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いよいよ明日と出発が迫った。
リョウは準備のためと、ギターのレッスンをまだ陽の明るい内に早々に終えたが、何だかそのまま家に帰る気にもなれずにいた。無論荷物もまとめなければならないし、SEの最終チェックに、物販の詰め込み等やらねばならぬことはごまんとある。しかし明日遂に自分の長年の夢であった海外公演を行うのだと思うと、焦燥と期待感とが入り混じった妙な気持ちが膨れ上がり、一人ではとてもいられないような気がした。
そんな時リョウが行くのは、決まってライブハウスか楽器屋である。リョウはスタジオから比較的近い、自分が十代から出続けているライブハウス、サンクチュアリへと足を向けた。
ライブハウス前に掲げられたブラックボードを見ると、今日は自分の知らぬ、というよりもとんと縁のないジャズバンドのライブであった。
「おお、リョウじゃないか。どうした。」そう言って階段を上がって来たのは、十代からリョウを実の弟のように可愛がり、または時には厳しい師のように接してきたサンクチュアリ店主の有馬である。ミリアの養育権をめぐる裁判にも自ら率先して報告書を提出し、ミリアとリョウとが共に暮らしていけるよう計らったこともあった。
「どうも。」
「いよいよ明日じゃないか、台湾。こんな所で油売ってていいのか?」有馬は髭面を綻ばせながら言った。
「まあ。」リョウは照れたように俯いた。
「まあ、あれか……。」有馬はそれだけで既に全てを解したように、「どうした、観ていくか? 大分いつものジャンルとは違うけど、たまにはいいぞ。今日は手練れなベテランばかりだからな。お前には勉強にもなるだろうよ。」と言葉を掛けてやった。
「へえ。」リョウはにっと破顔した。
店主はほら、と手招きし、リョウは促されるようにして薄暗い階下へと降りた。
この空気、匂い、全てがリョウに他にはない安堵感を与えていく。
やはりどこまで行っても自分は一バンドマンであり、ライブハウスこそが居場所であると確信する。いつか訪れる死はぜひともここでありたいと、決して誇張ではなく、心底そう思うのである。こここそが自分の生きた証を刻んで来た場所なのだから。
しかしいつも自分が出ている場所とは言え、今日は大分雰囲気が違う。かつて有馬が、自分の店が最もメタルを得意としていることは疑いないが、日中や平日には他ジャンルも行って様々な客に楽しんでもらいたいのだ、と言っていたことをふと思い出した。
だから今日はテーブルが幾つも出され、既に酒だの摘みだのに興じている客が既に何人もいる。リョウはビールを手に一番後ろのまだ誰も座っていないテーブルに腰かけた。するとリョウの隣には、もう仕事がなくなったのか、有馬もまたビール片手に座り込み、「いよいよだなあ。お前ガキの頃から、海外でやりてえって言ってたからなあ。でも今までも話は大分あったろ? あれか? ミリアが高校出るまで待ってたのか。」
「まあ、正直それもありますけど……。タイミング的にね。ツアー中だったり、旅費の工面とか色々あったからね。」
有馬は小さく笑って、「その内もっとでかくなりゃあ、向こうが全額負担どころか、大枚はたいてもてなしてくれるから。次はそこ目指していけよ。」
「そうすねえ。……でも次はヨーロッパツアーやりてえんだ。貧乏ツアーでいいからよ、どうせそういうの慣れてるし。」リョウは口の端だけで微笑みながら、ぼんやりとオレンジ色の光で照らされたステージを眺める。そこに用意された、丸みを帯びた形のギターだのベースだのが一層いつもとは違った感覚を与える。それから随分小さく見えるドラムセット。それがやけに前方に来ているのは、グランドピアノが置かれているからだ。リョウは物珍し気に改めてステージを眺めた。
「こういうのってさ、どういう人がプレイすんの?」
