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だからミリアが病院を出たのはリョウが出された夕食を(ミリアと分け合って)食べ終え、消灯となった時間であった。ミリアはふたたびとぼとぼと病院を出て、しかし今度は振り返らなかった。なぜならそれはリョウとの約束だったから。
「早く帰って宿題やって寝るんだぞ。今のお前には勉強とギターが一番大事なんだから。な、だからまたそこ出た所で戻ってきちゃ、ダメだ。明日おいで。な。」
ミリアは必死に口元を抑え、泣き声を押しとどめながら早足に帰途へ着いた。
どうして横にリョウがいないだろう。どうしてリョウと家に帰れないだろう。がんなんかのせいで、一日の半分も一人ぼっちになってしまった。家に帰っても誰もいない。
リョウとご飯を作って食べたい。リョウとギターを一緒に弾きたい。リョウの作る曲を誰より先んじて聴きたい。リョウと寝たい。リョウに抱きしめてほしい。そんなことばかりが次々に想起する。
頭を左右に振りながら、次々と浮かび上がる思念を振り払うようにしてミリアは家に着いた。鍵を開ける手が震える。扉を開けてそこが真っ暗なのに、全てが圧し潰されそうな気がしてミリアは堪えていた嗚咽を漏らした。もう、いいだろう。誰も聞いてやいない。リョウ、リョウ、ミリアは一人リビングをうろつき回りながら頻りに泣き喚いた。ギターしかない。布団しかない。茶碗しかない。主のリョウがいない。
ミリアはソファに身を投げ出し、わあん、と泣いた。するとその時ポケットに入れておいた携帯電話がIN FLAMESの『COLONY』を奏で出した。ミリアは震える手でそこに写し出された名前を見た。--シュン。
「……もしもし。」涙を拭って振り絞った声はしかしくぐもった泣き声であった。
「ミリアか。」シュンの声は焦燥していた。
「今リョウから聞いた。お前、大丈夫か。」
ミリアは逡巡し、そしてシュンならいいだろうと答えを出す。「ダメ。……リョウがおうちにいない。70%しか、生きられない。どうしてなのどうしてなの!」言葉にすると酷くそれは残忍な響きを有していた。再びミリアは泣きじゃくった。
「今仕事終わった所だから、お前んち行くよ。待ってろ。家だろ?」
「うん。」配慮のできる心の余裕は最早喪失していた。ミリアはとにかく縋りたかった。
「あと十分ぐれえで行くから、な、待ってろ。」
しかしシュンが勢い込んで二度も三度もインターホンを鳴らしたのは、僅か五分後のことであった。ミリアは重苦しく鍵を開け、そこにシュンの顔を認めた瞬間、双眸から大粒の涙を流した。
「おお、よしよし。」シュンはそう言って大仰にミリアを抱き締めてやる。「辛かったな。でもな、戦いは長い。飯を食わねえと人はぶっ倒れちまう。ほら、中本行くぞ。」有無を言わせず、シュンはミリアの手を引き玄関に置いてあった鍵を勝手に締め、階下に停めていたトヨタの86のドアを開け、ミリアを助手席に押し込み車を発進させた。すぐさまKALMAHが流れ出す。この間リョウと一緒に行ったライブが思い出される。あの時も帰りにはラーメンを食べに行った。「リョウ! リョウ!」ミリアは再びわんわん泣き出した。
「おお、泣け泣け。ペッカ・コッコとどっちが悲痛の声を上げられるか、いい勝負だ。ミリア負けんな。」
ミリアは負けじと更に大声上げて泣き出す。
そういえば昔、リョウの元に来たばかりのミリアは虐待の傷のたまえか、声を上げて泣くことはおろか、表情さえろくになかったのだとリョウから聞いたことがある。そう思えば大泣きするのは少々高校二年生にしては幼い向きもあるが健全だとも言える。シュンはほくそ笑みながら国道をひた走った。
「さあ、着いたぞ。何が食いたい。」
ミリアは入口に置かれた券売機を前に、目を腫らしながら黙っている。
「じゃあ、これな。」シュンは勝手に味噌タンメンの食券を買い、どっかと空席に腰を下ろした。飯が運ばれてきたら卵はミリアにくれてやる。それがいつものリョウのふるまいだった。リョウがいない今、代役ができるのは自分しかいない。とかくリョウを誰よりも愛し、唯一無二の存在として崇め奉っているミリアだ。その喪失感たるや想像するにも余る。せめてそこを軽減させてやらねばならない。シュンは決意を込めて肯いた。
「お前が元気な顔見せてやんねえと、リョウも治るもん治らねえぞ。しっかりしろよ、お前、奥さんだろ。」
「お待ちどう」と、氷水がどっかと目の前に置かれた。からんころん、とぶつかり合う氷の涼し気な音を聴きながら、ミリアはこっくり肯いた。
「ミリア、奥さん。」
「そうだろが。中学生の分際で結婚式挙げたのはどこのどいつだ。お前、法律違反だかんな。わかってんのか。でもそこまで行き着いたんだから、こういう時こそなあ、どーんと構えて、あなた、大丈夫よ。私がついてるわ、って言うもんだぞ。大和なでしこは。」
「大和なでしこ?」
「そうそう。日本の、理想的な奥さんのことな。」
ミリアの目に意志のような光が宿ってくる。
「お前がそんな面してたらリョウは心配しちまうだろう。なんだかんだ言って、あいつはお前のことを愛してんだからよう。でも今は自分の病気治すのに専念さしてやらねえと、ダメだ。」
「……ごめんなさい。」ミリアが再び口元を歪め泣きそうになるのを、慌ててシュンは「いや、謝ることじゃねえけどな! お前がな、お前が傍にいてくれるからリョウは頑張れるんだぞ。お前は偉い。かわいいし、美人だし、ついでにギターも巧いし料理も旨い! 堂々と構えてリョウを支えてやれよ。」店内のざわめきに掻き消されぬようシュンは大声で言った。
「……うん。」ミリアは顔を強張らせて肯いた。
「お待ちどう。」と目の前に今度は湯気を立てたタンメンが置かれた。
「ほら、食うぞ。がつがつ食って、明日からの戦いに備えよう。」シュンがミリアの背を勢いよく叩いた。そしてさっさと割り箸を割って卵を取るとミリアのタンメンに乗せてやった。ミリアは驚いてシュンを見上げた。
「お前ひとりの戦いじゃねえからな。俺がいる。」そう言ってシュンはにっこりと微笑んだ。
色濃い卵が二つ、麺の上にぴったりと重なった。