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「おいおい、いい加減起きろって。」
シュンがリョウ越しにミリアの頭を軽く小突く。出発以来、ずっと頭を下げて震え続けているのである。
昔遊園地に連れて行った時に、ジェットコースターをやたら怖がっていたことをふとリョウは思い出した。しかし飛行機は既に安定気流に入ったのか、揺れはないし、窓の外の風景も美しい。
「外見てみろよ、雲の上だぞ。」ミリアにこの風景を見せたく、そしてその感嘆の様子を見たく、シュンはミリアの背を揺すぶった。
「……そんなの、信じない。」足下からもごもごと答える。
「お前な、ずっと屈んでて腰痛くなって、ライブでヘドバンできねえとか許されねえからな。」リョウまでもがそう不満げに言った。
「ヘドバン、できる。これっきし、平気だもん……。」
「……うわあ、すげえな。ほら、ミリアマジで見てみろって。外、雲が綿あめみてえだぞ。ここ、天国かもしんねえぞ? ほら、よーく探してみたら、どっかに死んだばあちゃんとかいるかもしんねえ。」
「ばあちゃんいないもん。」相変わらずもごもごと答える。
シュンは、まずいことを言ったとばかりに肩を窄める。
「ばあちゃんはいねえけど……、園城さんどっかで笑ってるかもな。」リョウがぷつんと呟いたのと同時に、ミリアはゆるゆると上体を起こした。そして恐る恐る窓の外を見、「うわあ。」と溜め息のような感嘆のような声を上げた。
「わあ! 外、綿あめ! 真っ白のふわっふわ! 何これ、雲?」
「ほーら、だから言ったじゃねえか。」シュンがそう言って満足げに椅子に凭れた。
「うわああ。見て、リョウ。」
「俺はさっきから見てんぞ。」
ミリアは今まで一体何だったのかと訝る程に窓にしっかとへばり付くようにして、外を見始めた。
「ミリア生きてるのに、雲の上を飛べるの? 雲の上は天国でしょう? 何で? 凄い……。」
そこに前方からCAがトレイに並べた昼食を運んでくる。
「わあ、……お外出たいな。ちょっとだけでいいから。そこ、すぐこの下、ぴょんぴょん飛び回らせてくれないかしら。」
「ぴょんぴょんは、ねえな。スットーンって、一万メートル真っ逆さまに落ちて地面に激突して終ぇだ。」
「そうなの? でも猫ちゃんはどんな高い所から落っこちても大丈夫なのよ。知ってる? 塀の上とかから落っこちる時、くるって回って、ピタって止まるの。運動神経がいいから。……ミリアはダメかもしんないけど。ああ、猫ちゃんとここでぴょんぴょんして寝っ転がって、そしたら楽しいだろうなあ。雲の上だから毎日晴れよね。いいなあ。ミリア、ここで暮らしたいなあ。」
「ライブどうすんだよ。」
「お客さんもここ来て見ればいいの。でも、ふわふわだと足元がしっかりしなくってヘドバン難しいかなあ。ころころ転がっちゃうわね。あ、でもダイブは簡単そう! どんなに飛び跳ねても怪我しないし。っぴょーんて飛んでって、とってもたのしそう! ウォールオブデスはどうなるかなあ。真ん中で激突しないでこっちもっぴょーんって飛んでっちゃいそう。うふふふふ。……やっぱりライブは地上がいいわね。」
ミリアは満足したように背に凭れかかると、目の前の昼食に一瞬驚いて、「ご飯だ! 突然ご飯が出てきた! やっぱし天国だわ!」と呟き、再びうっとりと外を眺めた。「ああ、新婚旅行は楽しいわね、リョウ。」
リョウは飲みかけの紅茶を噴き出しかける。ミリアは有無を言わせずリョウの腕に自分の腕を絡めた。
「わーかった。だからみんな新婚旅行は飛行機乗って行くのね。そうよね。お外は天国でふわっふわのキラッキラだし、ご飯は知らない内に目の前に出てきちゃうんだから。新婚にはまるでぴったりだわ。」
ミリアはうっとりと溜め息を吐き、再び窓の外を眺めてどうしようもない笑みを口の端に浮かべた。バッグの中から招き猫を取り出し、片手で猫を優しく撫でながら、純白の雲をじっと眺めた。
リョウとシュン、アキは昼食後暫く惰眠を貪ったが、ミリアは昼食こそリョウにせっつかれてどうにか食べたものの、食事が終わると、じっと窓に張り付くようにして外を見詰め、僅かにも飽きることがなかった。
それにしてもどこまでも真っ白な雲が続いている。これは、まさに天国だ。ミリアは一人固く首肯する。
園城さんはきっとここのどこかにいて、雲に身を委ねながらたまに下界を見下ろしては、自分たちの活動を見ているのだ、とミリアはそう思った。それは幸福な、というよりは沸々と己の内からエネルギーを沸き出していく想像であった。
ミリアは隣で眠っているリョウのジーンズのポケットに、そっと手を触れてみる。そこには園城のピックの入っていることを知っている。ジーンズ越しにピックを撫で、ミリアは心中「初の海外公演、絶対に成功させてみせます」と決意を込めて頷いた。
園城は偶然に天国へと旅立ち、リョウは偶然に生き延びた。それはたしかに偶然によって左右されたものとしか思えなかった。どちらも同じ病に伏し、しかしメタルを愛し、どちらもライブに行くことを心の支えとしていたのである。
神様は一体何を思って園城を天国に呼び寄せてしまったろう、とミリアは純白の世界を見詰めながら、茫然と考え出した。園城もリョウも一緒に生きられたら、もっともっと楽しかったのに。音楽の楽しさとそれからたくさんの夢を語り合うことができたのに。
死とは結局、何なのだろう。神は誰を死なせ、誰を生かそうと思うのだろう。ミリアの胸中には、昔教会で見たキリストの生涯を描いた絵本が思い浮かんだ。神はどんな時でも人間を愛し、そして過ちは犯さないという、だとしたら……?
