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その夜ミリアはほとんど何も喋らず、何も食べずに、ベッドに入った。リョウはしかしそこに安易な慰めの言葉を掛けることはなかった。カレンダーを見ると、自分は翌日は昼過ぎからのレッスンである。ミリアはどこぞの美容室のカットモデルをする予定が午前中からとある。だとすればミリアが出次第、早々に弁護士に連絡を付けてみようとリョウは思い至り、自身もさっさと寝室に入った。
壁を隔てた隣でミリアが何を考えているのか、わからないでもない。おそらくはアサミの妊娠を機に自分もいつかそういう将来があるのではないかと思い至った矢先、自分と兄妹であるということがかつてない程大きなネックとしてのしかかって来たのだ。高額な検査料を稼ぐために、年末年始と引っ切り無しに撮影の仕事を入れ、そしていざ検査を申し込んだ。
なぜそこで自分に一言言わなかったろう、という気はする。兄妹であれば現行のままであろうが、そうでなかったとして、自分との関係が変わることを危惧していたのであろうか。それも否定的なそれに傾くことを? そんなに自分に対し信用がなかったのであろうかと思えばさすがに落胆せざるを得ない。しかしおそらくは、そうでない。
ミリアは自分に過分な程の恩義を感じているのだ。口にこそ出しはしないが、かつて虐待を受けていた地獄のような日々から救ってくれた、命の、恩人であると。聖人君子もかくやとばかりに。しかしミリアを一緒に暮らすことを決めたその時、無論人を救済するというような命題が自分の中に存在していたのではなく、ただ痩せこけていたミリアに過去の自分の姿を見たから、可哀そうだったから、本当に将来どのような困難があるのかなどは一切何も考えず共同生活を決めたのである。が、ミリアは違った。自分を神か仏かのように思っている節がある。だからせめて兄妹という繋がりがあれば、多大な恩義をミリアは受け止めることができる。ただし他人であったら? ミリアはそこに答えを見いだせなかったのだ。
ミリアとの生活で負担を感じたことなぞ一つもないのに。そればかりか、ミリアがいたからこそ自分は冷酷無比な自分を脱し、人間らしさを獲得することができたのに。兄妹であろうが、なかろうが、ミリアが自分にとって唯一無二の特別な存在であることは変わりがないのに。リョウはなぜそんなことをミリアが未だに解せないのか、苛立ちを覚えた。
翌朝、ミリアが未だ意気消沈しながらそれでも仕事に出かけて行ったのを確認するや否や、リョウは携帯を手に取った。まずはアサミである。すぐにアサミは出た。出産直前まで働く気なのであろうか、それで体は大丈夫なのだろうか、リョウはそのようないたわりの言葉を掛けながらも、すぐに本題へと入った。つまり、すぐに、かつて裁判を請け負ってくれた弁護士との連絡を付けてほしいということである。
「一体どうされたんです?」アサミは声を潜めて言った。
「それが……。」リョウは一瞬口ごもったものの、えいとばかりにぶちまけた。「ミリアと俺とが、実は兄妹じゃあなかったんです。遺伝子検査ってやつの結果、それがわかったんです。」
電話の向こうではっきりと息を呑む声が聞こえた。
「そんでですねえ、ミリアはいいって言うんですが、あいつの本当の父親がどういう奴なのかって知りたくて。あいつの母親ならさすがに、本当の父親はわかるでしょ。まあ、もしかしたらわかんねえかもしんねえけど、とりあえず聞いてみたいんすよ。ちなみに、俺はどう転んでもあいつにそっくりだから、どう考えても、あいつの血を引いてるのは、俺の方なんすよ。そんで弁護士さんなら、あれの連絡先を知っているんじゃねえかと、思って……。」
暫くの沈黙が生じた。
「すみません……。実は、その……、ミリアさんが遺伝子検査をしたがっていたの、私知っていたんです……。」
「あ、別にね、今更遺伝子検査をした、しねえなんて俺はなんとも思ってねえすから。値段調べて凄ぇ高ぇな、とは思ったけど。正直、まあ、ビビったけど。でもあいつがそのためにおそらくは年末年始引っ切り無しに仕事入れてたんだろうし。自分の金だ。好きに使えばいい。だからそんなことはどうでもいい。」
「ミリアさんが何でそんなことをしたか、聞かれましたか?」
「……否、でもたしか、兄妹じゃなけりゃあ、子供が作れるとは前に言ってたな……。結構前だった気もするけど……。」
「それ、私が妊娠したから……、そんなことを考え出してしまったんです。」
