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今日ほど色々な人よりおめでとうと言われたのは、結婚式以来だとミリアは一人しみじみと首肯する。
逐一休み時間毎に他クラスどころか他学年からもミリアの大学合格を聞きつけた生徒が引っ切り無しに訪れ、その対応に大忙しであったのである。今まで喋ったことのない生徒までも、あのモデルの黒崎ミリアと話のできるチャンスとばかりやって来て、終いにはユリが教室の出入り口でお祝いを直接言っていい人とそうでない人との取捨選択をし始めるという始末であった。
「あんたは有名人なのよ。あんたの中身が気に入って、っていう理由じゃなくって、雑誌に載ってる有名人だから友達になりたいって考えてる奴がいーっぱいいるのよ。」
ユリはココアのパックを手に机に行儀悪く足を組んで座りながら、幾分枯れた声で言った。
「ああ、喋り過ぎて喉ガラガラ。」
そう愚痴をこぼす夕暮れの教室には、さすがに人影はなくなっていた。
「でもねえ、ちゃんと友達は選ばなきゃ。あんたはなまじっか純粋だから誰それ構わず来た者は拒まずで対応しちゃうでしょ。それだと、これからはダメ。」
「そう?」ミリアは頬を窄めて、オレンジジュースをちゅーと吸い込んだ。「みんないい人だわよ。教室来る人も、ライブ来る人も。」
ユリは深々と溜め息を吐く。
「私はミリアがいいように利用されちゃわないか、心配だよ。いつまでもお兄ちゃんが側にいてくれる訳じゃないんだからさあ。お金貸してくれとか言われたことない?」
「うち、貧乏だもの。」
ミリアは即答する。
「リョウはバンドマンだから今も昔もそれから未来も、ずーっと、貧乏だし。だからね、スーパーはあすこの……、駅の裏っ側の、業務用スーパー行って半額シール付いてるのばかし買ってくんの。リョウとどっちが早くいいの見っけられるか勝負なの。超楽しい!」ミリアはそう言って飛び跳ねる。
「そう、なんだ……。」ユリは目をぱちくりさせる。一つも悲壮感のない貧乏自慢に一瞬羨望が沸き起こるのを我ながら不思議に思った。
「ともかく、変な奴が近寄ってきたら、相手しなくていいんだからね。ここぞとばかり『黒崎さんおめでとう』なんて言って来たって、『どうも』ぐらいで返しておけばいいんだから。今日みたいに何年何組の誰々ちゃん? みたいに一々対応しなくってさあ。きりないよ。」
「でも雑誌読んでくれる子とかもいたし。ミリアは知らないのに勝手に知られてるなんて、何か変な気持ち! そんでリョウの曲聴いてくれたらもっともっと嬉しいな。」
「ギター、毎日弾いてんの?」
「そう。」
「辛くない?」
「全然。」ミリアは美しい横顔を見せながら答える。
「小さい頃からずっとやってんでしょ? イヤになったこととか、ないの?」
「ない。」ミリアは即答する。
「大したもんだね。」ユリは肩を窄めた。
「だってリョウの曲弾くんだもの。人の曲じゃないし。」
ユリは目を瞬かせる。
「リョウの曲は、リョウの曲だけは、誰よりも一番理解して弾きたいから、全然辛いなんて思わないよ。」
「……本当にお兄ちゃんのこと、好き、なんだね。」
「そうだよ。だから結婚してんだもん。」ミリアはつい、と左手を指先まで伸ばしたまままっすぐに上げ、薬指にはまったダイヤを夕焼けに煌めかせた。
ユリは苦笑する。「正直さ、最初その指輪のこと聞いた時、ちょっと、……気持ち悪いって思ったけどさあ。……否、だってお兄ちゃんと結婚するなんて、あり得ないじゃん。そんなの聞いたことないし。だったらどれだけカイトの方がマシかとさえ思ったけどさあ、なんかミリア見てるとどうでもよくなるね。」
「どうでも?」
「そ。ミリアが好きなんなら、誰とでもくっついてればいいって思う。」
「うん。誰にゲロ吐かれても平気。絶対リョウが好きだから。」ミリアは平然と微笑んだ。
ユリも釣られて安堵の笑みを浮かべる。両親不在で兄と二人暮らし、という時点で普通ではないのである。
しかもちら、とミリアが以前語ったところによれば、実父は他界し、母はどこぞに別の家庭を持っているということである。そして誰も今更口にはしないが、この妙な舌足らず言葉足らずな話し方は、幼少時代に真っ当な教育を受けていない証に思える。
ミリアが兄に過剰ともいえる恋慕の情を寄せているのは、そういった様々な遠因が重なった結果にも思える。でもいいのだ。ユリはあえてそっぽを向きながら「そろそろ帰ろうか。」などと言いつつ、鞄に教科書を詰め込み始めたミリアの顔をじっと見下ろした。雑誌を飾っては同世代の女の子たちが挙って憧れる、綺麗な顔立ち。貧乏であるのかもしれないが、そんな影や苦悩を一つも感じさせない(実際に感じていないのであろうが)、幸福に満ち満ちた顔をしている。
ユリは思わずミリアの頬にひた、と掌をくっつけた。ミリアは驚いて見上げたが、何を思うのかくすりと鼻で笑って、「早くおうち帰って、ギター弾こ。」と歌うように口ずさんだ。
一日中大騒ぎしすぎて枯れた喉を張りながら、「ただいまただいまただいまー!」と大声上げ、玄関を開ける。するとそこにはピンク色のハート型のバルーンが幾つも浮かんでいた。ミリアは一瞬たじろぎ、部屋を出、扉をそっと閉め、そこに掲げられた古びた部屋番号をまじまじと凝視した。間違いはない。自宅である。瞬きを繰り返す。
