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「先生!」
職員室の扉を大音上げて開け放つ。朝日に満たされる中、授業の準備をしたりコーヒーを啜ったりしていた教員たちが慌てて瞠目する。ミリアは一切構わずに朝練から戻って来たばかりの、幾分顔を上気させたジャージ姿の担任教師の元に一目散に駆け込んだ。
「先生! 先生! 大学合格しました! 合格! どうもありがとうございました!」
「おお!」担任教師はガッツポーズを取る。「やった! やった! やったじゃないか!」ミリアに負けない程の大声である。次いで職員室のあちこちから拍手が上がった。
「黒崎さん、おめでとう!」調理部顧問の女教師も、頬を紅潮させながら駆け寄ってくる。
「本当は昨日、お電話したかったんですけれどリョウと、……兄たちとお祝いしてて! でも今日一番に言おうと思って!」
「おめでとう!」昨年度の数学の教師、世界史の教師、生物の教師、情報の教師と、ミリアはあっという間に多くの教員に囲まれた。
「ありがとうございました!」ミリアは髪の毛をぶんぶん振り回しながら四方八方を向いてお辞儀を繰り返し、「私、立派な大学生になります。その前に来年、バンドの海外遠征にも行ってきます!」と高らかに宣言した。
「え、そうなのか。」担任は目を瞬かせる。
「うん! 三月になったら台湾に行って演奏するんです! あのねえ、初めての海外遠征なの! 言葉も文化も違う人がねえ、それでもミリアたちを待ってるんです! 今日から死ぬ気で! 死ぬ気で! 練習するの、ギター!」
「三月、……じゃあ、もう自由登校になってるか……。」担任はそう言って一人頷く。「気を付けて行ってこいよ。」
「黒崎さん、おめでとう。これからも色々頑張ってね。」調理部顧問の女教師がそう言ってそっとミリアの左手を握りしめた。気なしか瞳は潤んでいるように見えた。
「初めてあなたに会った時、……とっても可愛らしくてお料理の大好きな子だと思ったけれど……その、大学生に合格するのは難しそうな気が、正直、してたの。本当に良かった。」
「私も大学生になれるとは思っていませんでした!」ミリアは意に介す様子もなく、はきはきと答える。「だってお料理で大学入れるなんて思ってなかったですもん。しかも、プレゼン? テーション? は、リョウががんで入院しなかったらできなかったやつだし! それに、先生にいっぱい練習してもらったから、受かったんです。先生、ありがとう!」ミリアは女教師を抱き締める。
「黒崎、その……お兄さんは……?」担任教師は眉根を寄せ尋ねた。
「うん! 昨日検査だったんです。体ん中隅々まで見て貰って。でも何ともないって! がんの欠片もないって!」
「良かったじゃないか!」今度は担任教師がミリアの右手を力強く握りしめる。「これで、これで、……心置きなく海外でも大学でも飛躍していけるな! 凄いじゃあないか! いやあ、楽しみだ! 黒崎は俺の誇りだ!」
「はい。ありがとうございます。」ミリアはそう答えると、再び周囲の教員たちに一人一人盛んに頷いてみせた。そしてふと思い出したように話し始めた。
「ミリア、ここに入るのも本当はむつかしくって。中学の時全然勉強しなくって、授業も聞いてなかったから、0点ばっかで高校生にもなれないって言われてて。でも、リョウが……兄が見っけてきた家庭教師がまいんち来て勉強教えて、そうしてちょっとずつ勉強できるようになって、この、S高校に入れたんです。本当はそれで満足だったんですけど、リョウが……兄が、大学生になれって言って。そんなの無理って思ったんだけれど、先生が勉強じゃない方法でも受験できるって教えてくれて。ミリアはお料理が好きだから、それで受験しようって言ってくれて。いっぱいその稽古もつけてくれて……。」ミリアの声は震え出した。「ミリア、本当にここの高校来てよかった。」
「黒崎。」担任教師の声は幾分震えを帯びていた。「教室行って早くユリたちにも報告してやったらいいんじゃないか。まだ教室行ってないんだろ?」ミリアの抱えている鞄を見ながら言った。「昨日は学校来なかったし、みんな結果どうだったかって心配してたぞ。あと、クラスは違ってしまったけれど、三枝にも……。」
「はい。行ってきます。先生、どうもありがとう。今、すっごい幸せです。」ミリアは再び勢いよく頭を下げると、踵を翻し今度は教室へと走っていった。