「アサミさんが悪い訳ないでしょうに!」リョウは遂に大声を出した。「あのねえ、勝手に責任なんか感じられちゃあ困るんすよ! ミリアだって女の子なんだ。そんぐれえ放っといたってゆくゆくは考え始めるに決まってる。それが、早かったか遅かったかだけの違ぇだけだ。」
「……すみません。」
「あんたが悪い訳ねえ。つうか誰も悪くはねえ。あんただってミリアだって。あえて言うならあいつの実の親だけだ、悪ぃのは。産み落とすだけ産み落としてあいつを面倒見て可愛がってやらなかったんだからな。その上ご丁寧に虐待コースだ。でもそのお陰で俺はミリアに出会えた。だから感謝は、してる。」
「……そう言って頂いて、楽になりました。今弁護士がちょうど社長の所へ来ておりますので、終わり次第連絡を入れさせます。一時間以内には、おそらく連絡ができると思います。」
「よろしく頼みます。」
リョウは電話を切ると、がっくりとソファに座り込んだ。そこに生じたのは怒りでも憎悪でもない。ただミリアが愛おしかった。笑顔にしてやりたかった。幸せにしてやりたかった。そのためにどんなことでもしてやりたかった。
「お久しぶりじゃないですか。今度は何の要件でしょうか。また弁護士を必要とするなんて、あなたもなかなか見た目によらず、面倒な境遇にいるんですねえ。」
電話口からは飄々とした懐かしい声が聞こえて来る。
「そうなんだよ。エラいことになった。あのババアに連絡つきます? ミリアの母親。」
「え?」頓狂な声が上がる。「何の用で? 接近禁止を勝ち取った奴に今更会いたいなんて何考えてんですか。」
「それがな……。」リョウは声を潜めて言った。「実は、俺とミリアの血縁関係がなかったんだ。」
電話の向こうで息を呑む音が聞こえた。
「遺伝子鑑定っつうやつで、出た結果だ。兄妹である確率が0%だとよ。んなこと考えられるか? だって実際似てんじゃねえかよ。だから間違いかもしんねえが、とりあえずミリアを作った張本人に聞いておきてえんだよ。ミリアは一体どこのどいつの子なんだってな。」
「それ、本当ですか?」
「本当も嘘もあるかよ。ほら、ここにあるぜ。鑑定書っつうのがよお。」そう言ってリョウはぺらりと鑑定書を指先で持ち上げた。「面倒なぐれえにいくっつも項目ごとに分かれてて、ほら、ここに、結論の所、兄妹である可能性はねえって、しっかり書かれてやがんだからよお。」
「ちゃんとした会社に依頼したんですね。」
「そうだ、ミリアがな。お前、そんでネットで見たら幾らしてたと思う? 十万近くしてんだぞ。何でんなことにこんな大金ブッ込んでんだよ。何か月飯食えるっつう話だろ。ったく、ギャンブラーかよ。でもまあ、あいつの稼ぎだから何に使おうが文句は言えねえけど……。」
「まあ、それだけあなたとのお子さんが欲しかったんでしょうね。」
何故何も言っていないのにそんなことがわかるのだ、とリョウは一瞬黙した。
「わかりましたよ。」弁護士ははっきりと言い切った。「私は金にならない仕事は請け負わない主義ですが、何でもあなたたち結婚したらしいじゃないですか。社長から聞きましたよ。結婚祝いの一つも差し上げていないですから、代わりにあの母親と連絡を取って差し上げますよ。ただし相当向こうは裁判の結果に怒り心頭でしたから、まともに相手をしてもらえるかどうかは別問題ですからね。一応、聞いてみるだけは、聞いてみます、ということで。」
「ありがてえ!」リョウは讃嘆の声を上げる。
「でも結構お盛んな女性だったようですからね、施設送りにしている子供がミリアさん以外に五人。父親もそれぞれバラバラですし。そんな方がもう二十年近く前の異性関係なんて覚えているか、どうか。……もしかしたら行きずりの相手ってことも十分に考えられますからね。それに、彼女の思い込みと事実はまた違っているかもしれないし。とにかく期待はせずに待っていてください。それでは。」
リョウは暫く目を瞬かせながら部屋の真ん中に立ち尽くしていた。よし、これで一歩ミリアの出自に踏み込めたと気合を入れ、そそくさとレッスンの準備を始める。
するとふとミリアのいつぞやの雑誌のカットが額縁に入れられ、パソコンデスクの上から自分に微笑みかけているのが目に入った。リョウは思わず目を細めてそれに歩み寄る。この上なく愛しい笑顔だった。何にも代えがたい、笑顔。血の繋がりなんぞどうだって構わない。アーティストとして、人間として、必要な心を教授するために来てくれたのだ。――天使。天使がいるとしたらきっとこんな風貌をしているのだ。リョウはそう勝手に思い至り、どうしようもなく破顔した。
そのままリョウは笑顔でギターを担ぎ、CDをケースに捻じ込んでバイクのキーを取り、玄関を足取り軽く出て行った。