早くもふくらはぎに張りが出てきた。高々半年の厭世生活でまったくいやになる。やはり引きこもりなどするべきではないのだ。

 その後何度か道を曲がったと思う。

 気づくと薄汚れた路地裏に入り込んでいた。

 お酒のケースとポリバケツ、用途不明のワイヤー入りチューブ。まんべんなく広がるゴミと砂埃。自動車はおろか人すら通るに危うい道だ。その裏路地の有様に気づいてすぐ、これはまずいなと思った。こんな場所では誰かに何をされても入り込んだ私の不注意だろう。それはそうなのだが、石動町にこんな悪所があったろうか。

 ひとつ、看板が目に入った。

 石…たたみ…石畳、か。なんとなく聞き覚えのある店名だった。

 どうやらバーのようだが、営業しているのかいないのか判断がつかない。いずれにせよ未成年の私には関係のない場所だ。別に優等生ぶるつもりはなく、わざわざ無理して法を犯すほど物好きでもないというだけで、そもそもお酒も好きではない。

 ただ、小さな看板の傍にでん、と止められた白いビッグスクーターには強い興味を持った。

 うん、白も悪くない。二つ目も可愛いかもと屈んで眺めていると、鞄の奥底が細かく振動しているのに気づいた。

 携帯電話だ。

 姉からだった。

 姉からメールがくるのは極めて珍しい。

 別に姉妹仲が悪いわけではないが、顔を合わせても特別会話はない。趣味も生き方も箸の持ち方も違う、顔も背格好も声もまるで似ていない。それも仕方ないのかもしれない。

 メールの内容は不可解なものだった。


 いわ


 その一言。

 レスを送ろうにも意味がわからなさすぎてどうにもならない。

 そういえば過去、酷く酔っ払った姉が当時の彼氏と間違えて電話をかけてきたことを思い出した。姉は隣県で水商売をしている。生きることすなわちお金を使うことな人だから、そうした商売が一番手っ取り早いのだろう。

 結局レスは何も送らない。

 大事な用であるなら重ねてメールしてくるか、直接電話してくるだろうし、どうせ誤送信なのだ。


 ぎい、とバー石畳の木戸が開いた。

 私は別に悪いことをしているわけでもないのに咄嗟に携帯電話をしまい、顔を伏せ上目遣いに戸口に目をやった。

「あ、可愛い」

 顔を覗かせたのは精悍な顔つきの豆芝だった。

 一度私に目をやり、ふかふかと外気の匂いを嗅ぎ、くしゃんと実に愛らしいくしゃみをしてまた顔を引っ込めてしまった。私はそれにつられて店の中を覗いてみた。薄暗い店の奥にぽつんと灯かりが灯っていた。

 誰かいるのだろうか。

 近づいてみると案外店の外観は綺麗なものだった。ドアノブのところに準備中の札も見える。今日がたまたま休みなだけで普段は営業しているのかもしれない。

 それにしても石畳、どこで聞いたのか。

 友達との会話でその店名を耳にした記憶はあるのだが、はたして内容までは思い出せなかった。どうにも消化不良な感じで気持ちが悪い。

 閉まりきっていないドアの隙間から男の声が漏れ聞こえてくる。正確な内容まではわからないが、切れ切れに届く単語から類推するに、どうやら私の話をしているようだ。

 そんなに怪しい人物に見えたのだろうか。

 いや、待て。

 私の様子を覗いたのは人ではなく犬だろうに。

 断絶期間半年でその認識のズレはまずい。私は無意味に慌て、勢い店のドアを開けた。どうしてそうしたのか、そうしてどうするつもりだったのか、きちんと考えがあっての行動ではない。

