56
いよいよミリアは受験当日を迎えた。秋空はどこまでも高く澄み渡り、天気を確認しようと窓を開けたミリアは一気に清新な空気に包まれ、すっかり目を覚ました。
「晴れてる。」
「……だな。」
リョウは台所に立ち、卵を焼いている。パチパチと油が爆ぜる音がした。いつもWharfedaleのDiamond 220のスピーカーから流れているメタルは今朝ばかりは、ない。とてもそういう気になれなかったのを、リョウは自分はもしかしたらメタラー失格ではなかろうかと訝った。
「弁当作っといたぞ。これ。」
リョウは赤いバンダナの包みを持ち上げる。ミリアはさっさと窓を閉め、猫柄のパジャマのまま台所に駆け込んでくる。「ちゃんと焼きそば?」
「だってよお、お前が言うから。」リョウはそう言って顔を顰める。「大体弁当に焼きそばは合わねえだろ。」
「合うもん!」
「受験会場で弁当箱からズルズル啜ってたら笑われっぞ。そんで大学生になった時、ああ、あの子受験の時昼飯焼きそば食ってた子だって陰口叩かれてよお、友達出来なかったらどうすんだ。」
「だってだって、焼きそば食べると幸せになれるんだもん! そういう決まりになってるんだもん! ミリアがここ来た時リョウが初めて焼きそば作ってくれて、ミリアはうんと幸せになったんだもん!」
「お前、そういうことはちゃあんと覚えやがんのな。」
ふふ、と微笑みミリアはリビングに置かれた天蓋付きベッドに飛び上がると、パジャマを脱ぎ捨て制服に着替えていく。最後に、左薬指に嵌めた指輪をそっと外してシルバーのチェーンにするすると通し、ネックレスにした。さすがに指輪を嵌めて面接試験を行うのは止めろとリョウに命じられ、ミリアはいつもの北欧系雑貨屋でネックレス仕様のシルバーチェーンを購入したのである。すとんと心臓の前に降りた指輪は、しっかとミリアの中心に寄り添い強固に支えた。ミリアはぱちん、ぱちん、と頬を叩き気合を入れ、ポニーテールを結び上げ、洗面所へ行って顔を洗った。リョウは安堵の溜め息を吐いて、朝食のパンを焼き始める。するとなぜだかミリアは耳辺りに洗顔フォームの泡をしこたま付けたまま慌ててリビングに戻ってきて、「リョウはなあんも心配することないかんね。ちゃあんと合格して、台湾行くから。」ミリアは無意識に心臓の前に手を置き、決意の言を述べた。
「わかったけどよお、お前泡付いてるぞ、泡。」リョウはそう言って手元のまだ使っていない台拭きを見、一瞬躊躇したがミリアに放り投げた。ミリアは机上の鏡を覗き込んでごしごし拭った。リョウはこんがりと焼き目の付いたパンと卵焼きを皿に滑り込ませる。
「ミリアの人生においてね、辛いことはもう全部終わっちゃったんだもの。だから、後はもう、幸せなことしかないの。」
リョウは黙って皿をテーブルに運ぶ。辛いこと、それは何を意味するのか。思い当たる節はあり過ぎた。
「いただきまーす。」ミリアは本当に不幸は全て終え尽くしたとでもいうべき満面の笑みでパンの上に卵を乗せ、大口を開けて口に運ぶ。とろりと半熟になった黄身が口の端に垂れそうになる。「美味しい!」心底嬉しそうに頬に手を添えた。「リョウの卵焼きは世界で一番美味しい!」
「お前それ褒めてるつもりかよ……。誰でも作れんだろ、焼きそばとかよお。」
「でも美味しいもの。」
「ま、良かったよ。しっかり栄養付けて、きちんと受け答えできるようにな。」
「うん。」再び卵を頬張ったまま肯く。
「緊張した時は、深呼吸だかんな。すーはーって。」リョウは自分の朝食を一応用意はしたもののとても食べる気にはならず、ただただ朝から食欲旺盛なミリアの様子を見守った。
「大丈夫よう。でもさ、リョウはライブの前でも緊張したことないね。」
「……だな。」しかし今は緊張しているのである。ミリアの顔色を見、健康上何の問題もないことを確認し、一週間前から丹念に毎晩行ってきたプレゼンテーションの練習を反芻し、大丈夫だ大丈夫だとそればかりを自分に言い聞かせている。それに加え、ミリアには言っていないが、昨夜は三時に目覚めて以来、一睡もできなかったのである。自分も一週間後には検査が控えているというのに、それに対しては全く、我ながら不思議なぐらいに何一つ心を動かさない。一体これはどういうことであるのか、わからない。
「まあ、万が一だ万が一。万が一緊張しちまったら、ライブのこと思い出せ。お前は面接官よりも遥かに屈強な男共大暴れさせてんだ。まあ、今日はギターはねえけどイケんだろ。本質は、楽器じゃねえからな。」
