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リョウの病状もミリアの受験もひと段落付き、復活を果たしたLast Rebellionも年末年始に向けて多くのライブの予定を入れることとなった。肝心のリョウの髪も伸びて来て、人生二度目のエクステを付け真っ赤に染めれば、完全に元通りである。その日の夕、学校から帰ったミリアはリョウの姿を見て発狂せんばかりに歓喜し、幾度もリョウの回りを跳ね回った。
しかしリョウはなかなか例の新曲が完成せず、いつもどこか暗澹たる気持ちを払拭できなかった。曲の中にはあっという間に書けてしまうものと、下手をすれば何年も手を掛け続けてしまうものがある。後者になっては嫌だな、という気持ちがあるものの納得のいくアレンジにならないのだから仕方がない。毎夜ミリアが寝てからパソコンに向かう日々が続いた。
ある日曜日の夕方、ミリアが仕事を終えて帰ってくると、「今度のライブなんだけど……。」とパソコンに向かったリョウの後ろで、もじもじと足をくねらせた。
「何。」
「あのね、……RASEの雑誌の人が来て撮影しても、いいかって。」
「……別にいいだろ。そんぐれえ。」
「本当に?」ミリアはぐいとリョウの目の前に顔を突き出す。
リョウは身を仰け反らせながら、「でも何で? RASEはメタル雑誌に変わるんか? やるな!」と尋ねた。
「いつまでもファッション誌だわよう。……そんでね、ミリアの日常風景を、何ページか載っけたいんだって。高校生活最後だからって。だから今度制服も着て撮るの。」
「へえ、凄ぇじゃん。」
ミリアは照れ笑いを浮かべながら俯く。
「そんでね、ライブ、社長も観に来たいって。」
「そこは、お前VIP待遇だ。特別席を用意しねえとな! 任せとけ。……で、アサミさんは一緒じゃねえの?」あの仲のいいご夫婦はいつも一緒だったので、リョウは訝った。
「んん、今日現場来てくれたけど、ライブ来るとかは言ってなかったの……。」
「そうか、まあ、デスメタルは無理強いできねえからなあ。まあ、現場で会えるんならお前も寂しくはねえよな。」
ミリアは少々言いにくそうに言葉を継いだ。「……あのさあ、アサミさんさあ、……その、ね……。」
「何。どうした?」
「ううん。その……何か、ちょっと、その……。」
「どうしたんだよ。」
「太ったかもしんないの。」ミリアは意を決して言った。
リョウは目を瞬かせ、「別にいいだろ、太ったって。元々アサミさん細いし。ちっとぐれえ太った方が健康的なんじゃねえの。」と言った。
「ううん、全部太ってんじゃなくって、その……お腹だけ。」
リョウは黙した。
「だから、もしかしたら、その……、赤ちゃん、いんのかなあと、思って。」
リョウは目を瞬かせた。社長と結婚して早三年、妊娠したって何の問題はない。しかしこんなに身近で出産など今までなかったので、どうしたらいいのかわからない。どうしなくてもいいのであろうが、頭が真っ白になる。
「マジ、か……。お前、聞かなかったんか?」
「何て聞くの?」ミリアは縋るように言った。
「そりゃあ、直球……じゃあ、聞きにくいか。ほら、おめでたですか、とか何とか。」
「でも、ただデブっただけかもしんない。」
「だよなあ。……じゃ、あれだ、靴どうだった? アサミさんいつもハイヒール履いてんじゃん。ヒールねえやつだったら、すっ転ばねえ対策で、マジで赤ちゃんできたのかもしんねえよ。」
「靴……。」ミリアは首を傾げる。「アサミさんの靴……、覚えてない。」
「そうか。……でも、マジで妊娠ってなったら、あっちから言ってくんだろ。たしかに『腹だけデブったように見えますけれど、妊娠ですか?』なんて聞いて、違ったら失礼だもんなあ。」
「そうなの。」
そこにミリアの携帯が鳴った。
画面を見て、「あ、アサミさんからだ。」ミリアはリョウの顔を見詰め、深刻そうに肯き、受信のマークをタッチした。
