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いよいよライブ当日となった。
早朝の電車に乗り込んだ二人は、空港でシュンとアキと落ち合い、荷物を預け搭乗口へと向かった。既に楽器、機材は送ってあるのでスーツケース一つと四人とも身軽である。しかし搭乗口へと向かう途中、ミリアは窓から見える飛行機の大きさに讃嘆し、行き交う外国人の多さに瞠目し、土産物屋の招き猫を欲しがり、その他諸々一々物珍し気に立ち止まるので、背中を押し押しシュンは進まざるを得ないのである。
「お前なあ、土産を日本で買ってどうすんだよ。土産は台湾で買うもんだろ、台湾行くんだからよお。」小さな掌大の招き猫を大切そうに抱きかかえたミリアの背を押しながら、シュンは詰った。
「そうだわ。カイトに、台湾でお守り買ってくるって決めてんの。だって受験なんだもん、顔色へんてこになって、大変なんだもん。」
「じゃあ、それは一体何なんだよ!」
「これはミリアの思い出の品なの。新婚旅行の思い出。」気取って言う。
前を歩いていたリョウが思わず咳き込んだ。
「お前、そりゃあ商売繁盛の物だぞ。わかってんのか?」
「商売繁盛?」
「そうだよ、客を招く猫なんだよ。手上がってんだろ、おいでおいでってよお。」
ミリアはまじまじと招き猫を凝視し、「これが、お客さん呼んでくれるの……。」と呟く。「可愛い! ますますとっても可愛い! リョウ、猫ちゃんがお客さん大勢連れてきてくれるって!」
「そりゃ良かった。」ちら、と振り返って言う。
「だな。」前方を歩いていたアキも一緒に振り返って、「毎回満員御礼になったらよお、いつかは武道館とかでできるようになるな。ミリア、しっかりその猫に願掛けとけ。」
「うん!」
シュンは言葉を呑む。「ま、まあ、じゃあそれはよしとしよう。……でも、三年経ってんのに新婚旅行っつうのはおかしいだろ。」
「違わない。あと三十年は新婚って言うもん。その方が何か、素敵だもん。」
「還暦過ぎたリョウに新婚は酷だぞ。」シュンはミリアに耳打ちした。
「大丈夫だもん。リョウはかっこいいもん。赤っ髪が白っ髪になっても、かっこいいもん。」
「お前ら!」リョウが振り返った。「今日は初の海外遠征だぞ! ぎゃあぎゃあぴいぴいうるっせんだよ! もちっと緊張感持てよ!」
シュンとミリアは挙って肩を竦める。
「……ったく、ライブ失敗したらただじゃおかねえからな。今回ばっかりは、マジでただじゃおかねえ。」
「大丈夫だわよう。」
次いでシュンも慌てて幾度も頷いた。
やがて四人は機内に入り、それぞれ一列に座り込んだ。ミリアが一番窓際、その隣がリョウ、シュン、アキの順番である。
「こんな人いっぱいいるのに、本当に飛べるのかしらん。だってあの人とか、……すっごい重たそう。」
「しっ。」リョウは人差し指を鼻先に当てて言った。三列程前には、頭の禿げた、でっぷりとした中年男が座っているのである。「てめえ、失礼だろが。どんなデブ乗っけたって飛ぶんだよ。飛行機ってのは飛行する機体って書くんだからよお。ったりめえだろ。」
「ふうん。」ミリアは窓の外へと視線を遣った。「人って凄いのねえ。……飛行機作った人も凄いしリョウも凄いし、それ以外の人も、人間を便利とか幸せにしてくれる人は、みんな凄いわねえ。ミリアも凄い人になりたいわ。」
やがてアナウンスが流れ、エンジン音が鳴り響き、ゆっくりゆっくりと機体は動き出していく。
ミリアはいよいよ目を瞑り、両手を固く握り締め背を丸めた。「ああ、動いた動いた。お空に出ちゃう。」膝と膝の間に器用に顔を突っ込み、ぶるぶると震えている。
リョウはさすがに心配そうにミリアを見下ろす。
「大丈夫だ。お前、飛行機ってえのはバイクよりも全然事故率低いんだぞ。お前いっつも俺の後ろ乗ってるじゃねえか。あれよりも断然安全なんだよ、飛行機は。」
「そんな訳ないもの、リョウ事故したことないし。ミリアだって擦り傷一つ作ったことないもの。でも飛行機事故のニュース昔、見たことある。飛行機のが断然おっかない。」膝の間からぶつぶつと呟く。
「否、そんなのすっげえ稀なやつだ。まずあり得ねえ。ものの四時間ぐれえ、ちーっと昼寝してりゃすぐなんだよ。ほら、頭起こしてゆったりしてろよ。」
ぐんぐん機体はスピードを上げていく。ミリアは未だ顔を上げない。
「……台湾の精鋭たちのため、ライブ頑張りますから、今までで一番頑張りますから、どうぞどうぞ無事に台湾に到着させて下さい。あ、到着するだけじゃあダメなの。帰りもちゃあんとおうちに帰らせて下さい。お願いします。ちゃんと帰れないとリョウが安売りで調子に乗っていっぱい買い過ぎたジャガイモが芽を出しちゃうし、実はリョウに内緒で買った結婚記念日に作る予定だった、たーっかい牛肉腐ったら勿体無いの。それにそれに、ミリアにはまだやらなきゃいけないことがいっぱいあります。大学生にもならなきゃいけないし、お料理も上手んなって、リョウが美味しいって言ってくれて、そんで社長にお金も返して、それからLast Rebellionのギタリストとして世界中にリョウの曲を弾いて届けて、それから園城さんのためにヴァッケンだって行かないといけないのです。お願いします。神様仏様デスラッシュメサイア様。」
リョウはミリアの呟きを聞きながら、ふとポケットに手を差し込む。そこには確かなプラスチックの手触りがあった。園城のピックである。
――まずは手始めに台湾へと行く。それから十年以内にヨーロッパツアー回って、ヴァッケンへと行く。
リョウは胸中そう呟くと、にっと口の端だけで微笑んだ。その瞬間、機体がクンと持ち上がった。ミリアはひゃあ、という悲鳴を上げ、一層身を屈めた。