「うん。」ミリアはパンと一緒に厚切りベーコンを頬張る。昨夕スーパーで半額シールの貼ってあった代物である。ああ、こんな時ぐらい半額なんかではない、いい食材を買って来てやるべきだったとリョウは無性に後悔し出した。
「頑張ってくるかんね。」
ミリアは綺麗に完食し、皿を水に漬けると机の上に置いておいた受験票をしっかと凝視して「よし、忘れてない。」と呟きかばんに入れ、「じゃあ、いってきます。」と告げた。
リョウは手一つ付けていない皿を前に立ち上がり、「送ってく。」と言下に発した。
「送ってく?」
「ああ。バイクで駅まで連れてってやるよ。何か、……正直落ち着かねえんだ。」リョウはついに暴露した。「てめえの受験でもねえくせに、あー、何でかなあ。」
「リョウが緊張してる!」
リョウは頭を掻き掻き、銀色のコウモリの付いたバイクのキーを手に取って「ほら、行くぞ。」と背で告げた。
ミリアは目深にヘルメットを被りバイクに跨って、痩せたリョウの背にそっと腕を回す。そこに温もりの感じられるのが、受験に際しての最高の贈り物であるように思われる、その時ミリアはなぜリョウが送っていくなどと言い出したのか解ったような気がした。
「しっかり掴んでろよ。落っこちて怪我でもしたら、目も当てられねえからな。」
「うん。」ミリアは頬をリョウの背に押し付けて肯いた。
いつもならここに棚引く真っ赤な髪があって、ミリアはそれを勝手に束ねてやりながら乗っていたのだ、と思う。でもきっとあと何年か後にはまたあの髪の毛の感触を楽しめるのだ。ミリアは今だけの露骨な背中を楽しんだ。
バイクが低音を轟かせながら出発する。ミリアはそれをメタルバンドのイントロのようにうっとりを聴いた。
「ねえ、バイクってクールな音するね。」後方からリョウの耳元に向かって叫ぶ。
リョウは「だよな!」と怒鳴って返した。「だから俺は車乗んねえんだ! 機材積めるってのはわかってんだけどよお!」
「ミリアもこの音が好き! ラーズ・ウルリッヒのバスドラみたいだもの!」
あはは、と哄笑してリョウは勢い込んでアクセルを回す。ぐん、と身を引かれながらこのまま幸せな未来へと向かっていくのだ、とミリアは唐突に思った。見上げた空には薄い白雲がどこまでも遠く棚引いている。どこまで続くのだろう。ビルディングに妨げられ行方はわからなかったが、不穏さは感じない。そればかりか心がどうしようもなく踊っていく。ミリアはこの風景をいつまでも忘れないようにしようと決意をした。
駅前にはすぐに到着した。バイクを降りたミリアはヘルメットを脱ぎ、リョウに両手で手渡す。
「残念、もう着いちゃった。」
「おお。」リョウはヘルメットを受け取り、身を捩って脇のサドルバッグに放り込もうとした。
ミリアはそれを妨げるようにリョウの頸に両手を回し、そのまま強引に唇に自分の唇を押し付けた。リョウはぎょっとして目を瞬かせる。
「いってきます。」
「……。」
ミリアは小首を傾げて微笑み、再度繰り返した。「いってきます。」
「……いってらっしゃい。」そういうことを公衆の面前で行うのは恥ずかしいことだ、と忠告してやらなければならないと思う。ただ受験の前だからあまりナーバスな気持ちにさせたくもない。それをミリアが狙っているのか、単なる衝動なのか、リョウは答えの出ぬ難問に深々と溜め息を吐いて、「頑張ってこいよ。」とだけ呟く。
「ミリアは合格して、リョウは検査引っかからなくって、台湾行かないとね。」
「だな。」
ミリアは今度はリョウの手を握り締め、「今日ちゃんとお話できるように、お祈りしててね。」と懇願するように言った。
「大丈夫だ。デスメタルの神とギターの神と、それから何だ? あの世でギター弾いてる筈のダイムバック・ダレルにも祈っておいてやるから、心配しねえで練習通りにやってこい。」
ミリアは笑顔で肯く。そしてポニーテールをお転婆な牝馬の如くいきおいよく翻し、早足で人込みの中に埋もれていった。リョウは暫く現れ隠れするミリアの頭を目で追っていたが、やがて改札口に入っていったのを見届けると今度はちゃんとミリアのヘルメットをサイドバッグに放り込み、そしてハンドルを握り締めた。が、その時ふと唇に指先で触れ、先程の感触を思い出した。誰かに見られているのではないかという恥ずかしさが募り、慌ててヘルメットを被るとアクセルを回しバイクを飛ばした。