「もしもし。……はい。うん、リョウ撮影入っていいですって言いました。うん、そう、六時半オープンで七時スタート。リハは三時ごろからやるの。いつもそんくらいにやるから。」ミリアはちらちらとリョウに助けを求めるように見つめた。
しかしリョウはミリアに何と言わせたらいいのか、見当もつかない。
「あの、……そんで、今日、アサミさんどんな靴履いてましたか。」
リョウはああ、と声を出さずに呻いた。何という質問なのだ。
「え? うん、そう。あ! ……ヒールない! ヒールないって、リョウ!」即座に共犯か。リョウはえい、と携帯を奪い取り、「いや、アサミさん、あの、すいません、ミリアがね、帰って来るなりアサミさんが、もしかしたら、もしかしたら、もしかすっとなんだけど、間違ってたらマジで失礼なんですが、怒んないでくださいね。その、……おめでたなんじゃねえかって、言い出してきて……。」ごくり、と生唾を飲み込む。
「あ、わかってしまいましたか。実は、そうなんです。まだ四か月で、安定期に入ったら皆さんにはお知らせしようと思ってたんですが……。」電話口からは恥ずかし気な声が返って来た。
リョウはぴん、と背筋を伸ばす。「マジですか! お、おめでとうございます。」
うわあ、とミリアが歓声を上げた。慌てて携帯に顔を寄せ、「アサミさん、おめでとう! おめでとう! 男の子? 女の子?」と怒鳴った。リョウは代わってやる。
「へえ、まだ、わっかんないんだあ。でもどっちでもいいよね、元気だったら。うん、……ミリアも、そう思う。」ミリアは、興奮気味にその後暫く喋り続けた。
ミリアには姉も親戚もいないので、妊娠だの出産だのが珍しくて仕方がないのであろうと微笑ましく思ったが、リョウはそう言えば、この前、ミリアが自分との間に子供が出来たらどうするなどという戯言を口にしていたなあ、ということをふと思い出した。
自分はバンドマンとして生きていくことを決意した時点で、結婚だの子供だのということは完全に人生から放棄したのであるが、ミリアは果たしてどうなのだろうか。そもそもミリアにバンドでギターを弾くことを押し付けたのはまだ小さな子供の頃であったのだし、ミリアはそれに伴って人生においてどの程度の犠牲が払われるのかを考慮する時間もなかったのである。もう一度、きちんと、自分で人生において何を選び何を選ばないのか、熟慮させる必要があるとリョウは思った。
そうしたならば、普通の女の子はいつか結婚し子供が出来て、というのを思い描くものではないのだろうか。事実、ミリアは結婚式だ、ウェディングドレスだというのに憧れを抱き、敢行したのである。それより先は全く白紙、などということがあろうか。ましてや、――ちら、とリョウはミリアを眺めた。
「お腹重たくないの? 気持ち悪くもならない? あ、そうなんだ。……赤ちゃん生まれたら、ミリアにも抱っこさしてもらえる? 本当に? ありがとう! 社長は何してんの? ええ? そうなの? ……お仕事なんてどうでもいいのにねえ。」などと頬を紅潮させながら頻りに喋っている。
リョウはふと胸中に罪悪感のような痛みを覚え出した。ミリアにはやはり女として、母親としての喜びを無意識裡に得たがっているのではないか。それが自分と天秤にかけられるものであるということに気付いた時には、それは一瞬惑い、躊躇するかもしれないが、それでも女として生を受けた、一度きりの人生なのである。ミリアが己の母性を隠蔽し続けて生きることは、非常な困難が伴うのではないか。
いつまでも盲目的な恋情にほだされ、自分と共にいることを前提としてではミリアはそういう当たり前の幸せを掴めない。まだこれから大学生となるのだから、むこう四年間はいいとしても、もし、どこぞの男と恋仲になり、そして結婚したいと言い出した日には、心から祝福してやろう。そしてその際に自分が父親代わりとしてできることは何でもしよう。
リョウはそう決意したものの、しかしどこか寂し気な微笑みを浮かべ、再びパソコンへと向き合った。