結局神は誰かを幸福にし、誰かを前向きに歩ませるために、誰かを自分の居所に召喚するのかもしれない。父親を召喚することで、自分とリョウとを邂逅させ、バンドを完全体とし、自分と観客に人生の喜びを与えてくれようとしたのかもしれない。それから園城を召喚することで、やはり同じくバンドを海外で活躍するビッグバンドにしようとしたのかもしれない。まだ見ぬ精鋭たちのため、リョウの夢を叶えるため。リョウは園城の死があったからこそ、真剣に海外への道を歩みだそうとしたように思えた。そして、曲においても死をもっと重く、もっと圧倒的存在感を有するものとして描くに至った。だとするならば、やはり神は人を愛し、人を幸福にしてくれるために働いているのだ。ミリアはそう勝手に納得した。
しかしその時、ふと、同じく死した自分の父親はどうしているのだろうかと思い成した。今や血の繋がりがなかったということは明らかになったが、六歳まで共に過ごし、つい最近まで実父だと思いなして生きてきたのである。だから未だ、父と言えばあの顔が即座に思い出される。あれによって齎された、忘れようとしても忘れ得ぬ地獄の日々も同時に――。あの人もこの雲の上のどこぞにいるのだろうかと思えば、ミリアの心は澱んだ。まるで何も考えたくなくなるのである。
しかし、もしかすると、自分が血を分けた子ではないと知って、ああいう振る舞いをしていたのかもしれない、とミリアはふと思った。
ある時、自分に似ていないと気付いたのだろうか、それとも母親から別の男の子だと聞かされたのだろうか。それともそんなことは一つも関係なく、ただ自分が憎たらしくて仕方がなかったのであろうか。しかし写真で見た赤子の自分は、とても小さく、憎しみを覚えさせるような存在ではないと思う。特別可愛がりやしなくとも、あんなに殴ったり蹴飛ばしたりをしなくてもよいのではないかと、やはり思うのである。ミリアは小さく溜め息を吐くと、暫く窓の外を見るのを忘れた。
「どうした。」眠っていたとばかり思っていたリョウが、そう静かに問い掛けた。
「何でもないの……。」
リョウは再び目を閉じる。
「……ねえ。」一種切羽詰まった声でミリアは尋ねる。「今までミリアを憎たらしいと思ったこと、ある? ちょっとでも……。」
「お前みてえなちっこくて細いのを、わざわざ憎いなんて思うかよ。」リョウは目を瞑ったまま、当たり前だと言わんばかりに不満げに呟いた。
ミリアは眠たげなリョウを見上げた。
リョウは薄く目を開いてミリアを見下ろし、言った。
「俺は初めっから、お前みてえなちっこくて細いのは、腹いっぱいにさして、ぐっすり眠らして、ニコニコさしてやりてえとしか思ってねえよ。」
ミリアは満面の笑みで、リョウの腕に強く強く自分の腕を絡み付けた。
視界には延々と真っ白な天国が続いている。だからここに来れば何も不幸なことなどなくなる。ミリアはそれを知って、至極幸福だった。このままリョウと一緒にどこまでもどこまでも美しい世界に身を置き続けていきたいと願ったが、すぐにそうではなく、リョウと共にこの世の地獄にも行き、人々にそこから這い上がる強さを知らしめることが自己の幸福であり、使命なのだと思い、一人くすくすといつまでも笑い続けていた。