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朝の陽光が教室を満たす中、三十数人の生徒たちはじっと壇上の教師の話に耳を傾けていた。
「これが最終確認となる。」陸上部顧問を兼ねる壮年の男性教師は、そう大きく声を張り上げた。「来年度、高校三年次のコース選択は大学受験やその他進路に直結する問題だから、後悔のないよう、しっかりと保護者と相談し印鑑を貰った上で、再来週までにその希望調査表を提出するように。もし相談したいことがあればいつでも職員室にきてくれ。待っている。」
教師はそう言って朝のホームルームを終えると、教室を出て行った。緊張感が弛む。
「ミリアはどうするの?」プリントを凝視しているミリアの頭上からユリが声を掛けた。ミリアはうっすらと隈の生じた、うかない顔つきでユリを見上げた。
「早いよねえ、この間高校生になったばっかだったのに、もう大学だ進路だ、選ばなきゃいけないなんて。……ミリアは、文系? 理系? 私立? 国公立?」
ミリアは固く口を閉ざした。
「……カイトはどうすんの。」ミリアからの返事がなかったので、ユリは後ろの席のカイトに答えを求めた。
「理系。国公立。」ミリアの後ろから即答する声が響く。
「毎回学年トップの人は違うねえ。……私は私立文系コースにしとく。」ユリが苦笑しながら答える。「数学絶対無理だし、せめて文系三教科に絞って勉強したら、少しは成績マシになるかもしんないし。」
ミリアは相変わらず俯いている。ユリは心配そうにミリアを見下ろした。
昨今のミリアの様子は明らかにおかしかった。第一に顔色が悪く、家から一応持ってくる弁当もろくに食べていないようである。大体撮影前日にはスムージーだのなんだので食事を減らすとは言っていたが、それにしてもそれがこんなに長引くことはない。第二に学校が終わればいつもなら部活に出て料理を作り、ああだこうだお喋りに花を咲かせながら帰宅の途に着くのに、昨今は誰とも口をきくことなくさっさと教室を出て直帰してしまう。第三に、成績がすこぶる低下している。無論ユリだって人のことを言えた義理ではないのだが、授業中の小テストにはことごとく落ち、先日あった模試の結果もこちらが思わず瞠目するような数値が並んでいた。あまりに酷すぎる。そんなことがここ十日間ばかり続いている。
今日もひがな一日中、遥か彼方から聞こえてくる授業の言葉なんぞ相変わらず一つもミリアの耳に入ってこなかった。思い浮かぶのは全てリョウのことばかりである。
今日は何を晩御飯に持って行こうか。リョウがいっとう好きなのは、豚の角煮だ。けれどあれは何時間も煮込まなくてはならないから、作っていたらお見舞いの時間がなくなってしまう。ああ、圧力鍋というのがあればいいのに。先日、部活の時間でポトフを作った時に調理部の先生が持って来てくれた、あれ。ポトフは何時間も煮込む必要があるのに、ものの十分やそこらで美味しく完成した。あれがあったら……。先生に頼んでみようか。
リョウに美味しいものを食べさせたい。ミリアにとっては今、それだけがほとんど生きる希望となっていた。がんに侵されたリョウを救う術は何一つなく、でもずっとリョウのことを考えては胸を痛め、何も手につかないミリアにとっては。
リョウは角煮と、それからカレーも焼きそばも好きだ。それを毎日リョウに持って行けば元気になってくれるだろうか。がんは消えてなくなってくれるだろうか。そうして笑顔で家に帰ってきて、あたかも何事もなかったかのような顔をして、つい半月前までの日常生活の続きが送れれば他の何もいらない。
誰もいない、主のないギターばかりが鎮座している家は辛い。一人で食べる夕飯は味がしない。朝が来ても夜が来ても、リョウがいないのに勝手に時間ばかりがどうして過ぎるのかと、そんなことが憎らしくなってしまう。階段脇に停められたドラッグスター400を見るだけで、玄関に並んだ28センチのティンバーランドのブーツを見るだけで、静かに壁に掛けられたJacksonのKingVを見ただけで、ミリアの涙腺は刺激を受け熱くなった。
