84
ミリアはそれからというものの、張り切って家事にも仕事にも精を出し、ギターの練習にもいつも以上に真剣に取り組んだ。とんでもないことを自分はしてしまったのではないかという罪悪感と焦燥感にひたすら追い立てられていたのである。リョウを、何よりも大切なリョウを、騙したのではないか。裏切ったのではないか。自分が将来、リョウとの子供を欲しいという、自己中心的な願いばかりに。それはミリアに今生最大とも言える苦悩を与えた。
それゆえ一人きりで何もしないでいると苦しくてならず、でもリョウと本当の夫婦になりたく、つまりはいつかは子供も授かりたく、それがしかしリョウの意向を無視した自分勝手なことだと自覚すればする程にその苦しみは際限なく倍化していった。
リョウはクリスマスのあの日にツリーの前でミリアが言った、父親が違うかもしれないという疑惑については忘れてしまっているのか、どうでもいいと思っているのか、全く口にすることさえなく日々を過ごしていた。それよりも海外遠征でのセットリストをどうするか、作り掛けの曲をどう完成に持って行くか、引っ切り無しに入るレッスンの予定とその準備はどうするか、という有様で、余計なことを考えている暇がないというのが事実であった。
そんなある日、ミリア宛てに物々しい封書が届いた。それを受け取ったのはたまたまレッスンがキャンセルとなり、家にいたリョウであった。表にでかでかと書かれている差出人は、――K遺伝子解析研究所。
リョウは配達員に請われるまま大人しくハンコを押し、その差出人を凝視し、扉が閉まるなり「はあ?」と声に出して頭を抱え、玄関先で暫く考え込んだ。間違いではないか、と思うものの、確かに宛名はミリア宛てである。一体何の悪戯か、詐欺か、はたまた間違いか。
外は冬の冷たい雨が降り注いでいた。鉄製の手摺に雨の落ちる音を遠く聞きながら、漸くにしてリョウの頭にクリスマスの会話が蘇って来た。――「父親が違うかもしれない。」ミリアは甚くそのことを気にしていた。
最初に思い付いたのは、本気でやりやがったのか、ということである。しかし証拠が目の前にあるとなれば、今までついぞミリアとの血縁関係の有無など気にしなかったリョウであっても、結果が気になってならない。
自分とミリアは兄妹であるのか、そうではないのか――。
勿論リョウはミリアを妹だと思っている。事の発端はそうであったのだから。妹だと思うのが当然である。たしかにミリアに単なる兄ではない、異性に対する恋情を過剰なまでに押し付けられ、そのついでに結婚式までも挙げたのは事実ではあるが、あくまでもミリアは自分が保護しなければならない存在であり、そのためにはほとんどの事柄を犠牲にすべきであると思うし、事実できる範囲でそうしてきた。もしかしたらそれは男性一般が抱く愛する女性に対しての普遍的感情なのかもしれないが、リョウにはよくわからない。ともかく妹であるか妻であるか、そこは別としてミリアは自分に人間としての温かさをくれた唯一の家族であり、恋人のようなものでもあり、何よりも大切にしなければならない存在なのである。
だったら今更血縁関係の有無などはどうでもいいことのようにも思える。しかしやけに気になるのは事実であり、その因を幾ら掘り下げてみても、単なる好奇心以外に答えはない。
――つまりは、今更、なのである。これがミリアが来たその日であるならば対応も変わったかもしれないが、既に十数年、ましてや結婚式まで挙げた身に鑑みれば、ミリアは何のためにこんな依頼をしたのだか、そっちの方がよほど気になってくる。リョウは封筒を持ったままリビングに戻り、テーブルにそれを置いたまま、茫然とソファに座り込んだ。
ミリアが帰ってきたら何と言うべきか。何でこんなことを勝手にやったのかと追及すべきか、それとも何も知らぬふりをしていてやるべきか、それとも一緒になって緊張しながら結果を見るのか、正解がわからずリョウは途方に暮れた。
そもそもこれは悪事、であるのか何なのか。リョウにはわからない。おそらく自分の髪の毛だか何だかを提供したのだからもちろんそこは勝手なことをするなと注意せねばなならないと思うものの、それよりもやはりミリアが何を思ってこんなことをしでかしたか、ということに疑念は尽きるのである。
答えの出ぬ内に玄関先からバサバサと傘を振る音がし、ミリアがいつものように意気揚々と扉を開けた。自分がいると気付いて、ただいまあ、とご機嫌な声を発しリビングに入って来る。リョウはしかつめらしい顔をすべきか、怒り心頭とでもいうような顔をすべきか、それともいつものように何でもない顔でいるべきか、答も出ぬままただ無表情にミリアの顔を見上げた。
雨に濡れた前髪を右手で撫で付け、「今日はレッスン早かったのね、ご飯作りますねえ。何にしようかしらん。」と笑顔で宣う。ミリアはそこで初めて、リョウがいつもと違ってパソコンにも向かわず、ギターも抱えていないことに異変を感じた。そしてリョウの目の前に置かれている封書を発見した。いつも雑誌社から送られてくる茶封筒とは異なる。何だろうと身を乗り出して、自分宛であることに気付く。差出人を見てはっとなった。目を見開き、恐る恐るリョウを見た。
「さっき宅急便の人が来て……。」ミリアのあまりの変貌ぶりにリョウも驚嘆を隠せなくなった。
ミリアはしかし胸を上下させるばかりで何も発しない。
「あの、さ、何これ。遺伝子検査って……。」努めて怒気を含ませぬよう、リョウは我ながら気持ちの悪くなるような甘ったるい声を出す。「もしかして、お、俺が本当の兄貴かどうか、そういうこと?」