 人がいた。

 男が一人、陰鬱そうな面持ちでカウンター席の一番奥に座っていた。

 私は店の中に入った。

 外気はそれほど低くないというのに、店内のコンクリート床はとても冷え切っていて、いやな冷たさが靴下を履いてない足にじんわりと伝わってきた。

 なんで私は店に入ったのか。

 鼻孔に届く匂いでわかる、男の吸っている煙草の銘柄が彼の吸っていたものと同じだったから。多分その程度のもの。

 男は私を見るでもなく、

「今日は休みだ」

 と実に抑揚のない声で告げた。

 当然私はそれを理解している。そもそもがどうしてここに立っているのか自分でもうまく説明できないのだ。

 私はとりあえず謝った。

「あの、犬が可愛かったもので、つい」

 男は無言で煙草をくゆらせている。相変わらず私に一瞥もくれずに。

 薄暗くていまいちわからないが声の感じといい、結構年若いのではないだろうか。しかし栗色の前髪が邪魔で表情はほとんど読み取れなかった。

 なんとなく堅気には見えなかったが、なんというか危険な感じも受けなかった。

 ただそれは勝手な思い込みだ。印象に過ぎない。それこそ危険だ。

 けど…。

 私は男の手元を見ている。

 特別珍しくもない、有り触れた銘柄の煙草。

 家族は誰も煙草を吸わない。友達にも不思議とその銘柄を吸っている者はいなかった。

 そんな単純なものにほんの少しだけ運命的なものを感じたのだ。どうかしてると誰かにいわれても抗弁の余地はない。

「あの…」

「用がねえなら出てけ」

 用はないが男の尊大な態度が気に障った。だからといってどうするということはない。

 気づくと犬は男の腰掛けたスツールの真下でじっと私の顔を見ていた。

「犬…」

 男はアルマイトの灰皿に煙草を押し付けた。

「それとも何か用があるのか」

 そういった男の両目は、ただの空ろだった。私はなんだか見てはいけないものを見たような気がして思わず目を逸らした。その反応も行動もまるで無意味だろう。

 なにか言葉を返さなくては。私はそう思っている。別にそんなことせずとも、おとなしく店を出れば済むことなのだが。

「…あ、あの。ええと、そう。アルバイトとか雇ってないかなって思って」

 不意に男の肩越しに、天井からぶら下がるロープが視界に入ってきた。

 ホームセンターにしか売ってなさそうな太いマニラ縄で、末端にはティアドロップ型の輪ができている。

「ああ…ここ」

 そして私はやっと思い出した。

 ここは、この石畳という店は、数年前に若い女が首つり自殺をした店だ。

 当時、もともと静かで起伏のない町である石動でのその自殺事件に、虚実入り混じった噂が飛び交ったものだ。一部の口さがない連中に、その女は自殺後死体が盗まれただの、生き返ってあたりを徘徊しているだの。まるであり得ない尾鰭付きで語られた、その発端となった店なのだ。

