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「それでは、受験番号と高校名、氏名を言って下さい。」
ミリアは目の前に並んだ黒スーツの中年女性たちを前に身を固くする。喉は乾き上がり、既に目の前は歪んでいた。しかしどうにか声を絞り出す。
「はい。」まず返事をすること。そう担任に強く言われていたのである。
「受験番号0024、都立S……高校、く、黒崎……。」
ダメだ、ミリアは泣きたくなった。リョウがいた時には緊張感など皆無であったのに、電車に乗って大学の守衛さんにじろじろと見られながら校門を入り、看板と案内の学生に従って真っ白な美しい校舎に足を一歩踏み入れた時から、体がぎくしゃくし始めた。厭な汗が全身に纏わりついて、言葉がいつも以上に出てこない。思いが言葉に接続されない。だのに控室に入るなりすぐに面接室に呼ばれてしまった。あんなに練習をしたのに、声が出ない。台湾に行かなければならないのに。ミリアは拳を膝の上で握りしめた。
「緊張しなくていいんですよ。」白髪交じりの中年女性は柔和な笑みを浮かべ、言った。続いてその両脇にいる二人の面接官も、そうだとばかりにうんうんと肯く。
「黒崎さん、深呼吸、深呼吸。」
面接官の一人にそう言われてミリアははっと息を吐いた。それはまるで久方ぶりかの如き新鮮さを齎す。ミリアは続いて言われた通りに深々と息を吸った。それは今朝リョウが言っていたことだ。緊張したらすーはーしろと、言っていた。ミリアは素直に両手を広げて深呼吸を始めた。
「ふふふ。そうそう。」
「黒崎さん、私たちはですね、あなたがうちの学生としてきちんと学んでいけるか、その意志を確認させて頂きたいだけなんですよ。だから緊張しないで。あなたのことをようく、教えて下さいね。」
「あ、あ、ありがとうございます。」ミリアは慌てて頭を下げた。いつの間にか体が軽くなっている。言葉も出た。リョウの、そして面接官の言うとおりだ。ミリアは嬉しくなった。
「では、おかけになって下さい。」
「はい。」ミリアは鞄を下におろして、腰掛ける。大きな窓からは光がさんさんと照り込んでいる。ミリアは眩し気に目を細め、自ずと微笑んだ。
「この事前レポート、感動しました。まずこちらについて早速質問させて下さい。黒崎さんのお兄様が、病気になられ、その間黒崎さんが料理を作られサポートをしてきたんですね。」
「そうです。」ミリアの脳裏には愛おしいリョウの姿が思い浮かぶ。初めて見た時から大好きだった、今はそうではなくなってしまったけれど、真っ赤な髪を腰まで伸ばしたライオンの如き容貌した人。心から愛おしい、世界で一番愛おしい夫。ギターが誰よりも素晴らしく、デスボイスが誰よりも凄まじく、それでいて誰よりも優しくて料理上手で、一つの瑕瑾も持たぬ人。
「兄は、昨年突然咽頭がんの診断を下されました。バンドマンのボーカリストとして喉を酷使していたのと、それから生活の乱れ等も原因としてはあったと思います。最初に違和感を覚え検査を受けた時、医師の診断では既にステージⅢでした。」
面接官の息を呑む音が聞こえた。
「兄、」その単語がどうもむず痒い。でもミリアは必死に言葉を探していく。考えなくとも勝手に口がすらすら述べていくのは、数え切れぬ程の練習を重ねた成果である。
「兄は、退院を目指し前向きに治療に取り組んでいました。そして私も、……絶対に治ってもらいたいとの一心で毎日夕飯を作って病院に持って行きました。最初は慣れた家庭の味に、美味しい美味しいといって食べてくれましたが、途中から始まった抗がん剤治療があまりに過酷で、食欲不振に吐き気、熱に口内炎とで全く食事を受け付けなくなってしまったのです。そこで、」ミリアは面接官の前に置かれたレポートをしかと見遣った。「一舐めでもしてもらいたいと思い、毎日スープを作っていくことにしました。もちろんがんに良いとされる野菜、果物を中心に、ビタミン豊富にするために考えたメニューを、多くのがんに効く料理の本を熟読しながら毎日考案し作りました。その成果が、」ミリアはようやく唇を綻ばせた。「先生方に提出させていただいた、そちらの事前レポートです。」
面接官は嘆声にも似た溜め息を吐いた。
「兄は八か月に及ぶ入院生活と手術を終え、がんを克服して無事にこの夏退院をしました。兄は身内の贔屓目ではあると思いますが、私の毎日のスープ料理のお陰でがんを克服しようと思い続けることができたと言ってくれました。
食べられない、話すこともできない時にも、それでもスープの匂いを嗅ぎ、それを舐めることで、自分が目すべき健常者としての生活を忘れることなく思い続けることができたと。
その経験から、私は患者さんのために尽力できる管理栄養士になりたいと思うようになりました。
小学生の頃から調理クラブに入り、中学校、高校とも調理部に所属していましたので、幼い頃から料理は日常的に行ってきましたが、兄が病気になって初めて、食事は健康を支えるものでもあり、絶望日々の中でも幸福を与えることができる、ということがはっきりと理解できたのです。
兄はバンドマンで、生活も不規則になりがちでした。ツアーやレコーディングとなると外食も増え、とても栄養バランスに気遣えるような状況ではなかったのを身近で見てきました。でもそのような例は兄だけではなく、多くの現代人が陥りがちなことであると思います。
そこで私は、」
面接官は先程とはまるで打って変わったミリアの姿に、目を見張りほとんど謹聴するばかりになっている。
「現代人が健康で過ごせるための食の提案をすることはもちろん、病気になってしまった患者様にも楽しみに思ってもらえ、かつ病気と戦えるだけの栄養を培える食事を提供できる、管理栄養士になりたいのです。食事を通して、端的に言えば幸せになってほしいのです。食事は日々誰もにとって欠かすことのできない、その意味においてルーチンワークかもしれませんが、そんな日常的な場面場面で幸せを得ることが人生においては一番大切ではないかと思うのです。」
そこまで述べたミリアの胸中にはかつて、父親から与えらた暴力の数々と、同時に何も与えられず、犯罪も辞さないと思考停止するほどの空腹に襲われていたあの日々が思い浮かんできた。その日々を断ち切ってくれたのは、嗚呼、このかばんの中に入っている、あの白い焼きそばなのである。ミリアは焼きそばに対し沸き起こって来た深い愛情と痛烈な食欲に、ごくり、と生唾を飲み込んだ。
「実際に兄が入院している際には管理栄養士さんに何度もアドバイスを頂き、退院後食生活で留意すべきことを教えて頂きました。正直、私ががんに対して勘違いしていたことも多くありましたし、従いまして、不勉強を恥じたことも少なくはありませんでした。しかし、日々の食事が体を作り、したがって積み重ねが大切ということを十分に教えて頂けたことが、私も将来管理栄養士として社会に貢献していきたいと強く思わされるきっかけとなったのです。
兄が退院してからは頂いたパンフレットや、教えて頂いたことを記したノートをよく読み、それに則った料理を作っています。兄は来週検査がありますが、食欲も戻り、今はとても健康そうに生活をしています。ですから絶対大丈夫だと確信しています!」なんだか練習とは違った終わり方になったことに気付いて、ミリアはあれ、と首を傾げる。
「わかりました。それでは黒崎さん。データはお持ちになっていますね。続いてプレゼンテーションをお願いします。」
「はい!」ミリアは意気揚々と立ち上がった。