「合格おめでとう、お嬢ちゃん!」勢いよく扉を開け現れたのはユウヤである。
ミリアはあっと息を呑み、「ユウヤ! 何でいんの!」と口元を抑えた。
「そりゃあ俺の可愛い教え子の大学合格祝いだもん! そりゃあ駆け付けるしかねえだろ!」そう言ってミリアの腕をぐいと引き寄せ部屋に入れる。そこにはきらめくバルーンがやはり幾つも上がっていた。
「うわああ。」ミリアの声は震えていた。
「ミリア、おめでとう。よく頑張ったなあ。偉いなあ。」そのうちの一つにぶら下がった紐を引き寄せ、ユウヤはそれをにっこりとミリアに手渡す。
「これ、これ、どしたの?」
「どしたのって、そりゃあ、バルーン屋で買ってきた。」
よく見れば紐の端にはメッセージカードが付いており、「ミリア、大学合格おめでとう」と書かれている。
「うわあああ。」ミリアは再び感嘆の声を上げた。
「これ絞んじまったら中のやつ、取り出してやってな。」
ミリアは天井に浮かんだバルーンを見上げた。テディベアにバラのブーケ、一つ一つのバルーンにはそれぞれ色々なものが詰まっている。しかもどれもこれもミリアの大好きなものばかりである。猫のぬいぐるみ。それは小、中、大とある。それから金色の包み紙のチョコレート。スワロフスキーのキラキラ輝くリップケース。小さな手鏡。
ミリアはそれに手を届かせんと、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「どうしたの、こんなにいっぱい、わあ、すっごい! こんなキラキラ、こんなきれいなの見たことない!」
「そうだろう、そうだろう。お前の夫は女心がわかってねえからなあ。」
そこにリョウがバルーンを掻き分けリビングからぬっと顔を現した。「ったくよお、んなふざけたもん大量に持ち込みやがって、メタラーの神聖なる空間を汚しておいて、なあにが女心がわかんねえだ。クソが。」
「でも綺麗なの! キラッキラ! 見てみてこの猫ちゃん、白いの! すっごい可愛い!」
リョウは口角をぐいと下げて、中へと入る。「わかったよ。とっとと着替えな。」
「うん。」ミリアはその白猫の入ったバルーンと、その他三つばかり引き寄せて、リビングに入る。
「ありがとう、ユウヤ! すっごい可愛い! この猫ちゃん、ミリアの友達とすっごい似てんの! でもお金かかったでしょう? こんなにいっぱい……。バルーン屋儲かっちゃったねえ。本当にいいの?」
「当たり前だろ。お前の好きそうなモン全部ぶち込んで、バルーン作ってくれって頼みにいったんだかんな。あっはははは。にしても、こんなに喜んでくれるとはなあ! 大学入ったらうんと遊べよ。サークルに、合コンに、バイトに。何でもありだからな。」
リョウが眉を顰める。「ご、合コン? ……バンドはどうすんだ。」
「んなの片手間片手間。何せ大学時代っつうのはこの世の春なんだからよお。バンドばっかに縛り付けんなよ、兄貴!」
「ミリア、バンドとバイトはやるけど、いっくらなんでも合コンはしないわ。だって結婚しているもの。」ぐい、とユウヤに向けて拳を突き出す。左手の薬指にはダイヤが輝いている。
「そうか。……モデルとかやってりゃクソモテまくって、男ども幾らでもたらしこめるのになあ、もったいねえなあ。」
「クソみてえなこと言ってんじゃねえぞ。つまんねえ男に時間使ってる暇あんならギター弾かせるに決まってんだろ。お前、バンドマンに必要なものは何だ。男たらしこめるテクニックじゃねえからな。挑戦の気概と向上心がなけりゃあステージなんざ立たせん。」
「そうよねえ。」ミリアはうっとりと同意する。
「っかー、相変わらず頭固いな。」
ミリアはうふふ、と微笑んでバルーンを抱え寝室へと戻り、着替えを始める。「ねえねえ、今からお夕飯作るからさあ、ユウヤもいてね。何か久しぶりだわね。中学ん時家庭教師してもらった時は、いっつも一緒にご飯食べてたのにねえ。なんかねえ、嬉しいわねえ。」ごそごそと着替えながらミリアは言葉の端々に嬉しさを滲ませる。
「そうか、悪ぃな!」
「だってあんなにきれいな可愛いものばっかりくれて。お返しの贈り物はできないけれど、お料理ぐらい食べてって頂戴よ。ミリア、がんが治る料理上手なの。」
「俺はがんじゃねえからな。」
「俺だってもう治ってんだよ。」リョウは粥ばかりの恐るべき食事を思い出し、ぞくりと肩を震わせる。
「おかずになるもの、何かあったかなー。」ミリアはジーンズにパーカーという出で立ちでいそいそと台所に戻って来る。冷蔵庫を開けて、中を厳しい眼差しで見詰める。そこに並んでいるのは半額のシールの付いた挽肉、大根半分ねぎ半分、たまねぎ、人参。萎びそうな三つ葉。
ミリアは暫くオレンジ色の光に顔を突っ込みそれらを凝視しながら「ハンバーグにしよう。」とひとりごちた。ハンバーグはリョウの好物でもある。和風にして大根おろしをリョウのには特別たっぷりかければ消化にもいい。
「決ぃめた。」ミリアはにっこりと微笑んだ。
リョウはCODEONの『SOURCE』を流し始めた。「何かあいつのキラキラ風船見てたらキラキラ聴きたくなってきた。」
ユウヤは腿を叩いて哄笑した。