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リョウは帰って来るなり着ていたスーツのジャケットを投げ出し、同時にソファに身を投げ出した。混乱していた。疲弊していた。ミリアの父親はバンドマン、ジェイシーだ? ふざけてやがる。ミリアは何も言わずに倒れ込んだリョウの顔を間近に覗き込み、不安そうに「大丈夫?」と問うた。リョウは不機嫌そうに横目で見上げ、堪らずミリアを抱き締めた。
「おい、俺が付いてるからな。何も心配するな。」
「うん、ありがと。」ミリアはリョウの胸に顔を押し付けられたままもごもごと答える。
ぐい、とリョウはミリアを離し、その顔を真正面からじっと見詰めた。
「なんてお前は可愛いんだ!」
ミリアはその平生は全く聞かれない言葉に、咄嗟に何かとんでもないことがあったに相違ないと顔を強張らせた。
「……あ、あの人に、ミリアのこと聞いてきたの?」
リョウは痛いような顔をして黙した。何を答えてもミリアを傷つける気がしてならなかった。母親の素行も、父親の候補も、命名の経緯も。何もかも。
「……あ、そうだ。」リョウは唯一ミリアを喜ばせる土産を持って帰ったことを思い出し、放り投げたジャケットをさっと拾い上げた。慌ててポケットから小さなアルバムを取り出す。「これな、お前の赤ちゃんの頃の写真だって。貰ってきた。」
「ええ!」ミリアは感嘆の声を上げ、リョウが広げたアルバムを覗き見た。
座布団か何かの上に寝かされ、じっとカメラを見詰めるミリア、ベビーベッドの端でおしゃぶりを咥えて笑っているミリア、そしてベビーカーの中で毛糸の帽子を着けて眠っているミリア。
「こんな小っちゃな赤ちゃん。ミリアなの?」
「面影があるじゃねえか。ほら、目とか。相変わらずでけえな。」
「ええ?」ミリアは笑みを浮かべながらじっと見入る。
「……可愛いな。」リョウは正直に言った。
「ミリアもこんな小っちゃい時あったんだ……。」ミリアは目を潤ませる。
「そりゃそうだろ。誰しも生まれた時は赤ん坊だ。」
「そうだけど……、」ミリアは笑顔のまま写真を凝視し続ける。「そうだけども、リョウに会う前はミリアじゃない気がして。リョウに会ったからミリアの人生になった気がして。」
「何だそりゃ。」リョウは笑ったがミリアが真剣に写真を見詰めているので、そのまま黙した。
「でもこんな時があったのね。ミリアを、可愛いって思ってくれた人があったのね。」
リョウは不意に言葉に詰まった。あんなとんでもない母親である。ミリアを容姿と知名度でしか評価しない母親。男好きで、無責任で、享楽的な母親。それでもミリアは自身を愛してくれた、そういう時が一瞬でもあったという証拠を得て、その一点のみにおいて、少なからず喜びを得ている。
その時、リョウは不安を覚えた。「あのなあ。」両肩を掴み、しっかとミリアを見据えながら言った。「お前は綺麗な面してやがるから、これから色んな男共が寄って来てちやほやすっかもしれねえが、そういうの嬉しがんな。」
ミリアは何を言っているのかとばかりに、首を傾げる。
「だから、とにかくそういうのはダメなんだよ。欲しくもねえのに誰の子供かわかんねえの孕んだりよお、そんでまた違う男のためにガキ捨てんのとかはよお。可哀そうじゃねえか。」
「そんなの当たり前じゃん。」
「……だよな。」リョウは真顔で肯く。
「ミリアはリョウのことだけが好きなの。小さい頃からそうなの。言ってるじゃん。だから、他の男の人がなんか、……たとえばミリアを好きとか言って来ても、ミリアは聞かないよ。そんなの意味ないから。」ミリアは暫し躊躇して、そしてリョウの目を見詰め意を決して言った。「だから……、兄妹じゃあなくってもずっとこれからも、傍にいて。本当に結婚してるって思って。」
「ああ……。」リョウは苦笑いを浮かべ、肯く。「そりゃな、大丈夫だ。社長に誓ったからな。あれは社長じゃねえのか? 牧師か? よくわかんねえが、まあ、何だかわかんねえけど誓ったから、大丈夫だ。」
ミリアは勢いよくリョウに抱き付いた。そしてそのままぐりぐり、と頭をリョウの胸に痛い程擦り付けて最後に顔を押し付け、ふうと胸に向かって溜め息を吐いた。リョウは何故だかその様がおかしくてならず、声を上げて笑い始めた。