 私は自然ロープから目が離せなくなった。

 男は空ろの目を私に向けることなく、

「あんた、地元かい」

 と尋ねてきた。

 私は無言で頷き、続けて小さくハイといった。

「悪趣味だろう、こういうのは」

「え。あ。あの。そのロープってやっぱり」

「いろいろと縁のある女でね」

 少し寂しそうに男はそういって、未練だなこうして待ってると繋げた。

 酷く聞き難い声。そもそも根掘り葉掘り聞く必要もないのに、私はいやな焦燥感に苛まれている。

 多分私自身が欲しているのだ、目の前の男との会話を。

 犬がじっと見ている。黒い眼と黒い鼻、その三点の黒が視界の隅から私に奇妙な圧迫をかけている。多分それは気のせいだ。

 今頃気づいたが、店内には音楽がかかっていた。

 音量が小さいため切れ切れに耳に入ってくる。

 ジャズか、ロックか。

 ロックかな。

「そ…その方ってちゃんと…ちゃんとじゃなくって、その、死んだんですよね…」

 私がそういうと男は笑った。陰険そうな第一印象とは裏腹に随分と屈託のない笑みだった。

「聞いたよ。タミ、ああ、自殺したのタミコっていうんだが。タミが死んでからあることないことこの界隈に広まっていたんだろ」

「え。はい。あの…死体が消えた、とか歩き回っていた、とか」

 アハハと続けて笑う。我ながら乾ききった愛想笑いだと思った。

「たちの悪い冗談ですよね、ほんと」

 男はそれには何も返さず、ただ黙って煙草に火を点けた。

 私は思う。ここで自殺したのは、男の恋人なのではないかと。

「本当、たちの悪い冗談です。残された人間の気持ちを考えていない、酷い冗談…」

「いや」

 煙気とともに男は私の言葉を否定した。

「冗談なんかじゃない。すべて本当だ」

「え? 本当にあった話、なんですか?」

 私の問いかけには答えない。

 犬がへらっと舌を出す。

「猛者」

「もさ?」

「その犬の名前」

「突然いわれても」

「知りたそうに見えたから」

 すると男は掛ければいいと顎で空いている椅子を示した。

「あの…」

「リョウだ」

「はあ。リョウさん。目が不自由なのでは?」

「まあな。見てわかるように俺には顔面の目がない」

「顔面のって…そうですよね。失礼しました」

 私はいわれるまま空いているひとつに浅く腰かけた。

 無意味に犬の眉間をコリコリと掻いてみる。もさは再びへらっと大きく赤い舌を覗かせた。

「あの、どうしてそのロープ片づけないんですか?」

 私だったら恋人が自殺した事実を喚起させる遺物など一切目に入る場所に置かない。綺麗さっぱり消去して封印して、甘ったるい思い出だけに縋って生きるのだ。

「別に意味はない。片付けるのが面倒なだけだ」

 嘘だ。私は勝手にそう思っている。

 そういえば。

「あの、さっき、ええと、死んだタミさんが生き返ったとか…」

「いったな」

 私は気持ち前のめりになり、

「それは本当ですか」

 尋ねた。

 その時の私は、少し現実離れした話に逃避したかっただけで、実際リョウの話を信じていたわけではない。信じさせてとは願っていたが。

「どうだろうな。生き返ったのかどうなのか。ただ、死んでいたのがまた動き出したのは事実だ」

「どうやって」

「なにがだ」

「どうやって生き返ったんですか」

 ほんの少しだけ熱をこめて私がそう問うと、リョウは軽く顎を上げて、なに民間療法だよといった。意味がわからなかった。私の非現実的な思いはすぐさま萎え、今度はもさの頬を両手に挟みながら、

「それでアルバイトは」

 と違うことを訊ねた。我ながら散漫とした問い掛けだと思う。

 リョウは手は足りてると素っ気なくいった。店の様子を見るにそうとも思えない。ただ、そもそも自殺のあった店。自殺に使ったロープもそのままの状態で、はたして客は入るのだろうか。それこそ余計なお世話か。

 私は食い下がった。

「バイト料はいらないです。私も社会復帰のリハビリがしたいだけだし」

 半分は本当だが、実際お金は欲しい。

 どうしようもない与太話とわかっていても、やはりどこかで死人が生き返った話が引っ掛かっている。

 リョウは凛々しい眉を奇妙に曲げ、

「そうまでして働きたいなら別なところを探せばいい」

 と、実にもっともなことをいった。

 多分私は目の前の盲目の男に亡き彼を重ねている。顔はちっとも似ていない。背格好も近くはない。声も違う。ただ吸っている煙草と、笑った時の雰囲気が少し似ているだけだ。

 それこそそんな男、世間にはごまんといるはずだ。

「そのかわり私も、来たい時だけ来て勝手に手伝って勝手に帰るから」

 勝手な申し入れだ。

 そしてこの言葉は、私が彼と付き合うようになったきっかけの言葉でもある。

「ふん。それじゃあ来た時は精々便利に使わせてもらおう」

 私はリョウのその言葉に気が遠くなるような感覚に襲われた。


 とりあえず今日は帰れといわれるまで私はぼんやりと座っていた。

 リョウは家までもさを付けてくれた。そのへんの男よりもよほど頼りになるのだそうだ。

 わかっている。

 仮にリョウに興味がわいたのだとしても、所詮は彼の代替品。私の心の傷が塞がるまで、私が私の中だけで勝手に盛り上がっていればいいのだ。

 もさにここでいいからというとこちらの言葉がわかるのだろう、もふと頷くように一声吠えて小さな守護者は来た道を軽快に引き返していった。

 物凄く不思議な体験をしたような気になっているが、それは半年間人付き合いをほぼ絶っていた私だからそう思うのかもしれない。

 明日の夜、あの店を再訪してみれば今のこの気持ちがどういった種類のものなのかある程度判別がつくだろう。

 とにかく今日は疲れた。

 親は帰らない。

 シャワーも浴びずに寝よう。



 その夜姉が殺された。



 私がそれを知るのはまだ先のことである。



 すべての歯車が狂い、狂った位置でまた廻りだす。

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