「……ごめんなさい。」ミリアは喉の奥に張り付いたような声を、ようやく発した。「ごめんなさい。」
「否、クリスマスん時お前、言ってたよなあ。もしかすっと俺と父親が違うんじゃねえかって……。そりゃあ聞いてはいたがよ、何で実際俺に内緒でこんなことやったんだ?」
ミリアはじっと体を固くしている。
「俺の髪の毛でも、くれてやったのか? エクステん所じゃ遺伝子わかんねえだろ。」冗談を言ったつもりなのだが、ミリアは相変わらず強張ったままである。呼吸を荒くしながら、ミリアは言った。「……リョウの口の中に綿棒突っ込んだ。」
リョウはぶっと噴き出し、「マジか! いつやったんだ! んなこと!」いつもの口調に戻る。
「リョウが、リョウが、寝てる時……。ミリアどうしても、知りたくて……。」
「マジかよ……。」リョウは口の中を舌を使って確認する。「気持ち悪いなあ。勝手にやんなよ。」
「ごめんなさい。……ミリア、その、どうしても。」
「どうしても、何なんだよ。」リョウは言葉を促す。
「リョウとパパがおんなじなのか、知っておきたくって。」
「今更んなこと知ってどうすんだよ。」
ミリアは今にも泣きそうになっているが、拳を震わせながらどうにか堪えている。最後まで説明をする責任があることだけは承知しているのである。
「その……。」
「父親が違ったら、今更問題あんのかよ? んなの関係ねえだろ。もう俺はお前と家族な訳だし、血縁関係があろうがなかろうが何も変わらねえだろ。お前はそれほど俺のこと信用ならねえって思ってたのか? その方がショックだろ。」
「違う。」ミリアははっきりと顔を上げて甲高い声を上げた。
「どう違うんだよ。」不機嫌そうに問うた。
「パパが違ったら、パパが違ったら、……リョウとミリアの赤ちゃん、遺伝子病になんない。」
リョウはぽかんと口を開けたまま、暫く動けなくなった。
「も、もちろんまだ先のことだけど、でも、リョウと兄妹じゃなかったら、本当の夫婦になれるって、そう、思って。」そこまで言い切ったミリアにもう我慢はならなかった。涙が溢れ出す。「勝手にやってダメってわかってたの。でもリョウに何て言ったらいいかわかんなくって。ごめんなさい、ごめんなさい……。」
「……そうか。」リョウは溜め息交じりに答える。たかが血縁関係の有無でミリアとの関係が変わるとは思えぬものの、それでも二人の今後において根幹にかかわる問題であるような気もする。子供なんぞ考えたことはないにせよ、ミリアは女の子だ。そういう夢もあったのかもしれない。だったら自分と結婚するなど言い出さねばよかったのに、と思いつつも今更過ぎた話ではある。
リョウは自ずと視線をテーブルの上に遣った。全ての答えがこの封書の中にあるのだと思うと、リョウも次第に緊張を覚え始めてきた。じっと封筒を見詰める。
「おい、……これってどんぐれえの確実なの? 100%間違いねえってことなの?」
ミリアは静かに首を横に振った。
「絶対お兄ちゃんじゃないですは100%。お兄ちゃんかもしんないですっていうのは、最高で90%って、書いてあった。」
「ふうん。」
ぽたぽたとベランダから雨の落ちる不規則な音が聞こえて来る。
「お前、これ、いつ見んの?」
「……いつ、か。」ミリアは消え入るように呟く。
「気に、なんねえの?」
「……なる。」
リョウは溜め息を吐いて再び黙した。
「お前はさあ、俺と血が繋がっていてほしくはねえんだよな。」
ミリアは黙する。「……あんまり。」
「そっか。でも、俺ら事実似てっかんな。音、プレイなんか特に。おんなじだって言われてんだから。顔付きだって似てるって言われたこと、あんだろ? おおかたこりゃ兄妹だぞ。そこはわかってんな?」落胆する姿は正直、見たくはなかった。少しでもショックは和らげておきたかった。
ミリアは肯いた。「……リョウ、は? ミリアと血繋がっててほしい?」ミリアは済まなそうに上目遣いで見た。
「俺は、……」リョウは暫く考えてから、「繋がってても繋がってなくても、別に、いいかな。」
「ずるい。」
「ずるいもずるくねえもあるかよ。どっちかっつうと勝手にこんなことやらかしてるお前のがずるいっちゃずるいだろ。」
ミリアは再び俯く。
「でもやっぱ兄妹じゃありませんでしたっつったら、厭……じゃあねえけど、何つうか不思議には思うな。兄妹だって言われた方が、まあだ納得行くつうか。当たり前っつうか。何つうか。そもそも妹だと思ったから一緒に暮らし始めた訳であって……。そこが違ぇとなると、何つうか、……やっぱ不思議だよな。」リョウは言葉を濁して再び黙す。
二人はじっとテーブルの上に封書を見詰める形になった。
「お前、開けてみろよ。」
ミリアはびくりと身を震わせる。
「金払って、俺の寝てる所勝手に細胞取って、そこまでして兄妹関係知りたかったんだろ? 検査。じゃあ覚悟はあんじゃねえか。見てみろよ。」
ミリアは小さく肯く。ミリアはゆっくりゆっくり手を伸ばし、封筒に触れた。
リョウはその動きをじっと見つめている。
ミリアは意を決して封を剝がした。ぴりぴりと思いの外容易に剝がせる。鼓動が高鳴る。そのせいで吐き気さえしてくる。目の前が白黒する。ミリアは泣き喚いて全てを終わりにしたかった。しかしそれがあまりにも幼い、無責任な行動だということは嫌という程にわかっている。ミリアは己を叱咤するようにして、遂に、封を開け切った。