「まあ、今日はベテラン勢、年配ばかりだな。プレイヤーもそれから客も。今日はお前の倍ぐらいの年齢の人もざらにいるよ。プレイヤーはともかく、お客さんは体力的にもきついだろうから、ほら、テーブルに椅子。近くのレストランが廃業するってえんで、一気に格安で買い揃えたんだ。なかなかいいだろう。」有馬はそう言って、自分とリョウが座っている椅子のクッションを押してその弾力性を自慢した。
「おお、随分古そうだけどなかなかいいじゃん。全然ボロくはねえしな。……そうだ!」リョウは突如膝を叩いた。店主はびくり、と飲みかけたビールを唇から離す。
「な、何だ。」
「ねえ、大さんはもうここ長ぇことやってますよね。」
「え? まあ。バイト時代も入れりゃあ、20年来ってとこか。」
「ジェイシーって、バンドマン聞いたことねえ? 多分20年ぐれえ前に活動してた人なんだけど。」
「ジェイシー?」店主は顔を顰める。「メタルか?」
「ああ、ジャンル聞いてくりゃよかった! でもあのババア絶対音楽のジャンルとか知らねえだろうしな……。」
「その人がどうしたってんだ?」
「実は……。」リョウは自分とミリアとの間に血の繋がりがなかったこと、そしてミリアの父親がどうやらバンドマンらしいこと、そのステージネームがジェイシーであることを話した。さすがに暫く店主は口がきけなくなった。まさか、リョウとミリアとの間に血縁関係がなかったとは、音の奇蹟的なまでの相似性を知るがゆえに到底信じ難いのである。
「……嘘だろ。」どうにか絞り出した言葉はそれだった。
「嘘だと思うよなあ。俺も正直まだ、半信半疑ぐれえな所だ。どう考えてもミリアを他人だとは思えねえしな。でも鑑定書っつうのには、兄妹である確率が0%って書いてあったんだよ。んなこと言われてもなあ……。せめてミリアの本当の父親っつうのが確認できて、あいつに似てたとしたらちっとは納得できっかなと思ってさ。まあ、完全自己満なんだけど。」
「それで手がかりが、ジェイシーっつうステージネームと、20年前にバンドやってたっつう経歴だけか。」
「ああ。」
「ううむ。」店主は背を丸め、髭をねじり、唸った。
「まあ、十八のミリアが生まれる前の話だかんな。しかもバンドやってたっつっても、完全アマなのか、そこそこ活動してたレベルなのか、売れっ子だったのか、何もわかりやしねえ。まあ、もし万が一にも思う所があったら教えてくれよ。何でもいいからさ。」
「ジェイシーなあ。ううん、どうだろうなあ。バンドマンのステージネームなんざコロコロ変わったりもすっからなあ。とはいえ本名知ってても店やってる立場じゃあ、よくわからねえしなあ。」
「もしかすっとミリアに似てるのかもしんねえ。」
「俺が知るミリアに一番似てるのはお前だよ。」
リョウは息を呑んで、「……だよなあ。」と力なく溜め息混じりに答えた。「俺の人生であいつが一番親身に感じるっていうか、何でもしてやりてえって思えるっていうか。なのに、正直、兄妹じゃねえなんて、血縁関係0%だなんて、マジで信じられねえよ。でもホンモノの親父っていう奴見たら、そいつがミリアに多少なりとも似てたとしたらさ、さすがに気持ちが変わるかもしんねえじゃん。でも……、そいつがミリアの本当の父親かどうかはわかんねえんだよな。あいつの母親が酷ぇ奴でさ、ミリアの本当の父親に心当たりねえのかって聞いたら、父親候補が続々出て来るんだもんよお。どっかのリーマンだの花屋だの、本当に参ったよ。」
リョウはそう言って更に深々と溜め息を吐いた。
「そんな母親の血引いてるのに、お前よくミリアのことちゃんと育てたなあ。」
「子育てが得意だと言われて喜ぶメタラーがいるかよ!」リョウは舌打ちをする。
「あははは。でも昔のお前だったら絶対考えられねえこったからな。小さい女の子一人養って大学まで行かせるっつうのはよお。」
「……わーかってるよ。」力なくリョウは呟き、ビールを呷った。
「やっぱお前はミリアと暮らして人間になったんだよ。人間の心を解したっつうかなんつうか……。俺が何言っても聞かなかった癖して、ミリアのためだったら何だって聞いてやんだから、ミリアは凄ぇよ。」
