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まだまだ寒気は厳しかったが、次第に日中の日差しは和らぎ、ほつほつと膨らみ始めた梅の花なんぞも街中に見かけるようになってきた。
そんな中、ミリアの高校の卒業式の日がやってきた。
ミリアは朝から丹念に髪を撫で付け、嬉しいのか憂鬱なのかよくわからない表情を浮かべつつトーストにゆっくりと丁寧過ぎる程にイチゴジャムを塗りたくっていた。
テーブルの上には先日シュンから借りて来た一眼レフのカメラが堂々と鎮座している。
「いっつもこれ借りてくる割には、肝心な場面で撮るの忘れちまうんだよな。」リョウが独り言のように言った。「思えばお前の小学校の頃の文化祭とか運動会とか、そういうのも肝心な所は撮り忘れて、残ってんの、どうでもいい所ばっかなんだよなあ。」
ミリアは大好きなイチゴジャムを塗りたくったトーストを一口齧って、ふうと溜め息を吐いて皿に置いた。
「おい、どうしたんだよ。緊張してんのか? たかが卒業如きで。」
「ううん。」ミリアは力なく首を振る。「あのね、……ミリア、寂しいの。」
「寂しい?」リョウは身を乗り出す。
「もうユリちゃんともあんまし会えなくなるし、カイトはどこの大学かまだ決まらないけど、絶対ミリアの行く女子大とは違う大学に行くからやっぱり会えなくなるし、先生は一緒に卒業しないし。」
「そりゃそうだ。」
「何か、そういうの、寂しいなって。」
「お前なあ。」リョウは眉根を寄せる。「そんなん当たり前だろが。誰しもあれこれ捨てて新しい境地に挑んでいくんだよ。本当に大切なモンは残るけど、そうじゃねえものは自然と去っていくモンだ。人生たあ古今東西そういうもんだろ、甘ったれんな。お前は知らねえかもしれねえが、お前がバンドのパーマネントなメンバーになる前はなあ、ちっとも、全く、全然、ギタリストが定着しなかったんだからな。」
「それはリョウがおっかないからじゃん。」
リョウは何も言い返せなくなる。
「ミリアは、ちっともおっかないことないのに、それでもユリちゃんもカイトも近くからいなくなっちゃうんだ。」
「続く縁なら続くんだよ。」リョウはミリアのトーストの乗った皿を、ぐいと目の前に突きつける。「これからの関係がどうなるかなんざ、あれこれ考えてたってしょうがねえ。結果は必ず付いてくっから。それで判断すりゃあいい。ま、それはそうとして、これ、食ってから行けよ。最後なんだからちゃんとしろ。体育館でぶっ倒れなんてしてみろ、一生の汚点だぞ。」
「うん。」ミリアは仕方なしに目の前に突き出されたトーストを取り、食べ始める。
「……でもよお。」リョウは茫然としながら何かを思い付いたように呟いた。「そういう風に思えるのって、何か、いいよな。俺は全然そんな経験ねえからな。まあ、ろくに学校と名の付く所に通ったっつう経験自体がねえっつうのもあんだけど。」
「……お友達、なかったの?」
「……ねえな。」
ミリアは目を見開く。
「お弁当、誰と食べてたの?」
「別に誰と食わなくたって死にゃしねえだろ。」
「放課後、お喋りしなかったの?」
「バイトだろ。それかギター。」
「そんじゃ、学校帰りは?」
「バイク飛ばすのに他の野郎がいたら邪魔だろ。」
ミリアは今度は眉根を寄せて黙した。
「リョウ……、可哀想。」
「あのなあ!」リョウはテーブルに拳を叩きつけた。「そんな女みてえに一々つるんでねえの! んな無駄こいてたら今頃ギターで食ってなんかいられっかよ!」
ミリアは思わず身を潜めた。
「俺は今まで、レッスン受けに来る生徒とか、他にもまあ色々な連中に、『どうやったらギター巧くなりますか』とかって散々聞かれたがなあ、答えはいつも一つだ。『友達をなくせ。』」
ミリアはぽかんと口を開けた。
「ギター以外に道楽タイムを見出した瞬間、もうてめえの人生でギターがダントツ最優先にならねえことは決定なんだから、んな覚悟のねえ奴にギターが心を開いてくれる訳ねえ。上達も断じて、ねえ。終ぇだ。凡人として、ギターは趣味として諦めて生きろ。俺はそう答えてきた。」
ミリアは暫くそのままリョウを唖然と見詰めていたが、ふと思い立ってリョウの両手をそっと握りしめた。
「そうなの。でもミリアがいるからね。お友達には、……なってあげられないけど。でも一番近くにいるから。」
「んん?」
「だって、奥さんだもの。お友達じゃないわねえ。リョウはギターがダントツ一番なのね。じゃあ、ミリアをその次に大事な奥さんにして頂戴。ね。」ミリアはそう言ってにっこりと微笑んだ。今度はリョウが唖然としてミリアの言葉を聞いていた。そろそろ登校の時刻が近づいていた。