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四人は興奮冷めやらぬまま階下へと降りた。
「あ、待って!」ミリアはエレベーターが一階に到着するなり、慌てて駆け出した。向かった先は床屋である。
「おじちゃーん!」既に出張中の紙は取り払われている。早速扉を開け放ちミリアは怒鳴った。客のいない店内でベンチに腰掛け新聞を広げていた床屋の主人は肩をびくり、と震わせ振り返った。
「おお、お嬢ちゃん!」
「リョウね、リョウね」声を震わせながら一歩一歩ゆっくりと、踏みしめるように近づいていく。「大丈夫だったの! 再発、してないの!」
「そうか!」主人は立ち上がった。するとミリアの後ろからぞろぞろと三人の男たちが入ってくる。
「世話んなりました。」リョウはそう言って頭を下げた。
「おお、あん時のお兄ちゃん! 良かった良かった。」主人はリョウに歩み寄り、かさついた手でリョウの手を柔らかく握った。
「いやあ、あん時は抗がん剤治療入る前で色々不安で。励ましてくれてありがとうございました。とりあえず今回の検査では再発もなくって……。」
「そうかそうか。」主人は俯いて頻りにリョウの手を固く握りしめ、肩を震わせている。もしかしたら泣いているのかもしれない、と思えばその純粋なる同苦の心にミリアははっとなった。
「……ここに店構えて、こういうのが一番嬉しいんだよなあ。ああ。」その声は歓喜を滲ませて皺がれていた。
「おじちゃん。べそかいてんの?」
「あははは。べそかいちゃったなあ。年取ると涙腺が弱くなって。」主人は恥ずかし気に顔を俯かせたまま暖簾を掛けた奥へと入り、「ちょっとそこで座ってて。」と告げた。即座に奥からちーん、と鼻をかむ音が聞こえ、三人は椅子に腰掛けたまま暫く待っていると、主人が不器用そうに急須に湯呑を五つ、盆に乗せて持って現れた。
「いや、ねえ。ろくなもんがなくって。」と言って大きな煎餅を一枚一枚配り、椅子に座らせる。
主人は小さな台の上に急須と湯呑を置いて、こぽこぽと温かな湯気を立たせながら茶を注いでいく。
「ああ、こんなことになるんだったらねえ紅白饅頭ぐらい用意しといたのに。」
「紅白饅頭?」ミリアが繰り返す。
「そうそう。昔はね、赤子が生まれたり家建てたりしたら、近所に紅白饅頭配って歩いたの。お兄ちゃんが再発しなかったんだから、そんぐらいしたかったんだけどねえ。」
「そうなの!」ミリアは嬉し気に微笑む。
「お兄ちゃんはまた髪、うんと伸ばすの?」今度はリョウに尋ねた。
「ええ。バンドマンすからねえ。また腰ぐれえまでは、いきたいなあ。」
「じゃあ暫く切れないねえ、残念だ。」
「ミリアの髪切って。」ミリアはさらり、と髪の毛を手で靡かせる。「おかっぱにしてもらう。」
「いやいや、女の子の長い髪は街中の洒落た所行って切ってもらいな。」
「ふうん。」
「こいつ、こう見えて雑誌モデルやってるんすよ。」シュンが面白そうに言った。
「へえ!」主人は頓狂な声を上げる。「まあまあ。どうりで可愛い子ちゃんだと思った! 何々、芸能人だったのお。」
「そんなんじゃないわ。」ミリアはむず痒そうに答える。「ただ……、お写真撮ってもらってるだけだし。まだ三年ぐらいなの。」
「いやあ、大したもんだ。」
「おじちゃんはずっとここでお店やってんだから、おじちゃんのが大したもんだわ。」
「ありがとうよう。照れるなあ。なかなかそんなこと言ってもらったこと、ねえや。」
「だってねえ。これからがんと戦う人が髪の毛ハゲちゃって悲しまないように、髪の毛切ってあげてんでしょ? 偉いわねえ。」
「お医者や看護婦みてえに病気のことわかるわけでもなし。でもがんだって宣告されてがっくりきちまってる人の話を聞くぐれえはできる。おじさんの仕事は、頭刈ることもそうだけど、そういう、お医者とか、家族、友達とかには言えねえことをね、ぜーんぶ聞いてあげることなんだよ。そういう人って必要だからねえ。」
「たしかに。」リョウは茶を啜りながら言った。「不安抱えてる人が安心して弱音を吐ける場ってのは、必要すよね……。」
ミリアは悔し気に鼻を鳴らした。「おじちゃん、……立派なのね。」
「いいやいいや。おじさんだって若い頃からずっとここにいた訳じゃねえし。……おじさん、こう見えてもねえ、若い頃は東京の一等地で働いてたんよ。ビジネス街でねえ。毎日毎日エリートサラリーマンの頭刈ってねえ。……そりゃあ朝から晩まで忙しく働いてたんだけど、ある日腎臓悪くしちまってね。そんで一旦奥さんに食わしてもらうことになっちまって休業。……でも倅は大きくなる、金かかる学校にも行かしてくれってなる。そんで必死で体治して。そんで昔のお客さんがここの院長先生に推薦してくれて。ここで店出す話貰えて。そんで三十過ぎてからずーっと、ここにいんのよお。」
「そうだったの。」ミリアはじっと主人を見詰めた。
「だからねえ、ちょっとはねえ、病気の人の気持ちもわかるし。だから自分のそういう経験がねえ、ここでなら生かされるんよ。だからもう街へは戻りたくないねえ。街で店やれる人はおじさん以外にもいっぱいいるから。でもここで患者さんの話聞きながら頭刈れんのは、おじさんだけだって思ってるよ。あはははは。自惚れだけどねえ。」
ミリアは暫く動けなくなった。この主人に親しみを感じるその理由が今、はっきり解された気がして。それはすなわち――、
「おじさん、リョウとそっくりだわ。」ミリアの気持ちを代弁するように、シュンが感心しきりとばかりに呟いた。
「あっははは。このお兄ちゃんとそっくり? そりゃあ嬉しいや。こーんな男前とねえ。」主人はそう言ってリョウを眩しいものでも眺めるように見上げる。
シュンはぷっと噴き出して、「いやいや、さすがに見たくれがリョウとそっくりじゃあ親父さんに失礼だ。そうじゃなくって……」ミリアに同意を求めるように微笑みかける。
「リョウもね、人生の無駄遣いはしねえ主義なんすよ。どんな辛ぇことあっても、それをなかったことにするんじゃあなくって、生かそうとするの。こいつは音楽に、だけど。親父さんも一緒っすね。」
主人は膝を叩いて笑った。「無駄遣いが嫌いなのかあ! そりゃあ女房から教わったのかもしんねえ。女房は大根の葉っぱだって、人参の皮だってうんめえ漬物にすっからねえ。二十歳っから一緒にいる女房なんだ。もうすっかりおばさんになっちまったけどね。でも、俺には出来過ぎた女房だ。何せ文句も言わず、こーんなしょぼくれた親父と半世紀も連れ添ってくれてんだからねえ。」
ミリアは意気揚々と叫んだ。「女房さんさすがだわ! そこには栄養がたっくさん入ってるのよ!」
思わずリョウは噴き出した、