「良かったですねえ。畑中先生。」そうしみじみと語りかけたのは、十年以上もS高校の教頭を務めつつ、未だに多くの教室に顔を出し授業も担当している大西である。もちろんミリアとは直接的な接点などないが、入学時に中学からの申し渡しとして分厚いレポートが舞い込み、実父より虐待を受けていたがために言語能力が低く、度重なるカウンセリングを行ってきたもののその向上が見込めないこと、両親不在の兄との二人暮らしであること、経済的に厳しいようでモデルの仕事をしていることなどを、溜め息つきながら読んだのをはっきりと覚えている。それを読み、担任教師として、ベテランという域には達さないものの、教育熱心なことで生徒からの信頼も厚い、中堅の畑中を就けたのは何を隠そう、自分であった。
「いやあ、あの子がよく受かりましたよ。J女子大にねえ。モデルやっているから、パンフレットにでもするつもりで、合格させたんでしょうかねえ。」一年ばかりミリアの情報を担任した若手教員が、皮肉気な笑みを浮かべながら言った。「それとも、今年は受験生が集まらなかったのかな。倍率、どうだったんでしょうねえ。」
「昨年は三、四倍はありましたからね。そこそこある人気のある大学ですよ。学部も目玉にしている所ですしね。」畑中は明らかに不機嫌そうに言い放った。「でも、黒崎は毎日真剣に練習していましたよ。今は興奮してあんな喋り方でしたけれど、面接練習では一言一言しっかり叩き込むようにして、普通の喋り方ができるようにして臨みましたから。顧問の奈良先生も専門知識を得させるために、何日も付きっきりで面接指導してくださいましたからね。それより何より、」畑中教師はふっと口元を緩ませた。「たった一人の家族であるお兄さんががんになってしまって、自分が手作りの夕食作って持って行って、それで栄養つけさせて復帰させるんだって、昨年度必死に戦っていましたよ。それを面接と志望理由書でアピールしたんです。否、見事なメニューでしたよ。病状だの食欲だの、治療内容に合わせて毎日スープを作って持って行って。相当本も読みこんでいましたし。彼女の真剣さが伝わったんです。」
「なかなかあそこまでできる子はいませんよ。」顧問の奈良も参戦してくる。「本当にお兄さんを治したい、って。自分は医学の知識もないし、料理でしかお兄さんをさぽーとできないけれど、できる限りは何でもやるって。毎日お兄さんがこれだけ食べたとか、これが美味しいと言ってくれたとか、口内炎で全然食べれなかったとか、細かい反応なんかも毎日記して……。」
「そう、ですか……。でもあの子、お兄さんと結婚してるって、回りに言っているみたいですよ。」情報教師が不審げに呟く。「今もしてた指輪? あれ生徒の間でも結婚指輪だって噂になってるみたいで。お兄さんって実の兄妹なんですかね。」
「ああ。」畑中は苦々しく肯いた。
「自分がモデルやってる雑誌にも、お兄さんがタイプだとか何とか公言したみたいですよ。一体どうなんですかねえ。」
「生田先生。」そう低く言を発したのは教頭である。「あの子は親から酷い虐待受けて育って、そこをお兄さんが救ってくれたんですよ。本来だったら施設行きになるところをですね。それで今はお兄さんと二人で暮らしています。だからあの子にとってお兄さんは特別な、唯一無二と言っていいほどの存在なんです。変に訝ることはないですよ。」
「黒崎は本当に努力家です。前にあの子がお兄さんたちとやっているバンドのCD貰って、……まあ、さすがに一般的なジャンルではなかったですけれど、黒崎のギター、とてもとても高校生とは思われないプレイでしたよ。いつからやってるんだって聞いたら、小学一年の頃からずっと弾き続けてるって。お兄さんギターの先生やってて、それで教えてもらって。毎日欠かさず弾いているらしいんですよ。」
「良かったじゃないですか。」再び教頭がミリアの去っていった扉の方を見据えながら言った。「ああいう子が報われて私は嬉しいですよ。……たしかに勉強は不得手かもしれませんが、自分の夢に向かって前向きにとことん努力が出来る。それにそういう特殊な環境で育った子が成功すれば、同じような子たちの励みになるんじゃないんですかね。今多いじゃないですか、虐待の問題というのは。是非黒崎さんには、どんどん生き様を発信してもらいたいですよ。うちは決して難関校に合格者をバンバン出せるような、上位の進学校ではないですけれど、生徒のそれぞれの特性を見出してやって、それを生かして社会貢献をさせていく。そういう教育をしていくのが、我がS高校の使命なんじゃないんですかね。私はそう思って、ここで十年来努めてるんですよ。」
畑中は瞼が熱くなるのを覚えた。校舎のどこかから遠く、歓声の上がったのが聞こえた。