六時間の授業を終えると、ミリアは意気揚々と立ち上がり、誰とも口を利かずさっさと教室を出て行く。頭の中はリョウに持って行く夕飯のことでいっぱいである。
「ミリア!」遂に意を決してユリはミリアを呼び止めた。
ほとんど怒られているような態でミリアは無言でユリを見詰めた。
「どうしたの?」
抽象的な問いかけに、ミリアは再び身を翻す。「……帰らないと。」
ユリは慌てて自分の鞄を引っ掴み、ミリアと共に早足に歩き出した。
「どうして最近ずっとぼうっとしてるの? 何かあったの? どうして何も言ってくれないの?」放課後のざわめきにかき消されぬよう、それは叱咤の響きを含んだ。
ミリアは顔を強張らせる。
「進路のことが心配なの? 来年のクラス? それとも仕事? 何があったの?」
ミリアは昇降口の下駄箱の前で立ち止まった。そして初めてユリの顔を真正面から見据えた。ユリはその顔が青ざめ、細かく唇が震え出しているのに気付いた。唇がゆっくりと開かれるのを、緊張して見詰めた。
「リョウが入院してるの。……がんなの。」
一瞬だけ訪れた静寂のお陰で、ミリアの囁くようなその声が無事に聞き取れたことにユリは感謝した。
「がん?」
ミリアは忌わしいとでもいうように、その言葉から逃れようとでもするように、さっとしゃがみ込んで靴を取る。
「ミリア。」ユリはその手をしっかと握りしめた。
「うちのおじさんもね、がんって言われて、最初は余命一年って言われたけどそれがなんと五年前。今元気に都バス運転してるの。」
ミリアの瞳が信じられないとばかりにユリを射貫いた。それから無理な輝きが帯び出してくる。
「医学の進歩はすっごいからさ、がんって言っても、今はもう全然怖い病気じゃないんだって。それにね、おじさんの病室に従姉妹たちが毎日ひっきりなしに通ってたから。それで元気になったらしいよ。家族の愛情に支えられている人は強いんだって。」
ミリアの双眸から涙が零れ落ちた。ユリは慌ててポケットから取り出したローラアシュレイのテディベアの刺繍の入ったハンカチタオルを目元に宛がってやる。更にユリは靴を下に置いてやり、一緒に校門へとゆっくりゆっくり歩き出す。ユリは努めて笑顔で喋り続けた。
「おばさんがね、おじさんのためにがんの治る料理勉強してたの。今度聞いてくるね。いっぱい本とか買い込んでたから、それも片っ端からぜーんぶ、借りて来るよ。たしか、雑穀米とかビタミンとかがいいって言ってたかなあ。ミリア料理得意なんだから、それ作ってお兄ちゃんに持っていってあげなよ。何なら、今度調理室借りて一緒に作ろう? 先生に言えばOK貰えるよ? だって私、部長だし!」えっへん、とばかりにユリは胸を張る。
ミリアはハンカチで目を押さえながら肯いた。「圧力鍋、借りたい。豚の角煮を持っていきたいの。」
「任せて。……っていうかね、そういうのちゃんと教えてよ。正直、あんまり」そう言ってユリは下唇を噛んだ。「力にはなれないけれど、それでも私、ミリアのためにやれることは何だってやるんだから。私たち友達でしょ?」
「うん。……ありがと。」
ミリアは久方ぶりに頬を弛めた。
「ミリアは前々からそういう所あるけれど、何でも色々一人で抱え込むことないんだからね。」
ミリアは無言で肯く。ユリは一斉に出て来る生徒たちの中で不審げな目に晒されながらミリアの肩を抱き、そっと背を撫でた。
それからミリアは少しばかり力強くなった足取りでスーパーに立ち寄り家に着くと、制服のまま台所に立ち包丁片手に果物と野菜を切り刻み、ミキサーにかけた。今日は野菜のスムージーを持って行くのだ。ユリは、ビタミンが大切だと言っていた。リョウの病気がすぐに吹き飛んでいくような、リョウがすぐさまライブで咆えまくるような、特別のスムージーを作るのだ。
ミリアは久方ぶりの笑みを溢しながら、昔結婚祝いにシュンから貰ったミキサーを大音立てて回し始めた。小さくなったほうれん草の欠片が勢いよくぐんぐんと回っていった。