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勢い込んで部屋の扉を開けると、しかしリョウはいなかった。
テーブルの上には「役所にパスポート取りに行ってからレッスン行ってきます。遅くなるから先に飯食ってて。」と書かれた紙が載っている。ミリアは眉根を寄せながら、渋々部屋着に着替え、そしてパソコンデスクの上に飾られているライブ中のリョウの写真がふと視界に飛び込んできたのを契機に、暫くそれをじっと見つめた。
怒号を上げながら、世界の全てを憎悪する眼差しで睨むリョウ。昔音楽雑誌に載った写真で、ミリアが甚く気に入って額縁に入れて飾っているものである。ミリアはその写真にうっとりと見入った後、次いで真剣な眼差しで近くの卓上ミラーに自分の顔を映し出した。じっと見つめる。似ていない、と思う。横を見て、下を見て、上向きになって、逐一まじまじと見ながら、やはり、ちっとも似ていないと思いなし、ミリアはにわかに上機嫌になった。絶対に、兄妹ではない。他人だ。結婚のできる、他人だ。
ミリアはその思い付きが嬉しくてならない。
勢い込んで、そうだ、リョウが帰ってくるまでに夕ご飯を作っておこうと手を叩いた。そうして帰ってきたらすぐにご飯を食べられるようにしておこう。きっとリョウは喜んで、「ミリア、ありがとな。」なんて言ってくれる。
ミリアは早速先週大量に買ってきた安売りのジャガイモの皮むきを始める。今晩は肉じゃがだ。上手に作れればきっといい奥さんを貰ってよかったとリョウに思って貰える。だってもう、兄妹ではないのだから。ミリアは一人くすくすと笑った。
でもそれをリョウに納得させるためには数万円の遺伝子検査の料金が必要となる。さて、どうしたらいいのだろう。ミリアは切ったジャガイモとたまねぎ、人参、それに豚肉を投入すると、深刻そうな顔つきで腕組みし、考え込んだ。
すぐに鍋は煮立って、ぐつぐつという音を立て始める。
リョウに正面切ってお金をくれるよう頼んでみようか。――ダメだ。ミリアは首を横に振る。そこはサプライズにしなければならない。実は兄妹ではありませんでした、とその証拠をなんの前触れもなく見せたらリョウはきっと喜んでくれるに相違ない。そうしたら、本当に結婚しようと言ってくれるかもしれない。子供も二人欲しいね、なんて言ってくれるんではないだろうか。ミリアは妄想の世界に専念すべくうっとりと目を閉じる。そこにはリョウと小さな子供と三人で手を繋いで歩いている風景さえ思い浮かんでくる。
そのための数万円。
ミリアは自分のスマートフォンを使い、実際に遺伝子検査が幾らかかるのかを調べ始めた。様々な会社のホームページが出てくる。八万円、十万円、六万円、ただいま絶賛キャンペーン中で六万五千円、九万円、……ミリアは六万円の会社をじっくりと読み始めた。ユリの言った通り、口内の細胞を綿棒に取って送れば99%の精度の結果を郵送してくれる、と書いてある。リョウの口内の細胞をどうやって取ろうか。簡単だ。大口開けて寝ているんだから、寝ている最中にやってしまえばいい。ミリアは一人神妙そうに頷く。
しかし問題は六万円の方である。無論そんな大金は手元にあるはずもない。一個三十円のジャガイモを発見し、「ミリア! これを見ろ! これから毎日ジャガイモな! 覚悟しろよ!」と嬉し気に次々と籠に投げ込むリョウにだってあるはずもない。つまりは自分で稼ぐ以外にはないということである。でも、AVは嫌だ。リョウの命と天秤にかければそれは当然AVでも何でもやるけれども、遺伝子検査とでは比較にならない。ミリアは地道に仕事を紹介してもらう以外にない、との結論に達し、アサミに「お仕事なんでもよいのでください。もう学校はお休みになりました。三月に台湾公演行くまではずーっと暇です。よろしくお願いします。」とメールを早速送信した。
鍋の中からはいい匂いがしてきた。ジャガイモは飴色となり、ミリアは満足げに最後のさやえんどうを入れた。
ミリアは肉じゃがに鯖の味噌煮、わかめと豆腐の味噌汁を拵えテーブルに並べると、ソファに座り込み、これから始まる素晴らしき人生に思いを巡らせた。リョウと普通の夫婦になれるのだ。だってこんなに似ていないのだから。ミリアはうふふ、と微笑んで再びパソコンデスクのリョウの写真を愛おし気に眺めた。
そのまま気付けば夜中になっていた。いつの間にやらソファで眠りこけてしまったミリアは、帰って来たリョウに揺すぶり起こされる。
「おい、こんな所で何寝てんだ。」
ううん、とミリアは目を擦り擦り答える。
「あはは、お前、なんかいい夢でも見てたんか?」
ミリアは「何でわかんのー?」と呟く。
「そりゃお前、笑ってんだもん。寝ながらよお。変な奴。」リョウはさも可笑し気に笑った。
ミリアは自分の素晴らしき思い付きを思わず話してしまいそうになる。リョウとミリアが兄妹ではないという証拠が遺伝子検査で判明するのよ、と。そうしたら本当の夫婦になれるのよ、と。
「そうだ。ほらよ、貰ってきたぞ。お前マジで変な顔してんぞ。」と言ってパスポートを手渡す。表紙を捲ると、初めての証明写真に目を見開いたミリアの顔が張り付けられている。「うふふふ。」ミリアは思わず笑い出す。「変な顔」に笑ったわけではない。やはりリョウには似ていないと確信したためである。こんな変な顔はリョウは、しない。「おっかしいわねえ。」
「ねえ、これ食っていい?」リョウはテーブルに並んだご飯を見て言った。「腹減ってんだ。」
「当たり前じゃん。リョウのために作ったのよ。だってミリアは奥さんだもの。いい奥さんでしょう?」
「そうだな。」リョウはそう答えつつ茶碗にご飯をよそリ、テーブルに着いた。
ミリアは再び言ってしまいたくなる。遺伝子検査で本当の夫婦になれることを証明してあげるから、と。
リョウは旨い、旨いと言いながら次々にご飯を平らげていく。ミリアは満足げにそれを眺めた。自分も夕飯を食べていない気がしたが、何だか今日は胸が満ち足りでそれどころではない。
「これあのジャガイモだろ、マジで旨ぇな。三十円の味じゃねえよ。さすがミリアだな。」と言いつつリョウは肉じゃがを旨そうに頬張る。「こういうの食ってるとさ、何つうか力が湧いてくるよな。明日もしっかり働いて、社長に借金返してよお、お前の大学の費用も溜めてよお、そんで台湾の屋台で遊ぶ金も溜めてよお、って思えるよな。」
「そうなの。」ミリアはそう答えつつも、やはり六万円は自分でこっそりと貯めようと決意する。そして結果が出たらそれをリョウと手を取り合い喜び合うのだ。ミリアの胸中には沸々と希望が生まれて来て苦しいぐらいであった。