「別に俺は何もしてねえよ。」
「そうか。」有馬は面白そうに笑ってビールを啜る。「そんならそういうことにしといてやろう。でも、……こうなったらますますミリアはお前と引っ付きたがるだろうな。」
「もう肩書なんざ何だっていいんだよ。ミリアが俺の妻だろうが妹だろうが、相方ギタリストであろうが。俺の一番近くにいるのはどうせあいつしかいねえんだから。」リョウはやけっぱちたように言った。
有馬は噴き出して、「あっははは。ミリアはお前の妻だと言い張ってるぞ。否、そういう言い方はあいつに失礼だな。正真正銘心がけは妻だもんなあ。紙切れ出せねえだけで。で、お前と台湾行けるの、喜んでるだろ。」と肩を叩く。
「新婚旅行だとよ。」リョウは忌々し気に唇を歪める。「何だよそりゃあ。俺はこの、海外でライブやるっつうことに向けて、二十年もなあ、死ぬ気で音楽活動やってきたんだぞ。何であいつはこんなお気楽なんだよ。おかしいだろ! でも何でかあいつに対しては、あんま強く出れねえんだよなあ。否、ギタープレイのことは思いっきりケチョンケチョンにだって言うが、何かそれ以外は……、宥めちまうんだよなあ。俺、弱気んなってんのかなあ。デスメタラーがこんなんでいいのかよ……。ほんっと、情けねえ。最悪だ。」
「違うぞ、リョウ。」有馬はリョウの目を見て言った。「男っつう生き物は、好きな女に対してはみんな弱気になるもんなんだよ。」
「……はあ?」リョウは頓狂な声を上げて目を見開いた。
「良かったじゃねえか、相思相愛だ。まさか死だの絶望だのばっか歌ってるお前の中に、そんな人間的な感情が巣食っているなんてなあ。ああ、お前はミリアに会って変わったよ。本当に人間になったっつう気がするよ。お前と最初に出会った頃はなあ、ギターがなかったらこいつぁ社会に一つも居場所がねえなって、確信してたぐれえだもんな。」
リョウはうんざりしたように肩を落とす。「マジかよ。」
「まあ、それは冗談として……。俺も俺なりにそのジェイシーっつう奴、調べておくわ。ここ界隈のライブハウス関係者なら俺もよく知ってるし、もしかしたら何か聞いたことあるって奴がいるかも、しれねえし。まあ、でも20年前っつうと、もう活動はしてねえだろうから難しいは難しいけどな。」
「……済まねえ。」リョウは静かに微笑んだ。「別にもうさ、俺とミリアの血の繋がりなんかどうだっていいんだよ。ただ何かあいつとはそういうのは抜きにしても、一生を共にしていくような気がバリバリしてっから、あいつのために何でもやれることはやっておきてえっつうか。」と、そこまで言ってリョウは暫し考え込んだ。
「俺、そんなに誰もあいつを今まで可愛がってやらなかったのが、不憫でならねえって思ってんのかな。ううん、やっぱ違ぇな。そんな同情みてえな感じじゃねえ。仮にあいつが親の愛情を注がれて幸せに育った子供だったとしても、俺はやっぱミリアのためにできることはやってやりてえって思った気がする。」
「んなの言わなくたってわかってる。」
リョウは驚いたように有馬を見た。
「きっかけは、兄妹だったり親に虐待されて可哀そうとかだったりしたかもしんねえが、それらがもう今や一切合切取っ払われて、あるのはお前の純粋な愛情なんだよ、リョウ。」
リョウは気まずそうに視線を空に漂わせ、一応弁明らしく「……ぴいぴいうるせえって思うこともしょっちゅうだけどな。」と呟いた。
その、幾分躊躇いがちに発せられた言葉が終わるか終わらぬかの内に、照明が落ちていく。それが有馬の嬉しそうな横顔をほんのりと照らし出した。オレンジ色に染まったステージには、拍手に包まれながら二人の初老男性が登場し、酷く息の合ったプレイでギターを奏で出したのにリョウは一気に引き込まれた。遠い将来、自分がステージでヘドバンだの、ダイブだのができなくなった時には、ミリアとこんな風にギターを奏で、聴かせられたら、と思ったのである。しかしそれということは、これから数十年とミリアとギターを弾き続けていくことを意味する。それに気づいてリョウは小さく破顔した。